第4話 波多野は大きく腕を振る

 次の日から、俺は毎日朝と夜、走り込みを行った。

 毎日欠かさず、家から公園までを往復する。片道およそ三キロの道のり。たった一週間の付け焼き刃には違いなかったが、それでも俺は懸命に走った。

 店の手伝いは休んだ。父さん辺りが怒るかなと思っていたが、意外にも何も言われることはなく、むしろ応援されているようにも感じられた。

「お前一人いなくたって、店は回るんだよ。それよりも、今大事なことをしろ」

 父さんはぶっきらぼうにそう言っていた。初めてその背中を可愛いと感じた。

 毎日の走り込みは辛かったが、向坂のためならば頑張れた。だが、毎日朝晩激しい運動をするので、体育以外ほとんど動かしていなかった俺の体は悲鳴をあげていた。

 結果的に授業中は睡魔に襲われるし、風呂の中でも度々眠ってしまうことがあった。布団に倒れ込めば五分と待たずに深い睡眠の世界へと誘われた。運動系の部活をしている人間は、こんな思いをずっとしてきたのだろうかと感慨深くなった。

「吸って吸って、吐いて。スッスッハーだよ。リズム刻んで、呼吸を意識して整える」

火曜日の朝。ボロボロに崩れたフォームで走る俺に、向坂の声が飛ぶ。

 ここ数日、向坂は俺のトレーナーのように練習を管理してくれている。俺は別に構わなくていいと言ったのだが、向坂は「初めてなんだから、面倒見てあげるよ。私も練習のついでなだけだからね」と半ば強引に教えてくれていた。

「一週間でビックリするような体力はつかないからね。幸い、波多野は坂の多いこの町で出前をしてたから、基礎体力自体は他の人よりある。だから、フォームを多少直して、走ることに体が慣れてくれれば、ある程度の記録はきっと狙えるよ」

「ある程度って、厳しいなぁ」

「当然だよ。簡単に走れたらつまんないもん」

 向坂はずっと、この厳しい競技をしてきたのか。俺は改めて尊敬の念を抱いた。

 毎朝三キロのランニング。そのあと柔軟ストレッチをして学校へ行く。それが一週間の日課になった。

 ストレッチの後、汗を拭く俺に向坂が教えてくれた。

「波多野、マラソンの基本は一定のペースで走り続けること。その為には、もちろん地面を蹴る足も重要だけど、腕も大切なんだよ」

「腕? なんで。走るのにあんまり関係ないんじゃないか」

「とんでもない! 体って、全部が繋がってるの。だから、極端な話をすれば、目の動き一つでタイムって大きく変わるの。例えば、ジャンプする時、高く跳ぼうと思ったら絶対一回しゃがんでから跳ぶでしょ。走る時にしっかり腕を振ると、その時と同じように前へ進む動きをサポートしてくれるってわけ」

 一見関係なさそうな動きが、重要な動きを補助しているという話か。

「でも、大きく振ったら体力減るんじゃないのか」

「厳密にはそうだよ。闇雲に振ればいいわけじゃない。でも、波多野は初心者だし、腕も全然振れてないんだから、それに比べれば絶対腕をしっかり振る意識を持った方がいいんだよ。ホラホラ、いち、にっ、いち、にっ」

 向坂の合図に合わせて、腕を軽く前後に振る。

 なるほど、確かに気持ちいい。

 俺は意気軒昂に腕を振っていると、向坂がポツリと名前を呼んだ。

「……波多野」

「なんだ? どこか悪かったか」

「違うよ。あのね、走るのって、スポーツの中でも一番継続するのが難しいって私は思ってるんだ」

「へぇ。ラグビー、野球、サッカー、レスリング。パッと思いつくだけでもスポーツなんて沢山あるわけだが、どうしてそう思うんだ」

「どんなスポーツでも継続の大きな原動力になるのは達成感なんだよね。ボールがバットに当たるようになった。レシーブがまっすぐ上がるようになった。ドリブルが続くようになった。そんな具合で。もちろん、走るのだってタイムや距離って指標があるけれど、でも、走ることは人間の根源的な動作の一つで、どんな運動音痴でも足があれば走れるんだよ。ってことは、走るのって達成感をイマイチ得にくいってことなのね。単純だから手を出しやすくて、それでいてキツいから、三日坊主で止めちゃったりする人が多いの」

「だから、俺がすぐ止めるかもってことか」

「ううん。ずっと続けられて偉いってこと」

 そんな純粋な目で見られると困る。

 俺はなんだか照れくさくなって、ふいとそっぽを向いた。

「鳴ちゃん。最近頑張ってるみたいね」

店に来ていた掛布のばあちゃんが、そう言って顔をほころばせる。

ランニングから帰って来たところを、偶然見られたのだ。

戸惑う俺を脇に父さんがからかった。

「あんまり褒めすぎないで下さいね。コイツ調子に乗るから」

「嫌だわ。そういうこと言わないの。あなたも学生の頃、頑張ってた時があったでしょ。鳴ちゃんにとって、それが今なんだから」

 たしなめられた父さんは、バツが悪そうに奥へ引っ込んだ。

 俺は照れくさかったけど、なんだか嬉しい気持ちになった。

 そんな調子で練習は続き、とうとう木曜日。マラソン大会の前日の朝。

「じゃあ、今日はこの辺りにしようか」

 すっかりトレーナー然としてきた向坂がいつもの半分くらいの距離まで走ったところでそう告げた。

 俺は向坂の言葉に眉を顰める。

「まだ半分も行ってないぞ」

「良いの、これくらいで。大会の前日なんだし、ここで無理したら本番に影響でちゃうでしょ。適度な運動で準備ってことなのよ。今夜はランニングもお休みだからね」

「そんなもんか。軽くなら……」

「ダメです。先達の言葉には従いなさい。大丈夫だよ。波多野は一週間頑張ったもん。きっとやれるよ」

 笑いかけた向坂の目が優しくて、俺はポリポリと頬を掻いた。

家に帰り汗を流して制服に着替える。遅刻しそうな時間だったので、急いで学校へと向かった。

 一週間はあっという間だった。初めは自分自身でもすぐに終わってしまうのではないのかという一抹の不安があったのだけれど、しかし終わってみれば見事に続いた。それもこれも、自分の時間を割いてまで練習に付き合ってくれた向坂のおかげに違いない。

「応援するつもりが、応援されてどうする」

 呟きながら、しかし俺は顔をほころばせていた。

 いつものように学校へ向かい、いつものように自転車を停める。いつも通り昇降口で内履きに履き替え、いつもと同じ教室に入った。

だが、瞬間、感じ取る。俺を見る視線がある。注意を向けられているような、なんだか少し妙な胸騒ぎを覚えた。

なんだろうと思いつつ席に座る。思い当たる心当たりはない。だが、どうにも俺の気のせいにしてはコチラを気にしている人がチラホラと見受けられる。

ゆっくりと教室を観察した。いつもなら、始業の時間まで満遍なく教室中に会話をしている人の輪が広がっているはずなのだが、今日は心なしか、俺の席周辺に空間が出来ていた。

なんだ。また事件でも起こったのか。

自分の伺い知れないところで、取返しのつかない何かが起こってしまったような、そんな嫌な予感が頭を掠める。

だが、予感はあくまで予感。気にしすぎることはない。実際問題、俺に今のところ何か害が加えられたわけではないのだ。いつも通りに過ごせば良い。

俺は自分にそう言い聞かせ、始業の合図を待った。

それからしばらくは、居心地の悪さを感じつつも特に何か起こることはなかった。昼下がりには、きっと本当に気のせいなのだろうと思い始めてすらいた。

だがしかし、昼休みになってその予感は本物だったと直面させられた。

いつものように弁当を広げていても、大月も水屋も机にやってこなかったのだ。俺がキョロキョロと教室の中を見渡すと、前方の入り口からコソコソと出ていく二人の姿を目撃した。

「どこ行くんだよ」

 呼びかけようとして、その声は女子に遮られる。

「ちょっと、いい?」

 声のした方に顔を向けると、眉を吊り上げた女子が、腕を組んで俺を見下ろしていた。こいつは確か、向坂の友達の一人だ。俺とは特に接点がなかったはずだが、何の用事だろうか。

まぁ、どう好意的に解釈しても、良い用事ではないだろうな。

「どうした、えっと……。渡辺さん」

「気安く呼ぶなよ」

 俺がぎこちない笑みを向けると、女子は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「あんた、この前美咲と公園で何話してたの」

「この前?」

「とぼけないで。夜に公園で、美咲と何かやってたでしょ。私、見てたんだから」

「いつの話だ?」

「……一昨日の夜よ。言い逃れは出来ないから」

一昨日と言われても、向坂とは練習しかしていない。何もやましいことなどないが。

そこで気がつく。やましいことなどなかったが、確かに事情を知らない人間が見れば、やましいことに見えただろう。夜に男女が二人きり。大月でなくとも、勘ぐってしまうのが自然だ。

なるほど、今朝から感じていた違和感は、そのことが広まった故の注目に対して抱いていたのだ。つまりは、俺の落ち度だった。

俺は咄嗟に、向坂の影を探す。だが、教室の中に向坂はいない。

「美咲は陸上部のミーティングだから。アンタがどういうつもりか知らないけど、美咲は優しいからね。嫌なことでも断れないの。だからアタシが出てきたんだよ」

「そうか。それは、すまんかった」

「何? 喧嘩売ってるわけ」

 どうしてそうなる。俺は両手をあげる。

「誤解しないで欲しい。俺にやましい気持ちはないし、不快にさせたのなら謝ろう。渡辺さんが心配するようなことをしてたわけじゃないんだ」

「だったら、何をしてたか言ってみなさいよ。やましいことがないのなら、言えるわよね」

 詰めより方が怖い。だが、どう説明すれば誤解を生まないだろうか。

 俺が上手い説明を考えて黙ると、女子――渡辺は一つ舌打ちをして俺を睨みつけた。

「あのね、クラス会来てなかったから知らないかもしれないけど、今美咲は城島くんと良い感じなの。少なくとも、アンタみたいな陰気な奴の相手する時間はないんだから。絶対に美咲の邪魔だけはしないで」

 渡辺は敵対心むき出しで威嚇する。気持ちは容易に察せられた。つまり、友人に近寄ろうとする陰気の虫を追い払おうというのだ。

 少し考えて、なんだか馬鹿らしくなってきた。どうして適当な言いがかりのために、俺が言い訳をしなければならないんだ。

 そう考えれば、気持ちも多少楽になった。俺は一つ息を吐く。

「渡辺さん。俺はやましいことなんて、本当にしていないんだ。俺は彼女の邪魔はしない。する気もない」

「だったら」

「誤解をさせてしまったんだ。行き違いがあった。俺は、そういう空気を読むのが、生憎苦手だからな」

「はぁ? 何が言いたいわけ」

「向坂と関係ないところのいざこざで、向坂に迷惑はかけたくない」

「呼び捨てって、随分気安いのね」

「失礼。向坂さんだったな。ともかく、俺は大真面目だ。大真面目に、本気で、向坂さんを応援したいんだ」

 臆面もなく言い切った俺に、女子は目を大きく丸める。黙る渡辺を見つめ返して、俺は続けた。

「マラソンの練習をしてた。そうしたら、向坂が手伝ってくれたんだ」

「嘘でしょ。なんでアンタがマラソンの練習なんてするのよ。陸上部でもないでしょ」

「決まってる。マラソン大会のためだ」

 渡辺は意味がわからないようで、眉をハの字に寄せる。俺はそんな渡辺にもハッキリ聞こえるように、声を大きく宣言した。

「明日のマラソン大会。俺が一位を取る」

「え、なんで」

「決まってるだろ。向坂さんを応援するためだ」

 言い切って、お互いにジッと目を見つめ合った。

 一分もしなかっただろう。渡辺は俺から視線を逸らして、

「バカみたい」

 そう言い残すと鞄を掴み教室を出て行ってしまった。

 出て行く渡辺の背中を見つめる。しかし、次の瞬間、さぁと血の気が引くのがわかった。とんでもない啖呵を切ってしまったことに気がついて、思わず頭を抱えた。

 なんてことを、昼休みの教室でどうどうと宣言してるんだ。

 下唇を噛み、顔を伏せる。このことはすぐに城島の耳にも入るに違いない。

 俺はその後一日中、針のむしろに座る気持ちで授業を受けたのだった。

 そして、日は巡り、マラソン大会当日になる――。




   二


「さっきからずっと言ってるじゃん。高くトスを上げてくれるだけで良いって。ボールは俺が全部決めるから。あと少しでマッチポイントなのに、真面目にやってる?」

 語気を強めて叫ぶ。チームメイト達を怒りつけながら、ああ、これは夢だと気がついていた。

 懐かしい光景だ。体育館。どこかの芸術家が掘ったモニュメントが入り口上部の壁に掛けられている。中学校の体育館だ。

 目の前にいるのは、球技大会でチームを組んだクラスメイト達。バレーボールを持っているし、顔ぶれからもこれが中学三年の時の風景だとわかる。

 十六対二十三で、点差は圧倒的。もちろん、圧倒的に負けている。バレーボールは二十五点先取だから、あと二点取られれば俺達の負けだ。

 俺は随分怒っている。何に怒っているのだろう。思い出せそうだが、思い出したくはない。

 チームメイト達の表情は、皆俯きながらも一様に不満げだった。

 今考えれば至極当然の話だ。たかが体育の球技大会。本気で勝ちを求めている人間などいない。みんなそれなりに楽しく、愉快に遊べればそれで良い。

 俺はそんなある面から見れば不真面目なチームメイトの態度が気に食わなくて、一層怒りを増幅させていた。

 見苦しくて、みっともない。

 そんなに本気でバレーをしたいなら、部活に入れば良いではないかと今では思う。だけども同じ脳みそでわかっていた。この時の俺自身が、勝ちにこだわっているわけではないと。

 口先では勝ちにこだわるよう求めて、翻訳してみれば本音は実に醜い。要するに「俺がもっと気持ちよく目立てるように、俺が活躍するためのお膳立てをしろ」だった。

 考えているところへ、チームメイトの一人が、耐えかねたように口を開く。

「お前さ。確かに楽しいだろうよ。俺達よりスパイクも決められてるのかもしれないよ。でもさ、お前とやっててもつまんないんだよね。そんなに一人で快感得たいなら、一人で全部やってろよ。お前、キモいんだよ」

 確信をつく一言だ。俺はこの言葉を受けた時、冷や水を浴びせられたように感じた。

 この光景を懐かしいと感じることを意外と思う。でも、心地良い懐かしさでは決してない。出来れば思い出したくない苦い思い出の一つであって欲しかった。

 俺は、生来こういう人間だった。自分が楽しくなると周りのことが見られなくなる。なんとかしようと思いながら、一方でなんとかするために動いたことはなかった。

 こういう衝突も一度だけではなかった。正面から言葉を浴びせられたことこそ、この一回だけだったが、高校に上がるまでに衝突は何度も繰り返していた。

 だから自然と、周りの空気に入らないようにしようと考えていた。初めから空気の外にいれば、周りを見なくても良い人間であれば、衝突することもなくなるだろうと思った。

 でも――。

「つまり、私の応援団になってくれるんだ」

 向坂がそう言ってくれて、俺の日常は少しだけ変わった。変わってしまった。

 向坂のために何かしてあげたいと考えるようになった。あまつさえ、教室の中で啖呵をきって、マラソン大会一位を目指しているのだ。

 どうして、また空気の中に飛び込むようになってしまったのだろう。

 結論は出るだろうか。今はまだ出ていない。走れば何か変わるだろうか。走ってみなければわからない。

 でも、今の俺は、マラソン大会の結果がどうあったとしても、向坂に出会わなかった方が良かったなんて、絶対に思わないだろう。

 遠くから声が聞こえる。目が覚めれば、激闘の一日が始まって、もう立ち止まることは許されない。

 夢の終わりは、近い。


   〇


 マラソン大会当日。天気は晴れ。俺はいつも通りに教室へ向かう。

 昇降口で靴を履き替えて教室の中へ入った途端、中にあった視線が、一斉にこちらを見た。

 気のせいではなかった。昨日の倍ほどの不快な視線が体中に突き刺さる。原因はわかっていた。昨日の啖呵だ。

「落ち着け。気にすることはない。今日は、走るだけ」

 自分に言い聞かせて席に身を収める。

 チラリと前方に視線をやると、大月と水屋と目が合った。二人は俺を見ていたが、しかし慌てて目を逸らす。俺はそれに、少しだけモヤっとした感情を抱いたが、気にしていられないと考えるのをやめた。

 しばらくして教室に入ってきたのは、城島だった。

 城島は入って来た途端、俺を睨みつけた。城島とはクラス会があった辺りから一言も交わしていない。だが、あの目線には明らかな敵意を感じた。話は伝わっているのだろう。

 そのまたしばらくして、向坂が教室に来る。向坂は教室の中の異質な雰囲気を読み取って一瞬戸惑ったように口を開けたが、何事もなかったかのように席にまっすぐ向かった。友達に挨拶をしながら、一瞬だけ俺を振り向き、口を動かす。

 おはよう、と言ってくれた気がした。きっと、向坂自身は昨日の啖呵のことを知らないのだ。そうでないと、この反応はおかしい。

 間もなく、始業のベルが鳴る。マラソン大会は、昼から行われる。そのため、一、二時間目は通常授業があった。数学、今日は閾値の勉強だ。しかし、授業を聞く方の手はどこか浮ついている。

 窓の外をふと見やると、手の空いている先生達だろうか、グラウンドの上でテントや備品の最終調整に忙しい人影が見受けられた。

「おい、これは中学の範囲だぞ。答えられないのか」

 教卓に立つ先生が渋い顔をした。指名された生徒が、答えを出せなかったらしい。黒板を見ると、簡単な二次方程式が書かれていた。落ち着いてやれば、解けないはずはなかった。

つまりは緊張しているのだ。本気の奴も、適当に手を抜こうとしているやつも。俺も、胸に手を当てれば心臓の強い鼓動を感じる。俺の胸のドキドキは、いったい何のドキドキなのだろうか。わからなかったので、深呼吸をしておくことにした。

 二限目が終わり、着替えてグラウンドへと移動になる。俺は言葉を交わす友達がいないので、手早く着替えて外へ出る。

 グラウンドにはクラスメイト達が沢山いた。めいめいに下らない雑談をしながら、自分の発走時間を待っている。

 俺は準備運動をしながら、周囲の様子を伺った。

 俺の高校のマラソン大会は各学年、男女別になって走る。男子は五キロ。女子は三キロ。口に出してしまえば大したことのない距離にも思えるが、五千メールと言われれば怖じ気づいてしまう。

当然、フルマラソンではない。が、普段からマラソンのトレーニングを積んでいないほとんどの生徒にとって、拷問以外の何物でもないだろう。

事前に聞いていた流れによれば、まず女子が一年、二年、三年の順でスタートするらしい。男子はその後だ。

俺は向坂のスタートを見送ろうと、彼女を探した。

向坂は集団の中で一人、黙々と準備運動を続けていた。

白い半袖シャツに紺の半ズボン。学年ごとに決められた色のラインが入っている。一年生は紫だ。シャツの胸元には同じく紫の刺繍が入っていて、「向坂」の文字が堂々と前を向いている。こう思うと、我が高校は体操服に良い物を使っているらしい。

黙々と準備運動を続ける向坂は、どこか話しかけづらい雰囲気があった。だから、俺はただまっすぐ、向坂を見つめていた。

「おい、そろそろだぜ」

 近くにいた男子がそう言った。少し離れた位置にいるジャージ姿の先生が拡声器を手に取る。

「それじゃあ、一年女子は位置について」

無機質なスピーカーの音が、女子を前方に引かれたスタートラインへと促した。ゾロゾロと、一年生女子達が集まっていく。向坂の姿は、もちろん先頭にあった。。

 体育委員がスタートピストルを構える。体操服の色からして二年生だろう。彼はまっすぐ延した腕をピタリと耳に当てると、目を瞑って引き金を引いた。

 乾いた号砲。一斉に女子達が走り出す。わらわらと蠢く集団はグラウンドから出る頃には縦長の形に変化している。きっと、校門から公道へ出る頃には先頭集団と後方集団で分断されるだろう。

 いよいよ向坂が飛び出していった。間もなく、俺もスタートラインに立つ。

 ふと視線を横に滑らせれば、城島が仲間達と談笑しながら準備運動しているのが伺えた。意識してはならない。必要以上に。でも、意識してしまう。

 俺は深く深呼吸をして、心を落ち着けようとした。

 予定に従えば、一年男子の発走はこれより三十分後のはずだ。三十分後には、否応なく、俺の戦いが始まるのだ。

 たった一週間。されど、一週間。出来る努力は果たしてきた。

「頑張ってる姿で、応援する」

 矛盾しているような思い。でも、確かに届けたい決意。今、自分に出来る以上のことをする必要はない。大切なのは自分のベストを尽くすことだ。

 …………。

 だがその前に、トイレくらいは行っておいた方がいいだろう。

 体育館の脇にあるトイレに駆け込んで用を足す。手を洗っていると、横にあるドアが開かれ、外にいる生徒と目が合った。城島だ。

 城島は俺を見ると、一瞬不機嫌そうな顔をしたが、すぐに無表情に戻り俺の脇を通り抜ける。

 少なからず意識はされているだろう。俺は同じ空間から逃れたくて、すぐにトイレを出ようとした。

「おい」

 ドアノブを回す手を止められる。城島が声をかけてきたのだ。トイレには俺と城島しかいない。間違いなく、俺に話しかけている。

 無視するのも角が立つので答える。

「どうした」

「負けねぇからな」

 それだけ言うと、城島は口をギュッと結んでしまった。

 気持ちいいやつだ。思っていたよりも。俺は何か言おうとして、そんなものは余計だと気がつき、黙ってトイレを出た。

「それでは、一年男子はスタート位置に集まって下さい」

 スピーカーの音が、集中しようとしていた俺の思考を遮る。グラウンドに戻ってきてそんなに経っていない気がしていたのに、もうスタートになるのか。

 俺は出遅れないように、慌てて前の位置についた。そして横に立つ人物を見て驚く。横にいたのは城島だった。城島は俺に目もくれない。それでいいと思った。

 三年体育委員が、スッと腕をあげる。

「位置について」

 体が強ばる。外にいるはずなのに、胸を打つ心臓の音しか聞こえない。

頬を汗が一筋、伝った。

 号砲が鳴る。弾かれたように、俺達は走り出した。




   三


「金曜のマラソン大会で一番大切なのは、中間地点にある左衛門像だよ」

 トレーニング終わり、ストレッチをする俺に向坂が言った。

「マラソンにとって、フォームと同じくらい大切なのがペースなのね。全体の配分を考えて、理想的なペースで駆け抜ける。それがマラソン大会での勝敗を分ける。極端な話、ペースをしっかり守って走る小学生と、我武者羅に全力疾走するウサインボルトが競ったら、マラソンで勝てるのは小学生なの」

「で、そのペースを考えるのに大事になってくるのが、コースってわけか」

「波多野、覚えが良いね。見直したよ」

 上機嫌な向坂に尋ねる。

「一つ良いか。前から思ってたんだが、全力疾走しようが、ペースを維持しようが、体力の絶対値は変わらないんじゃないか。なら、最初から全力疾走した方がトップスピードになれる時間が多い分お得だと思うんだが、どうだ」

「あー、なるほど。言わんとするところはわかるよ。でもね、それはよくある間違いなの」

そうなのか。

「例えば、同じ量のガソリンを積んだまったく同じ車が二台あったとする。片方は最初からアクセル全開で飛ばし、片方は一定の速さで走る。さて、五キロ地点に先に着くのはどっちかな」

 そりゃあ。

「アクセル全開の方だろ」

 俺は首をかしげたが、向坂はそんな俺に頭を振って見せた。

「正解は、一定のペースで走った方です。だって考えてみて。アクセル全開の方は、それ故に途中でガス欠を起こして走れなくなるでしょ?」

 俺は思わず冗談を挟んだ。

「五キロなら走りきれるだろ」

「そうだね。これは私の例が悪かった。百……だと、どっちも走りきれないのかな。五十キロ。それくらいがちょうどいいでしょ。多分。ごめん、車よくわからないから、そもそも車を引き合いに出したのが間違いだった」

「悪かった。俺が変にからかった。言いたいことはわかる。要するに、無駄なエネルギーを使ってしまえば、結果的に最速で向かえないという話だな」

 向坂は俺を指さして「それ、そういうこと」と頷いた。

「だが、それでも全力で走って、限界のちょっと手前でペースを落とし回復して、またギリギリまで走った方が効率的じゃないか」

「それは、ゲームをよくする人の発想っぽいね。ゲームでは確かにそれで良いかもしれないけど、現実では走りながらの体力回復は思ったようにいかないし、加速、減速に切り替える際もエネルギーロスは発生する。やっぱり、ペースを一定に保った方が早くなるのよ」

 そんなものなのか。マラソンの考え方は難しい。

「マラソン選手の目標は、いかに早くゴールまで辿り着けるのかってところにないの。それよりも、いかに自分が走り続けられるペースの最速ラインを引き上げていくのかっていうところにある。どれだけ速いタイムを目指すかという最終地点は同じだけど、そこに至るまでのプロセスが違うって感じなのかな。ここに、マラソンの面白さが詰まってるんだけど……」

 つらつらと語っていた口を押さえた。なんだろうと表情を伺えば、耳まで真っ赤に染めている。

「どうした。なにか、マズいことでも思い出したか」

 訊ねる俺に向坂はか細い声で返事をした。

「恥ずかしい、喋りすぎた」

 さいですか。

 向坂は一つ咳払いをする。

「で、マラソン大会に話を戻すね。金曜のマラソン大会のコースは、覚えてる?」

「授業の中で試走もしたから、なんとなく」

「結構。この町は、もともと山だったところを開発して出来ているんだけど、マラソンのコース全容をざっくりと表現するなら、平坦な場所からスタートして山を登り、また降りてくるルートなの。で、その境目にあるのが、中間地点の左衛門像」

 左衛門像は、この町に古くからある像だ。なんでも、明治維新の頃に活躍した地元の偉人らしいが、そのエピソードをよく知っているわけではない。町をぐぐっと登った場所に立っていて、散歩がてら見物に行く住民も多かった。

「あんまりマラソンを競技としてやってない人達の競走なら、登りで逆転することはあっても、下りで逆転することはまずないわ。つまり、登りでどれだけ前にいられるかが、マラソン大会で勝てるかどうかに直結してくる。極論、左衛門像を一位で通過した人が、マラソンで一位になるってほど」

「そんなになのか。じゃあ、全力で通過せんとな」

「当然、ペースを一定にってのが大前提だからね。いくらトップで通過しても、ヘトヘトで倒れちゃったら抜かれちゃうわけだし」

「だが、例えペースを守っていても、左衛門像を先越されれば、勝てなくなる」

 ならば、話がシンプルだ。左衛門像までの登り坂、一位を目指す。誰にも追い抜かされずに、トップで左衛門像を通過する。それだけが、俺の勝つ道なのだ。

 俺は胸の中に決めていた。必ず左衛門像を最初に通過してみせると。


   〇


 校門を出ると目の前は大通りだった。そこを右に曲がって、川沿いへと出る。いつか、向坂と二人で話した河川敷に降りて、右手に川を見ながら平坦な道を進んだ。道は舗装されているけれど、少し外へ逸れれば途端に砂利や土に変わる。悪路を走る練習はしていない。俺はアスファルトをしっかりと踏みしめた。

 スッス、ハー。呼吸でペースを作る。頭は上げて、顎を引く。腕をしっかり振りながら、地面を蹴る。漫然とこれまで行っていた「走る」動作。それを爪先まで意識して動かすと、途端に抵抗がなくなったような気がした。「走る」ことを意識した走りは、こうも違うのかと、初日は驚いたものだ。

 俺は先頭集団の中で走っていた。全体でみれば六、七番目の位置。良い位置だと思う。言い聞かせる。

 道の脇から声援が聞こえる。ガンバレとか、しっかりとかそんな声。先生や、もう走り終えた女子の姿が見受けられた。向坂も、走り終えたのだろうか。

 一キロを過ぎたあたりで坂道を上り商店街に続く通りに入った。この商店街ははじめ緩やかな坂になっており、奥へ進むにつれ急勾配になっている。正面を見ると、道が上向いているのがわかる。これから、この道を進むのだ。

 スッス、ハー。ペースを保ちながら一歩一歩着実に進む。俺の位置は早くも、遅くもなっていない。相変わらず、前には人の影がある。少しだけ後ろを見れば四、五人が着いてきていた。先頭集団は、これでもう決まりだろう。

俺の位置から先頭まで、ペースを上げればすぐ届くほど近い。一方で、後続から俺までも、同じくらいに近かった。ほんのり、焦りが首をもたげる。もっと前にいなくてもいいのか。下り坂になれば、勝ち目はないぞ、と。

 嫌な考えを振り払う。ペースを乱せば、それこそ勝ちの目はなくなる。誰にも負けない気概で臨むが、何より自分をしっかりと持たなければならない。練習通りに走る。それが一番良いはずだ。

 だが、坂はまだ急じゃない。ペースを上げるなら、今のうちではないだろうか。

 そんなことをうだうだ考えていた俺の横を、スイと通り過ぎる人影があった。

 顔を上げて、そいつを見た。城島だった。

 城島は何も言わない。元々二人で話したこともない間柄だし、まして走っている最中にお喋りなど、体力の浪費に他ならない。

 だが、俺を抜き去ったその僅かな時間。城島の目が俺を捉えて、そしてこう言ってきた気がした。

「お先にどうも」

 ハッとした。それは確信だった。ここで置いていかれては、俺は多分、城島に勝てない。

 体中の血液が沸騰するようだった。

 俺は地面を蹴る足に力を込める。ペースを上げる。道路が緩やかに右へ傾いたところで、城島を再び追い抜いた。

 スッス、ハー。呼吸は乱さない。それでも、着実にペースを速める。練習でしていたことだけして、何になる。俺の目的は練習の成果を出すことじゃなかったはずだろ。

 腕を振って、さらに一人抜く。また一人抜いて、もう一人抜いた。前を走るのはあと二人。その背中にも、もう届きそうな位置。

 俺達は商店街を走り抜けて、民家が並ぶエリアに入る。坂の勾配がさらに急になり、膝への負担を増した。

 それでも、俺は構わずにペースを上げた。森の木々が風でざわわと鳴っている。濃い緑の匂いが鼻腔をくすぐる。段々と急になる坂道を、重力に逆らって登っていく。そして一人を抜き去って、とうとう前には一人だけになった。

 息づかいが荒くなる。呼吸のペースを維持出来ない。無理に足を速めたせいだ。落ち着いて、息をしよう。このハイペースだって、我武者羅というわけではないのだから。

 後続の息づかいが段々と離れていき、俺は先頭との距離を少しずつ詰めていく。だが、あと一歩届かない。

 自分の足音が大きくなっているのがわかった。フォームが崩れはじめているのだ。傾斜はもうかなり険しく、ただ登るだけでも辛いだろう。心臓破りの坂だった。坂を登る練習はしていない。

 浅くなる呼吸を懸命に維持しようとする。大切なのは吸うタイミング。酸素をリズム良く取り込んで走る。俺はこの一週間ずっとそうしてきた。

 不意に後ろから荒い息づかいが近づいてくるのがわかった。

 振り替える気力はなかったが、なぜだか誰が近づいてきているのかわかった気がした。

 俺は負けじとペースを上げる。後ろの影もさらに追い上げる。

 左衛門像はこの坂を登り切ったところにあった。あと少しのはずだった。

 俺は無理にでもペースを上げた。先頭をやっと追い抜く。彼は確か陸上部だった気がする。焦った表情は見せなかった。

 俺は安心してなかった。すぐ後ろに、もう一人近づいているのに気がついていたからだ。

「おぉお!」

 背後でその人物が吠えた。足音が力強くなり、俺の隣に並んでくる。

 やはり、それは城島だった。負けられないのは彼もだった。当然、俺も負けられない。

「折り返しまであと百メートルだ。ガンバレ」

 坂の途中にいる先生が声をかける。それが契機となったのか、城島がさらにペースを上げた。俺も負けじと加速する。

 息が苦しい。呼吸はすっかり乱れていた。おかげで後続はかなり離れてしまって、今や城島との一騎打ちの様相を成している。

 城島がペースを上げれば、俺も負けじと食らいつき、俺が足を速めれば、城島がそれに続く。どちらが先に潰れてもおかしくないハイペースで、俺達は坂を登っている。

 息を絞り出す。辛い、苦しい、止まってしまいたい。その思考を振り払う。一歩でも前へ、ほんの少しだけでも先へ。まだやれる、まだ走れる。あと少し、もう少しだ。

 一瞬、視界が眩んだ。酸素不足か。少し城島に遅れてしまう。慌てて、取り戻そうとするも、もはやほとんど同じペースで足を運んでいた城島には、簡単には追いつけない。

 あと一人抜けば、城島を抜けば折り返しをトップで通過できる。もう少しなのに力が出ない。力を出したい。まだ走っていたいと頭が叫ぶ。

「ガンバレ」

 ふと、そんな声が聞こえた。

 誰かを応援する声自体はここまでも聞こえていた。だが、その声は聞き覚えがあった。目をやらなくても、誰かわかった。

 その声はもう一度叫んだ。

「ガンバレ! 波多野! 腕を振れ!」

 他でもない向坂だった。向坂が、俺に向かって言ってくれていたのだ。

 応援したい相手に、応援されてどうする。俺が頑張る姿を見せて彼女を応援したかったのに、これでは本末転倒である。

 まったく情けない。申し訳ないとすら思う。でもそれ以上に、向坂の応援で俺の体の奥底から、再び力が湧き出てきたように思えたのだ。

 顔を上げて、顎を引く。腕を大きく振って、リズム良く呼吸を刻む。

 俺の体は再び勢いを取り戻し、城島の背中にぐんぐんと迫って、とうとうトップに躍り出た。

スッス、ハー。呼吸はまだまだ荒っぽいけれど、もう少し、まだ走れる。

左衛門像が見えてきた。俺はギュッと拳を握って、大きく腕を振った。道の脇からの声援も、木々のざわめきも、城島の息づかいも。

何もかもを置き去りにする。腕を振り、前へ前へと進む。

そして俺はその勢いのままに、左衛門像を先頭で走り抜けたのだった。




   四


 気がつくとそこは見慣れない天井だった。体を起こせば、ベッドで眠っていたのだとわかる。周囲をカーテンで仕切られており左手から風を感じた。そこで俺は、保健室にいるのだとわかった。

 ぼんやりとした意識で、どうして保健室にいるのか思い出そうとしていると、カーテンが勢いよく開けられる。

「ああ、おはよう。気分はどうだ?」

「……」

「気分はどうだと聞いてるんだよ。まだどこか痛むのかい?」

 そこに立っていたのは、白衣に身を包んだ若い女の先生だった。彼女は無言の俺に不安そうな表情を見せてくる。俺は慌てて否定する。

「いえ、平気です」

「そう、ならよかった。吐き気とかもない?」

「まったく。むしろ、横になってたから朝よりも元気なくらいで」

「そりゃよかった。熱中症なんてなっていたら、冗談にもならないからね」

 先生は笑うと、机の上のバインダーを手に取って何やら書き込んだ。

 俺はおずおずと訊ねる。

「あの……、マラソンはどうなったんですか?」

「はっは、元気だね。起き抜けにマラソンのことを聞くのか。そりゃあ、あれだけ頑張ったんだから気になるよね」

「頑張ったって、まぁ、はい」

 先生は穏やかな表情で俺を見つめると、

「君は、途中で倒れたんだよ。健闘賞だ。よく頑張ったね」

 そう言って短い拍手をしてくれた。

 薄々、そうではないかと思っていた。ゴールした記憶はなかったし、体操服のまま保健室で眠っていたのだ。だから、特別に驚いたりはしない。

 けど、悔しかった。俺は向坂に頑張る姿を見せて、マラソンで一位を取るはずだったのに、オーバーペースした挙げ句、途中でリタイアしてしまったのだから。

「頑張ってた分、悔しさもひとしおだろう。けど、まぁ、そういうのも若いウチにしか味わえない悔しさだ。存分に噛みしめなさい」

 先生の言葉の意味はよくわからなかったが、なぜだか心の内を見透かされたようで、俺の頬に涙が伝っていた。

 しばらくして、俺は保健室から教室へ戻ることにした。時間は四時半を過ぎていて、とっくに放課後になっていたらしい。

 保健室を出る時、先生は笑っていたが、俺は笑える気分じゃなかった。

 とぼとぼと廊下を進んで、教室のドアに手をかけたところで、違和感に気がついた。教室の中がやけにザワザワしているのだ。中へ飛び込むと、教室の中央で城島と向坂が向き合っており、それを見物するようにクラスメイト達が取り囲んでいる。俺は水屋と大月を探す。二人は、掃除ロッカーの前で何やら話をしていた。駆け寄って捕まえる。

「おい、ちょっと良いか」

「お、波多野じゃん。お疲れ」

 二人は保健室から戻ってきた俺に驚きつつもねぎらいの言葉をかけてくれた。しかし、俺はそれどころではない。血相変えて訊ねる。

「これはどういうことだ。なんで、城島と向坂が」

「どういうことだもなにも、クラス会で言ってたことの伏線回収だろ」

「と、っととと、と、ということは」

「落ち着けよ」

「城島は、一位を取ったってことなのか? あの後」

 驚きながら、目を瞬く俺に大月は首を振る。

「いんや。全然、確か七位とかそこらだっけか。まぁ、それでも良い順位だけど。一位は、普通に陸上部のやつだったよ」

「じゃ、じゃあ、これはどういう」

「まぁ、良いから見とけよ。お、ほら、始まるぜ」

 大月の言葉に背後を見ると、城島が息を一つ吐いたところだった。

「向坂。呼び止めてごめん。でも、クラス会のこと、覚えてるか?」

「覚えてるよ。マラソンで一位になったら、彼氏にしてくれって、言ってたよね」

 向坂は周囲の視線をくすぐったそうにしながら、城島の方に目を向けている。

 城島が続ける。

「俺、結局一位にはなれなかったけど、でも本気なんだ。本気で向坂が好きだし、付き合いたいって思ってる。向坂、お前が好きだ! だから、俺と、付き合ってください」

 後半、ほとんど叫ぶようにして、城島は向坂に手を差し出した。

 マジか、言ったぞ。向坂は? 向坂はどうするんだ。

 だが、向坂はその手をすぐに握り返さない。俺も含めて、周囲が息を飲む。

「…………」

 黙る向坂の肌は夕焼けの赤色が反射して、その綺麗な顔を更に儚げに染め上げていた。向坂は少しだけ困ったように視線を泳がせる。何か言葉を選んでいるようで、何か迷っているようでもあった。

 一同でそのいきさつを見守る。俺も、その中の一人だった。

 ふと、向坂と目が合った。向坂は俺を見つけると嬉しそうに笑って、そして瞑目し、城島を見つめ返す。

「ごめんなさい」

 それは大きな声でなかったけど、けれどどうして、俺達の耳にハッキリと届く声だった。

 城島が顔を上げる。ぽかんと口を開けたのは、向坂が、とても穏やかな表情を浮かべていたからに他ならない。

「ごめんなさい。気持ちはすごく嬉しいです。でも、私は城島くんとは付き合えません。だから、ごめんなさい」

 向坂の答えは、ノーだった。

「マジかよ。聞いたか。城島フラれた」

「うっそー。なんでよ。城島くん可哀想」

教室にどよめきが走る。

 城島は、向坂の言葉に眉を力なく下げていたが、やがて手のひらを握り込むと、体を起こして肩を落とす。そしてポツリと呟いた。

「理由、聞いてもいいか?」

「……城島くんの気持ちは本当に嬉しい。でも、私、今は恋愛とかしてる余裕ないんだ。それよりも、ずっと、本気で、陸上に打ち込みたいって思ってる。だから、あなたの気持ちには答えられない」

 言い切った向坂の目は、まっすぐ前を見つめていた。それは正面にいる城島を見ているようで、しかしもっとずっと先にある、何かを見ているようでもあった。

 城島は、何かを言おうとした。くしゃくしゃになった顔で、何か意味のある言葉を吐こうと「あー」とか「うー」なんて言葉を漏らした。

しかし、城島は全て飲み込んで、代わりに大きく息を吸って、吐き、破顔する。

「そっか。それじゃあ、仕方ない」

 それが緊張を破ったのか、教室中で一斉にざわめきが広がっていった。野次馬根性で二人について話すもの。城島を慰める者。向坂に「なんで」と問い詰める者。様々な人がそこには集まっていた。

 だが、向坂は前を見据えていた。

「よかったじゃん波多野! お前、まだチャンスあるって!」

 肩を組み騒ぎ立てる大月の言葉を右から左に受け流しながら、俺はその横顔を見て、本当に、綺麗だと思った。


   〇


 その週末の日曜日。

 俺は向坂とグラウンドに来ていた。

 向坂の練習を見させてもらうためだ。

 向坂は軽やかに走っていた。もう迷いなんてなさそうだった。

「そろそろ帰ろっか」

 練習を終えた向坂が言う。

 あれから、俺の日常は少し形を変えて戻ってきた。

教室で城島と顔を合わせると、

「おはよう」

と声をかけられるようになった。親近感でも持たれたのか。

反対に渡辺からは、すれ違う度に睨まれている。きっと、向坂が城島の告白を断ったことを、俺のせいだと思っているのだろう。大月や水屋以外とも少し話すようになっていた。マラソン大会以来、俺の日常はそんな感じで少しだけ賑やかになったのだ。

ランニングも続けていた。マラソンを終えたのだから止めても良かったはずなのだが、もう走らないと違和感を覚えてしまうようになったのだ。健康に悪い訳でもないし、飽きるまでは続けようと思っている。

 そして向坂は今、夏の大会に向けてトレーニングを頑張っているらしい。もちろん、応援に行くつもりだ。

「なぁ、なんで告白断ったんだ」

 俺は何気なく向坂に尋ねた。

 向坂は汗を拭きながら「うーん」と考えると、

「アレはね、二人に感化されたんだよ」

「二人?」

「そう。あんなに一生懸命走られたら、私が怠けるわけにもいかないって」

 そうやってクスクスと笑った。無邪気な子供のような笑顔に、屈託はない。

 向坂が頑張ってくれるなら、俺は嬉しかった。だって、それが俺の一番の目的だったのだから。

 俺はふと思い出したことがあり、「あ」と声をあげた。

「そうだ。思い出した。向坂に言いたいことがあったんだ」

「どうしたの。悪いけど、波多野と付き合う気もないよ」

「そんなんじゃない。……お昼ご飯、まだ弁当自分で作ってるのか」

「えー。あー、そうね。まだ自分で作ってるよ。それが、どうかしたの?」

「向坂の弁当、俺が作っても良いか。その、あれじゃ心配なんだ。栄養バランスを考えた上で、十分な量を保証しよう。俺に、弁当を作らせてくれ」

 俺はそう言って、頭を下げる。向坂は少し考えた後、俺の右手を取ってギュッと握った。

「どうして、そう思ったの?」

 その質問への答えは、もう明らかだった。

「だって俺は、向坂の応援団長だからな」

「……なにそれ。心強いね」

 二人で思わず笑い合う。俺は、今日からこの先ずっと、向坂のことを応援していこうと心に決めていた。

 夏が近い。梅雨の雲が少しずつ顔を覗かせている。でも、当分は晴れの日が続くはずだった。

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波多野は大きく腕を振る ラピ丸 @taitoruhoruda-

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