第3話 やるべきことは

 大月から聞いたことの顛末は次の通りだった。

 金曜はクラス会として、体調不良や俺のような奴を除いてほとんど全員が出席したらしい。グループは二つ作られて、大月達は城島、向坂と同じ部屋で歌うことになった。

 初めは改めて自己紹介した後、好きな曲を一曲ずつ順番に歌っていたようだが、後半になると歌い続ける人と普段会話している仲で話し続ける人に分かれていった。城島はその中で、主に隣に座っていた向坂にずっと話しかけていたようだ。

「マイクを握り続けてたのも、城島といつもつるんでる奴だったけど、城島はそいつには目もくれずに向坂と楽しそうに話してたぜ」

 それで、歌をスルーされ続けた友人が最後に『おい、お前も何か歌え!』と城島を指名した。

城島は『仕方ないなぁ』と呟いてマイクを握ると、BUMP OF CHICKENの『天体観測』を見事に歌い上げて、その勢いのまま向坂に手を伸ばした。

そして誰も何かを予感していない間に、声を張り上げこう言ったのだ。

『向坂! 君が好きです。大好きです。世界中の誰よりも。次のマラソン大会。それで俺が本気なんだって証明してみせます。だから、もしも俺が今度のマラソン大会で一位になったら、俺の彼女になってくれませんか』

 向坂も含めて、その思いも寄らない告白に呆気にとられた。

 全員の視線が向坂に注がれる。

 向坂は少し俯いて、ゆっくりと答える。

『わかった。考えるね』

 そうしてクラスメイト全員にとんでもない衝撃を残して、クラス会は解散になったのだ。

「いや、まさかあそこで告白するなんて思わなかったぜ。ドラマかよって、つい思っちゃったもんな」

 大月は腕を組んで訳知り顔で頷く。

「でも、向坂さん、まさかあそこで告白されるなんて夢にも思ってなかっただろうね」

「俺、帰る時に、向坂さんが誰よりも早く立ち去ってんの見たぜ。アレは完全に照れてた。はぁ、ヤダヤダ。夫婦漫才なら劇場でやってこいって話だぜ。無理矢理見させられるこっちの身にもなってほしいっての」

 大月と水屋が昨日の顛末について好きに言う横で、俺は昨夜、車の中で聞いた母の言葉を思い出す。

『女の子には、悔しくなる時があるのよ』

 向坂はもしかして、城島の告白があったから家に来たのか。でも、悔しいってなんだ。どうして城島から告白されることが悔しいということになるんだ。

 でも、昨日の向坂の様子は普通じゃなかった。少なくとも喜んでいるようには、俺には見えなかった。

 向坂は、何を感じているのだろう。大丈夫なのだろうか。

「お、噂をすれば影だ」

 大月の言葉に顔をあげると、教室後方の入り口から城島が登校してきた。

 クラスメイト達が一斉に城島の方を見る。

 居心地悪そうな空気の中、城島が自分の席に着くと、いつも城島とつるんでいる男子生徒数名が彼のところまでやってくる。

「おい、昨日は凄かったな。よくやったよ。にしてももったいないことしたな。お前のあの告白、向坂もまんざらじゃなさそうだったし、普通に付き合ってって言っていれば、すんなり彼女になってたんじゃないのか」

「おはよう。朝からいきなり下世話なんだよ」

「でもよ、皆そう思ってるぜ。なんでわざわざあんな回りくどい言い方したんだよ。なぁ?」

 周囲の仲間も一様に首を縦に振る。だが城島は笑顔で彼らのそんな疑問を一周した。

「アレで良いんだよ。俺なりの覚悟の表し方がマラソンだったってこと。それに、あっちの方がカッコいいだろ」

「覚悟って、なんか重くね? 俺ら高校生だぜ? もっと気楽に考えて良いんじゃ」

「向坂レベルの可愛い子を振り向かせたいなら、そのくらいやらなきゃって話だよ」

「え、それってアタシらだったら違うってこと?」

 話の中に女子達が加わる。

 城島は「そんなこと言ってないだろ。俺は相手が渡辺だったら、もっと何かしなきゃなって思ってただろうぜ」と適当なことを言ってなだめすかしていた。

 クラスの注目の中心は、明らかに城島と向坂にあった。

「リア充、アピールうぜぇ」

 大月は辟易とした顔をして窓の外に視線をやっているが、しかし話題の中心に彼らのことを上げ続けている。

 嫌な空気だと思った。

 今、クラス全体が城島と向坂の一件を、まるで見世物小屋でパンダでも見るような好奇の目で観察していた。

「あ、向坂も来た」

 窓の外を眺めていた大月が、いち早く気がついた。

 すぐに俺も同じところを見る。

 そこには俯きながら歩いてくる向坂の姿があった。いつもの元気は見られない。

 やがて教室に入ってきた向坂を、女子達が囲んで質問攻めにする。

「美咲! おはよう。昨日はまさか城島から告白されるなんて。私もう、超興奮しちゃった。ドラマみたいでさ。あ、そうだ、昨日はすぐ帰っちゃったけど大丈夫だったの?」

「おはよう。昨日はごめんね、先に帰っちゃって」

「もー、いいよ。照れんなって、アタシらの仲じゃん。それに部活休んでクラス会来てくれたんだから、こっちこそありがとうって感じだよ。どうすんの? 付き合うのよね?」

「でも、城島くん、マラソン大会でって言ってたし」

「奥ゆかしいな! 大和撫子か!」

 戸惑いながらも、受け答えしている様子は昨日までとそう変わらないように見える。

 だが、俺は知っている。昨日、向坂が店に来て炒飯を勢いよく食べたことを。だから、違和感なく受け答えしている向坂の姿に、かえって違和感を覚えていた。

 なんでそんな平気な顔していられるんだ。本当は何を考えてるんだ。俺は改めて、俺は向坂のことを何も知らないし、何もわからないんだと実感する。

 大月は机に頬杖をついて、静かに舌打ちをした。

「鬱陶しいね。浮かれちゃってまぁ。リア充はお気楽でいいよな」

 その言葉を聞いた途端、俺の中で何かが切れた音がした。

「……お前達もだろ」

「お、ごめんボーッとしてたわ。なんて?」

「なんでお気楽だなんて思うんだよ。本人がどう思ってるかなんて、外野の俺達にはわからないだろ。なんで、そんなわかってるように話せるんだ」

「おい、どうした波多野」

「自分勝手な解釈で他人のこと評して、挙げ句勝手に妬んで」

『お前達もよっぽど鬱陶しいだろ』

 寸前で、最後の言葉を飲み込む。

 お前達じゃない。鬱陶しいのは、俺達だ。

 勝手にわかったような気になって、勝手に知ったようなつもりになって、その実全然知らなくて、知ろうとしていなくて。勝手な自分の妄想で、勝手に不機嫌になっている。気持ち悪くて鬱陶しいのは、何より誰よりも自分自身だ。

俺はつい、感情的になってしまった口を閉ざした。情けない気持ちで俯く。

 大月と水屋は突然荒っぽい口調で吐き捨てた俺の豹変ぶりに驚いて、二人で顔を見合わせるが、しばらくして二人は俺の態度を、勝手に良い方向に解釈しおどけてみせる。

「あ、なるほど。波多野、お前嫉妬してるのか。だから、八つ当たりしたいんだな。わかるぞ。俺にはわかる」

「まぁ、昨日カラオケにいればね、ちょっと待ったって出来たかもしれないからね。向坂さんと城島くんお似合いだし、気持ちはわからなくないよ」

 俺は二人が不器用に慰めてくれるのを、俺は半分の頭で良かったと思い、半分の頭で嫌だと感じていた。

「悪い。ちょっと用事思い出した。職員室行ってくる」

「おぉ、行ってら」

 いきなり立ち上がった俺を、二人は特に追求するでもなく送り出してくれる。察してくれているのだろうが、しかしどこまで察せられているのだろうか。

 今俺が不安でいっぱいなことは? 俺がどうにも腹が立ってしょうがないことは?

 きっとわからないだろう。俺も同じだから、それはわかった。

 俺はいても立ってもいられない心を静めるために、誰もいない場所目指して歩いた。歩き続けた。

 だが、学校という小さな箱庭の中に誰もいない場所はなく、俺はとうとう始業までこの気持ちをほぐすことが出来なかった。




   二


 放課後、体育館裏の水道近く。

 俺は向坂の様子を見るため、グラウンドを一望できるこの場所に腰掛けてぼんやりと陸上部の練習風景を眺めていた。

 胸のもやもやはとうとう放課後まで消えなかった。なぜなのか、俺が一番よくわからない。この謎のもやもやを落ち着けるために、俺は向坂を探していた。

 そう言えば、向坂が部活している姿をちゃんと見るのは初めてだった。

 グラウンドは右手側に野球のマウンドがあり、左手奥に小さめのサッカー場、手前で陸上部のために白線でトラックが描かれている。

 向坂はその手前にいた。

 前だけ見て、一心不乱に走っている。

 その姿を見て、俺はホッと胸をなで下ろした。

「練習、頑張ってるな」

 だが、トラックを数周して、水分を取るためにベンチへ向かった向坂に、数名の陸上部員が集まって来た時、その安心が張りぼてだったのだと気づかされた。

 話し声が聞こえたのだ。

「美咲ちゃん。クラス会で同級生から告られたって本当?」

「野球部の人なんだよね。どの人どの人?」

 それはクラス会の件についての追求だった。もう噂が出回っているらしい。それはどこまでだろうか。下手したら、全校にまで知られているのか。

 めいめいが好きなように向坂に尋ねる。向坂は困った様子で笑う。

 野球部の方に目をやれば、城島含めた部員達が外野に散らばってフライキャッチを行っていた。

 列を成して順にボールの行方を追っていく。

 城島はその途中で陸上部をチラリと見た。自然、野球部の方に目を向けている向坂と目が合う。城島は照れて控えめに手を振った。その行動に、色めき立ったのは陸上部の女子部員達だった。

「ちょっと、今のって美咲ちゃんにやったんじゃないの?」

「結構カッコいい感じの人だったよね。しかも野球部なんでしょ。いいなー。アタシもそんな彼氏欲しい」

「美咲ちゃん。応えてあげないの?」

 彼女らに囃し立てられて、向坂はゆっくりと手を振り替えす。

 部員の間に桃色の歓声が上がる。

「コラ! 練習中だぞ、集中しろ!」

 ざわめく部員達の異常を察知したコーチの喝で、部員達は各々練習へと戻っていった。だが、向坂は一人だけ浮かない表情だった。

 その一連の出来事を眺めて、俺は言葉に出来ない不快感を胸の奥に募らせていった。

 何よりも、俺は何も出来ない自分が悔しくてたまらない。

 向坂は部活が終わるまで、ずっと落ち着かない様子だった。


   〇


 陸上部の練習が終わるまで、俺は座って向坂を眺めていた。

 向坂は全体の練習が終わっても、最後の一人になるまで走り続けた。

 やがて日が落ちて、グラウンドの照明も落ち、帰り支度を済ませた向坂が校門のところに現れたのはもう生徒の姿もほとんどなくなっている時間だった。

 俺は、向坂を待っていた。

 色々葛藤もあったが、ここで待たなければ、俺の中のもやもやは晴れないと思ったのだ。

「あれ、波多野じゃん。どうしたの?」

 校門で待っていると、更衣室の方から向坂が歩いてくる。肩からエナメルバッグをかけた向坂を見て、俺は校門にもたれかかっていた体を起こし、手をあげた。

「ちょっと、用事があって残ってたんだ。偶然だな」

「そうだね。校門辺りで待っててくれるなんて、すごい偶然だね」

 からかうような視線がくすぐったい。

 俺は顔を逸らしながら、息を大きく吸い込んで吐き出した。

「その、なんだ。もしも今から帰りなら一緒に帰らないか。途中までは、大体同じ方向だろ。話し相手がいた方が寂しくない」

「どうしたの。波多野って、友達と帰らなきゃ不安になるタイプでもないでしょうに」

「今日は不安になる日なんだ。……ダメか?」

「そういう言い方されると、私も弱いな。いいよ、途中までね」

 俺達は互いに顔を合わせると、並んで歩き出した。

 夜の町は、段々と熱を帯びてきている。五月の薫風が頬を撫でて、車の白いヘッドライトが真横を通り過ぎた。

 人気はまだチラホラと残っていて、犬を散歩する人や塾帰りの子供、広い空き地で動画を撮っている女子高生の姿が見えた。

「昨日はありがとう。色々迷惑かけちゃってごめんね」

 俺から何か切り出そうとして、苦笑いを浮かべる向坂に先んじられた。

 俺は「まぁな」とか適当なことしか答えられずに下唇を噛む。

 俺達はずっと会話が続かない。互いの距離感を間違えてしまわないように、俺が慎重になっているからだ。

「嬉しそうに見えなかった?」

 向坂に尋ねられて、俺はギョッとした。

「何のことだ」

 咄嗟に誤魔化す。だが、向坂は誤魔化されてくれない。

「クラス会のこと聞いたんでしょ。それで、私のことを心配してくれたんだよね。波多野、今日ずっと不安そうな目をしてるもん」

 見られていたのか。

 俺は上手い言い訳が見つからずに、俯いた。

「すまん。覗き見とか、出歯亀なんてつもりじゃないんだ」

「大丈夫だよ。ああいう視線にはなれてるからさ」

 帰り道は川に差し掛かる。

 対岸を結ぶ大江橋の上には点々とベンチが備えられている。俺達は適当な場所で足を止めた。

「ここで倒れてた私を、波多野が助けてくれたんだよ」

「そうだったか」

 ほんの一週間前の出来事が、随分昔のことのように思えた。俺は空を仰いで星を見つめた。

「嫉妬じゃないんだ。本当に」

 向坂は欄干に体を預けて、遙か遠く川の先に伸びる山の陰を見つめる。

「ただ、向坂が陸上に打ち込めているのかが心配だった。向坂には陸上を頑張ってて欲しかった。それだけが気になってたんだ」

 今日一日、向坂のことを見ていた。

 向坂のことを見て、俺が抱いているもやもやの正体は、向坂が夢を叶えるためにしている努力に水が差されたのではないかという不安なのだとわかった。

 俺は向坂の返答を待った。向坂はずっと黙っていたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。

「私、夢があるって言ったじゃん。陸上で優勝するって。これ、結構本気なんだよね。私は本気で優勝したいって思ってる。でも、私の周りは、そういうんじゃないんだ。皆それとなく日常をすごして、恋とか勉強とか部活とか、その美味しいところだけを食べてるの。美味しいんだと思うし、そう言う生き方だってあるのはわかってる。私みたいに、実は皆は恋に本気なのかも知れない。

でも、私の生き方と皆の生き方は、ほんの少しだけ重なってないんだ。私ね、本気でやってるの。だから、誰にも邪魔されたくない。私はここで、今、陸上に全てを捧げたい。恋とか勉強とか、そういうの全部横にまとめて、見えない場所にしまっちゃいたいの。

だけどさ、私は気にしいだから、どうしても皆の目線が気になっちゃうんだよね。ノリが悪いとか、そういう風に思われたら、クラスで孤立しちゃうし。気にしたくないのに、そういうこと気にしちゃうの。波多野には、わからないだろうね」

「……なんでだよ。もしかしたら、わかるかもしれないだろ」

「わからないよ。だって、波多野はクラス会を断れるじゃん」

 向坂の声は強く、震えている。

「波多野は、皆のノリから離れても、空気から外れても平気でいられるじゃん。私は出来ない。特別な日は一緒だから。皆と足並み揃えるから。だから仲間はずれにしないで、私を除け者みたいにしないでって思っちゃう」

「断れば良い。誰も気にしない」

「私が気にするの。誰より私が気にしちゃうの。ねぇ波多野。私は陸上に本気になりたいだけで、皆に嫌われたいわけじゃないんだよ」

 向坂はそして、口を噤んでしまった。

 俺達の間に沈黙が流れる。

「帰るね」

 どのくらいの時間が流れたのだろうか。あるいはあっという間だったのかも知れない。

 向坂は欄干から体を離すと、鞄の紐をギュッと握りしめて家へと向かい走りだした。

 俺はその背中に手を伸ばしたが、何も出来ずに空を掴む。

 向坂の背中はどんどんと遠ざかっていく。それを見つめて、俺は何も動けない。

 動けない理由はわかっていた。

 俺は、向坂の悩みを聞いてやることは出来ても、解決することは出来ないからだ。

 向坂にとって、俺がどんな存在なのかはわからない。母さんの言うとおりなら、向坂は少なからず俺を頼ってくれている。

 でも、理解者にはなれない。だって俺と向坂では、住んでいる世界も見ている世界も抱えている性格も。何一つとして同じものがないからだ。

 聞くことが出来ても、芯の部分で理解出来ない。理解出来ないから寄り添えない。

 俺は友達になれたかもしれなかったが、それは向坂にとっての特別になれたというわけではなかった。

 俺は特別になりたかったのか。違う。俺はただ、向坂を応援できるやつになりたかっただけだ。

 俺は自分の無力が恨めしかった。自分の無理解が口惜しかった。

 テレビアニメの主人公は、困っているヒロインがいれば、簡単に助けてしまうのだろう。愛と勇気を持って戦う姿が何よりの説得力となって、彼女達に元気を与えるのだ。

 俺は主人公にはなれない。愛も勇気もない。

 例えば俺が向坂に言葉をかけることは容易だろう。『自分の夢を諦めるな。周りを気にせずに自分の信じた道を突き進めば、必ず報われる日が来る』とかなんとか。

 でも、果たして向坂がそれを信じるだろうか。

 何もせずに、ただ怠惰で無気力で、クラスの空気に関わるのが怖くて逃げ出した人間の励ましなど、この世界中でいったい誰が信じてくれるだろうか。

 何を言ったかではなく、誰が言ったかとはまさにこのことである。

 俺はその現実にただ打ちひしがれて、ぼんやりと道路を眺め続けていた。




   三


 店に帰ると、今日は土曜ということもあって、どうやら賑わっているようだった。

「おう、鳴か。帰ってきて早々悪いんだが、ホール手伝ってくれ」

 父さんが顎でお盆を示す。手が足りていないらしい。

 断ろうかとも思ったが、気を紛らわせるにはちょうど良いと思い直して、鞄を自室に置きホールに出た。

 ホールでは母さんがてんやわんや、食器を下げて配膳してお茶を用意してお会計してと忙しそうにしていた。

 俺は腕まくりをすると、お盆を持ってその中に飛び込む。

「あら、鳴ちゃんおかえり。ごめんね、晩ご飯遅くなりそうで」

「いいよ別に。片付け俺がやっとくから、会計とかやっててくれ」

「助かるわ。お願いね」

 ホールを見回すと、お客は五組程度。大きなテーブル席を会社帰りのサラリーマン四人が占拠しており、そこを除けば概ね静かなものだった。

 俺はテキパキと片付けを進める。

 すると、ガラリと扉が開いて一人のお客さんが顔を覗かせた。

「いらっしゃいませ。お、掛布さん!」

 そこにいたのは掛布のばあちゃんだった。掛布のばあちゃんは店内をぐるりと見回すと、その弛んだ頬に右手をそっと添えて嬉しそうに目を細める。

「今日は大繁盛ね。一人大丈夫かしら」

「ありがとうございます。カウンターでも構いませんか?」

「もちろんよ。ありがとうね、鳴ちゃん」

 よっこらしょと腰を下ろした掛布のばあちゃんは、今日はラーメンの気分と言った。

 掛布のばあちゃんのラーメンが出来た頃には、お客さんの波もだいぶ落ち着いて、後はお会計を残すのみとなっていた。

「ありがとう。美味しそうなラーメンね」

 俺が持って来たラーメンを見た掛布のばあちゃんは、ぱぁと顔を輝かせる。

 割り箸で高齢者とは思えないほど軽快にラーメンをすすった。

 俺がそれをぼんやりと眺めていると、視線に気がついた掛布のばあちゃんが顔を赤らめる。

「やだわ。あんまり見ないで、恥ずかしいのよ」

「あ、ごめんなさい……。ぼーっとしちゃってて」

 慌てて謝る俺に、ばあちゃんは目を丸くして首をかしげる。

「珍しいわね。鳴ちゃんが悩み事だなんて。どうしたの? 私で良ければ相談に乗るわよ」

「そんな。ご迷惑じゃ」

「迷惑なんてことないわ。だって可愛い鳴ちゃんの悩みなんですもの。おばあちゃんに、任せてごらんなさい」

 掛布のばあちゃんがあまりに頼もしかったので、俺はついつい、これまでに考えていたことを赤裸々に告白してしまった。

 クラスメイトの女子が、昨日から様子がおかしかったこと。その原因を聞かせてくれたこと。それなのに俺は、彼女に対して何も出来ないこと。それが悔しいこと。

 掛布のばあちゃんは、決して言葉を遮ることはせずに、ただ黙って俺の話を聞いてくれた。

 俺が最後まで話し終えた時、掛布のばあちゃんは食後に出された白湯をすすって一息つくと、ゆっくりと頷いてくれた。

「つまり鳴ちゃんは、その子に何かしてあげたいのに、何も出来ないって悩んでいるのね」

 俺は素直に頷けない。黙っているのを肯定と捉えたのか、ばあちゃんは続ける。

「でも、私は何も出来ないことはないって思うわ」

「出来ないことはない?」

「そもそも、どうして鳴ちゃんは何かしてあげたいって思うの? それはその子の問題で、鳴ちゃん自身には関係のない話でしょ?」

「それは……」

 確かにそうだ。

 城島から告白されて困っているのも。クラスの空気に流されてしまうことを気にするのも。陸上で良い成績を残す夢を追いかけたいと強く願うのも。どれもこれも、向坂美咲の問題であって、俺の問題ではない。

 だとすれば、俺はどうして何も出来ないことに悩んでいるんだ。どうして、向坂に何かしてあげたいと思っているんだ。

 俺の気持ちは、いったいなんなんだ。

 問われて、改めて考える。思考し、そして、結論を出す。

「それは、俺が向坂に頑張って欲しいって思ってるからだ。俺が、夢を追いかける向坂を好きだからだ。向坂には、夢を諦めて欲しくないからだ。俺は、向坂を通して、昔の自分を見ていたんだ」

 思い返すのは小学生の頃。何でも出来ると傲慢にも思い上がっていたあの頃。

俺の将来の夢は、サッカー選手だった。三苫選手や伊東選手のような、どんな障害も乗り越えて活躍する、ヒーローのようなプレイヤーに憧れていた。

でも、そんな憧れは中学にあがってすぐに打ち砕かれた。思い通りに動かない体。周りと比べて特別大きくもない。試合の中でボールに触れる機会はあっても、凄い選手に圧倒されて思い知らされる。自分は並なのだと。

世界中にありふれた、やんわりとした挫折。それを経て、小さくまとまった思考。ただ変化のない日常とテレビアニメがあれば世はこともなし。

そこへ現れた向坂美咲は、俺の光だった。自分の中にあった、何者かになりたいという願望。それを最前線で追っていて、その姿に心動かされた。全てが吹き飛んだ。

だから、俺は、彼女を通して、幼い頃の夢の続きを見ていたんだ。

 自分で言っていて辟易する。要するに、俺は俺しか見ていない。彼女を『自分の夢が叶ったように錯覚するための道具』としてしか見ていなかったなんて。

「最低だ」

 呟く俺に、掛布のばあちゃんは頭を振った。

「そんなことないわ。誰だってそうよ。人間って言うのは、他人に夢を託して、他人から託されて生きているの。恥ずかしいことじゃない。私も、鳴ちゃんのお父さんも、きっとその子だって、同じ目をして生きてるんだから」

 掛布のばあちゃんは遠い目をした。

 その目は壁に掛かったメニューを眺めているようで、ここではないどこかを見ているようでもあった。

「それで、それなら鳴ちゃんは、何をしてあげたいと思っているの?」

「……わからない。俺に何が出来るかなんて」

「何が出来るかを考えるからわからないのよ。何をしてあげたいかを考えるの。自分で出来るかどうかは、この時は脇に置いておくのよ」

 掛布のばあちゃんは、白湯を一気に呷ると、母さんにおかわりと言ってコップを差し出した。

 俺が、何をしてあげたいのか。そんなもの、考える必要もないくらいに明らかだった。

「俺は、向坂を元気づけたい。向坂が陸上だけに集中できるようにしてあげたい。向坂を、応援したい」

「なら、どうすれば応援してあげられるのか。鳴ちゃんが考えるのはその部分だね」

 掛布のばあちゃんはそれだけ言って、

「じゃあ、もう大丈夫そうだから、私は帰るわ」

 とお金を払って帰っていってしまった。

 俺は、何も解決してないじゃないか、という思いと、掛布のばあちゃんに話したことで不思議ともやもやがスッキリしていることへの安堵で板挟みになっていた。


   〇


「今日は、皆でご飯食べようか」

 父さんがそう言ったのは、店の営業が終わった後だった。

 風呂上がり、髪を乾かしていた俺は腹の中で納得する。俺と母さんに先に風呂を済ませておかせたのは、このためだったのか。

 今日の晩ご飯は麻婆ナスだった。

 大皿をつつきながら、父さんが口を開く。

「なんか、大変みたいだな」

「……他人事だからって、適当だな」

「そりゃあ、他人事にいちいち真剣になってらんねぇよ。こっちも毎日頑張ってんだからな。体力は温存できる時に温存する」

 まぁまぁと母さんが父さんをなだめる。

 俺はふと、疑問に思ったことを訊ねてみることにした。

「なぁ、父さんと母さんは、どういう時に頑張ろうって思えるんだ?」

 二人は顔を見合わせると、プっと吹き出す。

「なんで笑うんだよ」

「いやぁ、あんまり素朴な疑問だったから、こんなこと言われるのいつ以来だろうと思ってよ。もう、随分久しぶりじゃないか?」

「そうねぇ。鳴ちゃんが小学校の時は、ギリギリこういう質問してきたかしら。ママ、どうしてお空や海は大きいのー? って」

 二人は微笑ましい光景を思い出しているのかも知れないが、当事者としては恥ずかしいばかりだ。

 俺が半目でむっすりしているのに気がついて、二人はごめんと小さく謝った。

「で、なんだっけ。俺が頑張れる理由ね……」

「どういう時に頑張ろうと思えるのか、ですよ」

「同じだろ? 俺は、そりゃもちろん、お母さんとか子ども達がいるからな。家族のためにって思えば、無限に頑張れるぞ」

「鳴が聞きたいのは、そう言うことじゃないと思うけど」

「どういうのだよ。……あー、なるほど、友達を励ますってことね。んー、それで言えば、俺はやっぱりお客さんの笑顔かな」

「意外だ。そういうの、ちゃんと見てるのか?」

「当たり前だろ。腐っても客商売だぞ。お客さんが、俺の作った料理を食べて美味しいって言って笑った時、俺は『してやったぞ』って嬉しくなって元気が出てくるな」

「お母さんは、好きなアイドルのライブが近いと頑張れるわね。ミファンくんに会えるなら、何時間でも働けるわよ」

「それ誰だよ。知らねぇな」

「韓国のアイドル歌手よ、お父さん」

 二人とも楽しそうに教えてくれる。でも、

「それは、ダメだ。俺には出来ない」

 だって向坂は、俺に憧れてるわけじゃない。俺に出来ることじゃない。

「もっと、他にないのか? 頑張れること。頑張る源になることってやつ」

 二人は腕を組んで少し唸ったが、やがて俺の顔をまっすぐ見つめて声を合わせた。

「「鳴が頑張ってる時」」

「え?」

「鳴ちゃんが頑張ってるのを見ると、お母さんも負けないぞって気持ちになるわ」

「鳴だけじゃねぇ、家族が頑張ってるのを見ると、俺も負けないようにしなきゃなって思えるもんよ。それじゃ不満か?」

 俺が頑張ることが、誰かの頑張る理由になる。

 俺は強く頭を振った。

「ありがとう。参考になった」

 俺が頑張ってる姿で、誰かを勇気づけられるなら。それが、向坂の力になるんだとしたら。

 俺は箸を置いて勢いよく立ち上がった。

「ごめん。出かけてくる」

「遅くなりすぎないようにね」

母の言葉を背中に受けながら、俺は自転車の鍵を握り一直線に外へと向かう。

時間は午後九時。もう人気もあまりない。

 そんな住宅街を、俺は自転車で勢いよく走り出した。




   四


 俺は向坂を探して自転車を漕いだ、

 夜の町を、蛍光灯の中を駆け抜ける。

 自転車が闇を突き抜ける。風を切って、進む。

口の端から息が漏れる。息苦しいのが、しかしどこか心地良い。

 向坂のいる場所に見当はない。だが心当たりがあった。それは彼女がいつもいる公園。なぜだか、向坂はそこにいると俺は信じていた。

 俺は向坂の応援団長になりたかった。俺自身を大した奴だと思ったことは一度もない。だけど、向坂を応援できる人間になりたいと、心から今思っている。

俺は確信していた。きっと向坂を応援できるのは、向坂と同じくらい頑張ってる奴だけなんだ。

十分ほど自転車を走らせると、目の前に中央山公園が見えてくる。

 ブレーキを力いっぱい握りしめて、車体を脇にほっぽり出して中に飛び込む。木々の間を駆け下りた先、開けたグラウンドの中央に、向坂美咲は立っていた。

 その姿が見えた瞬間。俺は思わず叫んでいた。言葉になんてなっていなかっただろう。向坂に気がついて欲しくて、思わず声を張り上げていたからだ。

 向坂はグラウンドの真ん中、ジャージ姿で土がお尻につくことも厭わずに座り込んでいた。満天の星を仰いで頬には汗が伝っている。その力ない顔が俺を振り返った。

 たまたまなのかもしれない。向坂は俺の姿に何も言わないでいる。

つまりこちらを見たのは偶然で、向坂は俺に気がついていなかったかも知れなかったが、それでも俺は構わずに駆け寄った。ドンドンと向坂に近づいて、もう手を伸ばせば触れられるほど近くまで来たところで、俺は仁王立ちになり立ち止まる。

呼吸を整えようと膝に手をついた俺を見て、向坂はようやくこちらが誰なのかに気がついたようだった。目を丸める向坂に、でも、伝えたいことはまだ言えていない。

俺は大きく息を吸う。

「こんな遅くに一人でいたら危ないだろ」

 違った。間違えた。

 いや、実際危ないことには違いないし、この状況ならそれを言うのも正しい気もするが、とりあえず頭が混乱しているみたいだ。

「波多野こそ、もう夜中だよ。不審者に襲われるかもじゃん」

「今まさに不審者に襲われそうになってたのは向坂だろ」

「それ、自分のこと言ってる?」

「客観的に見ればそう見えるって話だよ」

 向坂はそっぽを向いてからかうように笑った。俺は気がついていた。これは向坂が話の本題に入らせないようにするための防御策だということに。

「向坂、いいか」

「ダメ。ダメだよ、それは」

 話をしようとする俺を、向坂は拒絶する。思い返せばハッキリと拒絶されたのは、コレが初めてかも知れない。向坂はずっと、明言するのを避けていた。

「私、波多野のこと結構好きなんだ。だから、お願い、言わないで。私から、居心地の良い場所を奪わないで。お願い」

 震える声。肩も確かに震えている。俺は、向坂にこんな顔をして欲しかったわけじゃない。

 だが、俺は止まれない。生半可な覚悟で走り出したわけじゃなかった。

「向坂、俺さ」

「やめて」

「やめない。今、これは向坂に伝えなきゃダメなことだから」

 俺は向坂をジッと見つめる。口をゆっくりと開く。

「俺、ずっと自分のやりたいことがわかってなかったんだ。わからないまま、お前のことを追いかけてた。でも、それって結局時間の無駄で、もどかしいってわかってたんだ。でもそれしか出来なかった。俺は、自分のやりたいことが何なのかわからなかったから」

 だけど、今は違う。

「今、さっきようやくわかった。俺は、お前を応援したいんだ。向坂に頑張って欲しいんだ。いつまでもずっとずっと、向坂に頑張って欲しいんだ。だから」

 だから、俺が出来ることは、もう明らかだった。

「俺は頑張るべきだったんだ。俺が頑張って、そんでそれは向坂のおかげなんだって伝えるんだ。だから、お前も頑張れって言いたかったんだ」

 向坂は俺の言葉に、ハッと顔を上げた。その目はいつもよりも潤んでいたかも知れない。だがそんなこと、俺の知ったこっちゃない。

向坂にとって、この話は意外な話だっただろう。きっとまだ理解が追いついていないはずだ。俺だって、話ながら抽象的なイメージに具体的な形を与えている最中なんだし。でも、伝えたかった。

「向坂が悩んでることの一端にも、きっと俺は何もしてやれない。俺は無力で、これまで何もしてこなかったから。でも、それでも少しなら力になれると思うんだ。例えば、俺ならクラスの浮ついた空気に水をさして台無しにすることが出来る。信じてくれ、だって俺はクラス会を断れるからな」

 空気の外側にいるからこそ、空気をメチャクチャにしても平気な顔をしていられる。俺が台無しにすれば、きっと向坂の悩みも吹き飛ぶ。

「俺がマラソン大会で一位を取るよ。城島だけじゃない、誰にも譲らない。そうすれば、皆白けちゃって、告白のことなんてすっかり忘れるさ」

 俺は言い切って、ドンと胸を叩いた。

 心臓が爆音を鳴らしていた。

 勢いのまま言い切って、向坂のことを見た。

 向坂は驚いた様子で俺の話を最後まで聞いた。聞き終えて、改めて自分の中で飲み込めたのか、その口元には笑みが戻っていた。

「言いたいことって、それ?」

「あぁ。全部言えた。俺は満足だ」

「胸張ってそんな堂々と言われてもさ」

 向坂は苦笑いをする。でも、先ほどまでの気まずさはもうなかった。

「マラソン一位って、あんまり舐めてもらったら困るよ。そう簡単に取れるものじゃないんだから」

「まだ一週間ある。毎日練習するし、有望な奴には下剤を仕込む時間もある」

「正攻法じゃないの?」

「俺にまともな手段で一位を目指せる才能が眠ってれば、あるいはな」

「クラスの子も、それじゃ引き下がらないかもよ」

「だったら、城島に、俺に負けたくせにって言ってやるさ」

「急にどうして? 波多野は、別にそういうんじゃなかったのに」

「勘違いするなよ。急にじゃない。これまでずっとで、これからもずっとだ」

 向坂はクスクスと笑っていた。

 この笑顔を守れるかどうかは、俺の走りに掛かっている。なんて、きっと大げさなのだろう。だけど、俺はその位の覚悟を持っていた。

 向坂は俺に拳を突き出した。

「なら、頼んだ。私のために走って」

「断る。俺は、頑張る向坂の姿が見たい、そんな俺のために走るんだ」

「……そうだね。そうだよ」

 俺達は拳をぶつけ合わせる。

 走れば、心から向坂を応援できる気がした。そのために、走らなければならないと思った。

 決戦まであと一週間しか残されてはいない。だけど、今の俺なら空だって飛べてしまうような気がしていた。

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