第2話 クラス会をしよう
向坂と友達になった翌朝は、俺にとってイレギュラーに満ちていた。
まず、父と母が共に寝坊して仕込みだなんだと大騒ぎをしていた。どうやら、昨夜二人で遅くまで呑んでいたらしい。珍しいこともあるものだ。
次に、学校に行くまでの信号が、軒並み青信号だった。これは運が良いと思った。
だが、なにより大きな変化は学校でやってきた。
「おはよ、波多野」
いつものように教室に入ると、前方から明るい声が投げかけられたのだ。声のした方を見やると、そこには向坂がいて笑顔で俺に手を振っている。
もしかして、俺に挨拶してくれたのか。いや、もしかしてもなにも、名前を呼んでいたんだ間違いなく俺に挨拶している。
どうする。何か、返事をしなければ。でもなんて言えばいい。「おはよう」か。だが普通すぎやしないか。なら「朝から元気だな」とか。これはちょっとキザすぎる。
咄嗟の出来事に思わず迷ってしまう。そして、苦し紛れに俺はこう言った。
「もじょにょろ」
完全にやってしまった。なんだ「もじょにょろ」って。
苦笑いの向坂を見て、俺は真っ赤になった顔を両手で押さえながら自分の席に逃げるように向かったのだった。
恥ずかしさを誤魔化しながら席につく。すると鞄を置くなり後頭部に大きくて重たいものがぶつけられた。
痛みに振り向こうとしたところで、肩を思い切り掴まれる。
「おい、波多野。今のは何だ! どういうことだ、説明しろ!」
「……なんだ、大月か。挨拶も無しに頭をぶつな。何で騒いでるんだよ」
「とぼけんなよ。なんで波多野が向坂さんと親しげに挨拶してるんだ。お前、ついこないだまで向坂さん遠巻きに眺めてるだけだったじゃねぇか。あっちのグループにいつの間に鞍替えしたんだ。裏切りか。俺への背信行為か」
俺は大月に今までどんな信義を向けていたのだろうか。
俺は大月を無視して、鞄の荷物を机に入れることにした。黙々と作業をしていると、大月の後ろから水屋が顔を出す。
「おはよう」と声をかけて、気がついた。こっちもなにやらそわそわしている。
「お前らの詮索には乗らんぞ」
「違うよ。俺は大月みたいに出歯亀したいわけじゃないって」
水屋は慌てて、顔の前で両手を振った。
「波多野の交友関係を詳しく知ってるわけじゃないしさ。ただ、ちょっと驚いたなっていうだけ」
「二人とも、大げさだ。本当に何でもない」
「じゃあ説明しろよ。何でもないなら挨拶なんてしないだろ」
唇を尖らせる大月。俺は頭を抱える。
どこまで言ったものだろうか。生真面目に昨日ベンチで寝倒れていた向坂を無理に店に連れて行き矢理にご飯を食べさせたと伝えれば、確実に大騒ぎしてしまう。大月が。
ならば、
「昨日、たまたまウチの店に向坂が来たんだ。ご飯を食べに、店にな。それで、その時顔を合わせてたから、気を遣って挨拶してくれたんだろ、きっと」
事実の一部を伝える。これなら、道理が引っ込む無理な筋を進まずに済む。ほとんど本当のことだし、二人もここから変な方向に解釈することはあるまい。
だが、大月は俺の言葉に食いついた。
「マジかよ、向坂来たんだ。意外。お前の家って常連じゃなきゃ入りづらい雰囲気があんのに。珍しいたまたまもあるんだな」
「なんでそんなこと言い切れるんだよ。大月、ウチの店に来たことないだろ」
「見たこともない。でもまぁ、町中華ってなら、誰でも入りやすいことの方が珍しいだろ。経験的に」
それは、そうだし、実際ウチの店は常連以外誰も来ないが。だが、見たこともない人間に言われるとモヤッとする。
かけ合いをする俺と大月の横で、水屋が優しく微笑んだ。
「でも、なんか嬉しいかも」
「何がだよ」
「だってさ、普段、波多野って俺達の話よく聞いてくれるけど、自分の話はあんまりしたがらないからさ。なんか、波多野のことよく知れた気がして」
「そうか?」
「そうだよ」
なぜだかご機嫌な水屋に、俺は首をかしげてしまった。
大月が腕を組んで深々と頷く。
「そっかぁ。それでねぇ……。で、向坂一人だったわけ?」
「は?」
「とぼけんな。昨日の店に来た時、一人だったのかどうかってこと」
「えーっと、いやぁ、家族とだったっけ。覚えてないな」
「私服だった?」
「体操服だった気がする。部活終わりだったんだろ」
「何食べたの?」
「……気になるか、それ」
「当たり前だろ。クラスの一軍女子が町の個人中華料理屋でご飯を食べる妄想をする時の、参考になる」
いつするんだ、そんな妄想。
「なんだったか。実は俺、一瞬ちらっと見かけただけだから、よく覚えてなくてさ」
「あれ、じゃあ波多野は、ちらっと見ただけだったのに、向坂さんは気を遣って挨拶したってこと?」
苦しい言い訳をする俺へ、それまでずっと黙っていた水屋が鋭い質問を投げかけてきた。
背中を汗が伝う。
「えと、それはその、ちらっと見て、目が合ったから、せっかくだからと思ってちらっと立ち話したんだった。いや、お互いに驚いたよ、本当に。あははは」
「立ち話したんだ。いきなり来たクラスの女子と」
「小話くらいだけどな。うん」
「そんなことはどうでもいい。波多野!」
大月は強引に俺の体を自分へと向けた。大真面目な目で問いかける。
「向坂に告白はしたのか」
「するわけないだろバカ!」
俺の一喝で始業の鐘が鳴り、その場は解散となった。
〇
「さて、来週末は皆が待ちに待ったマラソン大会だ」
朝一番のホームルーム。意気揚々とマラソン大会の到来を告げた担任によって、俺達は見事に暗澹たる思いに落とされた。
「皆はもうちゃんと知ってるだろうけど、一応改めて説明するぞ。例年通り今年も男子は五キロ。女子は三キロを走ってもらう。コースは学校からスタートして商店街のある通りを一周してもらう。山の展望台にある左衛門像で折り返して、学校に戻ってくると、そこがゴールだ」
左衛門像は町のシンボル的な像で、急傾斜な坂の上にあった。つまり、俺達は坂を登らなければならない。想像しただけで足が重い。
「マラソンコースは、皆知ってる通り非常に起伏が激しい。当日は曇り予報だが、ちゃんと水分をとって熱中症にならないように気をつけるんだぞ。体育でも、すでにマラソンに向けた練習が始まっている。決して手を抜かないように。この中には、高校を出たらマラソン大会にはもう出なくなる人間の方が多いだろう。そう考えれば人生であと三回しかマラソンを走る機会はないんだ。悔いは残らないように楽しんでくれ」
「しつもーん」
担任の熱い演説を遮る手が上がった。水を差された担任は苦虫を噛みつぶしたような顔をしたが、すぐ表情を穏やかな笑みに戻してその女子生徒を指名する。
指名された女子は、頬杖をつき足を組み、薄ら笑いを浮かべて口を開いた。
「そんなに熱く語れるほど素晴らしい大会なんだから、当然、先生達も走るんだよね」
痛いところを突かれたようで、担任はすぐには答えられず「いや」とか「その」とか言って目を泳がせる。
女子生徒は満足そうに鼻を鳴らすと、ひらひらと手を振り、
「ごめんごめん。冗談だよ。そんな焦んなくてもいいじゃんね」
という意地悪を言って手を下ろした。彼女の周りの生徒もクスクスと嘲り笑う。担任はバツの悪そうな顔のまま、一限の準備があると言ってそそくさと職員室に戻っていった。クラスにいたほとんどの生徒が一斉にため息とも安堵の吐息ともつかない息を吐いた。
女子生徒は立ち上がると、向坂の後ろの机に、勝手に腰掛けて、向坂の肩を抱いた。
「ねぇ、さっきの見た? めっちゃ焦ってたよね。ウケる」
「姫華、ちょっとやりすぎじゃないの?」
「美咲。あんくらい別にただのふれ合いだよ。担任との貴重な交流ってやつ。美咲は本当に心配性なんだから」
向坂の苦言も横に受け流して、女子生徒――渡辺姫華は目を細めた。
渡辺姫華は、端的に言えば女子のリーダー格だ。改造制服にネイルにピアスと、そのファッションはまさしく強烈で、どこか攻撃的な雰囲気を感じてしまう。
ああいう手合いとは、なるべく関わり合いになりたくないな。敵に回したら怖そうだ。
俺は彼女から視線を逸らして、マラソン大会のことに思いを馳せた。
担任が言っていたように、きっと俺は高校を出たらマラソンなんてもう関わることもなくなってしまうだろう。マラソンだけではない。球技大会も、絵画も、音楽も、今学んでいるほとんどのことに触れなくなってしまうはずだ。
だが別にだからといって、マラソンを懸命に走ろうとか、そんなつもりは殊勝な気持ちは一切ない。マラソンなんて疲れることは、適当に手を抜き、それとなくやりすごせば良いのだ。
向坂はどうなのだろうか。マラソンは、しっかりやるだろうな。そもそも、高校を卒業した後も、ずっと走ることは止めなさそうだ。
不思議だ。向坂にはそうあって欲しいと、期待している自分がいた。
〇
「マラソン大会ってさ。なんで存在するんだろうな」
昼休み。俺の前の席に腰を下ろした大月がそんな議題を口にした。
水屋が先を促すと大月は自分の考えを述べる。
「そもそも、長距離を走るって言うのは現代の環境において無駄どころか青少年の体を害する行為に他ならないと思うんだよ。ほら、ウチはマラソン毎年五月にやってるけど、地球温暖化? の影響で五月でも暑いじゃん。炎天下の中ランニングなんてするやつの気が知れないっていうか。大体、全員強制長距離走だなんて、軍隊じゃないんだし屋内でシャトルランやってる方がまだましってもんよ」
「じゃあ大月はシャトルランならやるの?」
「もちろん。なんせ、途中離脱が簡単にできる」
「サボりマンだ」
「よくないだろ」
「うっせぇ。でも、実際そう思ってるやついっぱいいるぜ」
「シャトルランの方が良いって言う子がいるかな」
「シャトルランじゃねぇよ。マラソンは面倒だから手を抜くって話。実際、俺の中学はマラソン大会があったけど、陸上部とかの一部を除いて、ほとんどが雑談とかしながら走ってたぜ。お前らだって、今回は一位を目指すとか、そんな意気込みで挑むわけじゃない。だろ?」
言われて、水屋と顔を合わせる。無言を肯定と捉えた大月が続けた。
「どうせ一部のやつしか本気じゃないんだ。そんなイベントに時間を取るなんて、もったいねぇだろ。それならいっそのこと半休にしてくれた方が絶対良いって」
「伝統を形だけ引き継いだ結果、ただの邪魔なイベントになっちゃってる。みたいなことを大月は言いたいの?」
「概ねそうだな。廃止すれば良いのにって思うぜ」
「大月ほど過激な考えじゃないけど、俺もどちらかと言えば面倒だなって思っちゃうね。雨が降ってくれれば良いのにって」
水屋はマラソン大会の時期になると小学生の頃から九年間欠かさず逆さてるてる坊主を窓に下げて雨乞いをしていると、この前話していた。勝率はゼロらしいが。
「波多野はどうなんだよ。お前、向坂さんに釣られて張り切り屋に転身したりしてないだろうな」
「疑り深いな。心配しなくても、俺もほどほどで良いと思ってるよ」
大月の言っていることは、間違っていない。
この学校に通う生徒の中で真面目にマラソンを走り抜こうとしている人間など、ほとんどいないはずだ。俺も、ほどほどで良いという気持ちに偽りはない。
だが、俺は大月達の態度とは少しだけスタンスが違う。
大月も水屋も「皆がそう思っている」と言っている。
だが俺は「俺がそう思っている」だけで良いと感じている。
俺はこの隔絶を、ほんの僅かだが、しかしハッキリと二人に感じてしまうのだった。
ふと気になることがあって、ちらり向坂の机に耳をすませる。
「美咲は、やっぱり一位を目指すの?」
何の気なしに訊ねたのは、向坂の真正面の席に座る、ネイルをつけた派手目の女子――渡辺だった。
向坂は困った様子で笑う。
「もちろん。マラソンは、私の専門と近いし、負けるつもりはないよ」
「さっすが。陸上部の次期エースは意気込みが違いますなぁ。アタシらは、真面目に走るつもりあんまないから、美咲の応援隊でも結成しちゃう?」
「いいね。美咲には一位になってもらいましょう! そうすれば、城島くんもきっと美咲のこと見てくれるよ」
城島? なんでこの場にいない城島の名前が出てくるんだ。
「ちょっと、本当に私何にもないって言ったじゃん」
「でもでも、美咲と城島くん凄いお似合いじゃん。いっつも二人でイチャイチャしてるし。アタシら、絶対美咲は城島くんと付き合った方が良いと思うんだよね」
「そうそう。姫華の言うとおり。美咲、そういう浮いた話が全然ないから、私ら全員、心配してるんだから」
「あんまりからかわないでよ」
「アタシはからかってなんかないよ。純情な恋なんて、高校生の間ぐらいしか経験出来ないんだし、今のうちに彼氏の一人でも作らないと、可哀想だなって」
「……そうだよね。ありがとう」
向坂は朗らかに笑ったが、心なしか、声がいつもより低いような気がした。
俺は向坂の顔を見たけど、その色は伺い知れなかった。
二
クラス会をやろうと言いだしたのはクラスのムードメーカーである城島龍大だった。
城島は、隣の県から引っ越してきた坊主頭のクラスメイトで、何でもそつなくこなす要領の良い奴である。少しぽっちゃりしていて柔和な顔つきをしているものの、運動神経が優れており体育では積極的に活躍していることが多い。立ち居振る舞いに少し粗暴なところはあるものの、いつも人の輪の中心で好かれていた。
そんな城島が放課後、ホームルームが終わるや否や、仲間内でこんなことを話し始めたのだ。
「クラス会やろうぜ。今週末。ここにいる俺らはもちろん、まだ話したことないクラスのやつ皆誘って、全員でカラオケ」
「なんで?」
返したのは、城島の横の机に座る渡辺。渡辺は向坂とだけでなく、城島ともつるんでいるらしい。
渡辺の「なんで?」は不満とか不服ではなく、ただ純粋に疑問を呈しているように聞こえた。城島が答える。
「ほら、もうすぐマラソン大会だろ? 入学式以来、こんな大きなイベントは初めてだしさ。ここらで一回、クラスのやつらのこと、もっと知りたいなって思ってさ」
「意外。龍大ってそういうの企画するタイプだっけ。どっちかと言えば、こういうの企画するのはそっちのパーティーバカでしょ」
「こらぁ。俺がまるでパーティとか騒ぐのが大好きなやつみたいじゃんか」
「え、違うの?」
「違いません。クラス会大好き。だから俺も賛成! でも、確かに城島が企画するのって俺も意外だわ。城島ってむしろそういうの面倒くさいとか敬遠するタイプだと思った」
学生服の第一ボタンを開けた城島が首をかしげた。
「そうか? 俺、結構皆でわいわいするの好きだし。それに、まだ話したことないだけで、面白い奴がいるかもしれないじゃん。なら、早めに仲良くなっときたくね?」
「皆って、マジで皆誘うの? アタシ、このグループ以外、あんまり喋ったことない人多いよ」
「そこはまぁ、皆にも協力してもらって」
城島以外は、否定的な反応を見せる人間もいたが、懸命な城島とそれに乗っかるクラス会をやりたい派達の圧に負けて、段々と協力する雰囲気に飲まれていった。
城島の隣に座る渡辺が、会話の外にいた向坂に水を向ける。
「ねぇ、美咲も良いよね」
向坂は、城島達のいた席から少し離れた場所で、部活の準備をしながらことの成り行きを見守っていた。
だから、いきなりの質問に向坂は一瞬面食らったような表情をみせた。だが、すぐに口元に微笑を浮かべると、
「……皆が行くなら、私も行こっかな」
それじゃあ決まり、と大いに盛り上がったのは城島達の話。
一方で俺はそのやりとりを苦い気持ちで聞いていたし、帰ろうと席を立っていた大月と水屋も出口から踵を返して俺の方へと勢いよく戻ってきたのだ。
「波多野。帰ろうぜ」
「あぁ、わかった」
二人に連れられて教室を出る。昇降口を出て学校を後にすると、すぐに大月が口を開いた。
「なんなんだ。あのクソボケ達があああああああああ」
うるさい。
一通り叫んだ大月が俺達に訴えかけた。
「それにしても、迷惑な話だとは思わねぇか?」
何の話かは、聞かなくてもわかる。クラス会のことだろう。
「別にクラス会自体が嫌なわけじゃねぇよ。自分の仲間内で楽しく遊ぶのなら勝手にしてろって思うし。でもよ、そのノリをコッチにまで押しつけてこられるのは、ちょっと迷惑だって。考えて欲しいもんだぜ。俺達がアイツら陽キャの集団に混じっても話が合わねぇし変に気ぃ遣うしマジうぜぇ。自分の主張が、全体の主張みたいに言ってさ。周りのやつがどういう風に考えてるのか、想像が出来てねぇんだよ」
「言い過ぎだよ」
「なんだよ水屋。お前は行くのか?」
「誘われてもないから。俺は迷惑とは思ってないし。でも、ちょっと怖いよね。城島くんとか、ちょっと乱暴そうじゃない?」
「わかんねぇけど、いちいち力強そう。教室のドア閉める時もうるさいし。ま、そもそも俺らなんかどうせ誘われすらしないぜ。予定立てる時ハナから参加させてないくせに、もし予定合うならどうぞみたいな態度。施し受けてるみたいで気分が悪いわ」
大月は、随分と腹を立てているようだった。その気持ちはわからないでもないが。
「あー、そうかもな」
と、俺は曖昧な返事をした。
駅前のロータリーにつく。大月が思い出したように言う。
「そう言えば、俺達この後商店街のカードショップ行こうと思ってんだけど、波多野も行く?」
二人はカードが好きだ。帰り道たまにカードショップに行くのだと、この前教えてくれた。
俺は首を振って踵を返す。
「家の手伝いしなきゃなんないからさ」
ああ、この時ほど、実家が中華料理屋で良かったと思う瞬間はないだろう。そう本心から感じていた。
〇
木曜日。
俺は図書室で、本を眺めていた。
手に取ったのは、坂口安吾。パラパラとページをめくる。窓の外は、生憎の雨模様で、静かな図書室の中に雨音が僅かに鳴っていた。
昼休み。俺は図書室に通っていた。なんのことはない。教室にいたくないからだ。どうしようもない時以外、授業が終わるとすぐ席を立ち、授業が始まるギリギリに戻る。それが昨日と今日のルーティーンになっている。
頬についた衣擦れの跡をゴシゴシ拭いながら、視線は本に落としていた。落としているものの、意識は遠くへと飛んでいる。
「それ、面白い?」
ぼんやり文字を眺めていたところへ、不意に声をかけられ肩を跳ね上げる。振り向くとそこに立っていたのは、優しい表情の向坂だった。
俺はジロリと軽く向坂を睨む。
「驚かせるなよ」
「ごめんごめん。集中してる風だったから、そんなに面白い本なのかなって思ってさ。えっと、坂口……」
「坂口安吾。新文学というか、探偵小説みたいなもの」
「へぇ。波多野ってミステリーが好きなんだ」
「いや、別に」
感心して見せた向坂に、俺はあっけらかんと言い放つ。
「だって、それ結構中盤だよね。結構読み進めてるんでしょ?」
「そもそも、本を開いて見ているからって、読んでると思うのが違う。読書は、別に得意じゃないんだ」
「なら、新文学っていうのは」
「折り込みに書いてあった」
そう言って俺は、カバーの折り返しを指さした。
向坂は学校指定の夏服を着ていた。特に改造しているわけじゃないのに、一際似合って見えるのは、向坂が普段から身だしなみに気を遣っているからに他ならない。俺とは大違いだな。
「なんで向坂は図書室に。本でも返しに来たのか?」
「んー、波多野を探しに来たんだよ」
つまらない冗談だ。乾いた笑いが出てしまう。
「本当は、たまたま近くを通りがかったら中に波多野がいるのが見えたから、何してるのか見に来たの。まさか、読書家のフリをしてたなんて思ってもみなかったけどね」
「フリというか、まぁ、結果的にはそうなんだが。俺は考え事をする時は、本を開いてた方が集中できるんだ」
「はぁ、それは凄い。何考えてたの?」
「……人類の神秘について、少しな」
「科学者みたいなこと言うね」
せっかくだから本を借りていこうかなと、向坂は書棚へと向かっていった。
なんとなくこのまま本に戻るのも変な気がしたので、向坂の方へついていく。
彼女は海外文学の棚をしばし眺めると、その中でも薄めのハードカバーを引き抜いて中身をパラパラとめくった。
「それ、何?」
俺が訊ねると、向坂は表紙に書いてある文字を丁寧に読み上げる。
「らぺてぃと、ぷりんす」
「原題を読むな。というか、読めんだろ」
「へへ……。邦題は『星の王子さま』。有名なやつだね」
向坂は愛おしそうに本の表紙を撫で、貸し出しカウンターへと歩を向けた。
俺は彼女が貸し出し手続きを済ませるのを待ち、向坂の後に続いて図書室を出た。
〇
「また向坂と一緒にいたな」
教室に戻るなり、大月に捕まった。
「本当に何もなかったって。疑うなよ」
「いーや疑るね。昼休み、教室から出て行った男女、夏服になり露出も増えて、熱気の中イケない気分になり、そして肉欲の世界へと溺れていくんだろチクショーめ!」
「はいはい。頭のおかしい妄想はその辺にしときましょうね」
水屋がなだめすかしていたが、しかし、それにしても今日の大月のテンションはどこか様子がおかしかった。
「落ちてる食べ物を口にして体調を崩したか? なんか、テンション高いぞ、大月」
「あー、それはね……」
「ストップ水屋。そこから先は、本日の重要議題になるから改めて申し入れをしたい」
「また随分と大げさだな。どうした」
身構える俺に、大月は鼻息を荒くしながらも両手を顔の前で組んで口元を隠した。
「うぉっほん。では、さっきこの場にいなかった波多野に、再現映像をご覧いただこう」
「再現映像だ?」
「それは、つい五分前のことだった……。仲良く弁当を食べていた俺たちの元に忍び寄る黒い影……。不意に俺の肩に手が置かれる。恐る恐る振り返るとなんとそこには! 城島が立っていたのです……」
「まだ語りしかないが、映像はいつ始まるんだ?」
「『あのー、ちょっといいか? 少し話を聞いて欲しいんだけど』」
おお、自分で演じてる。しかもちょっと上手い。
「『なんだ。クラスの人気者様が何の用だ?』」
やけに強気に行くな。普段の大月では考えられない。ははーん。さては盛ったな。
「『知ってるかもしれないんだが、今度皆でクラス会やろうって話になってて。今週の金曜、暇だったらカラオケ行こうぜ』『カラオケ? 仕方ねぇな、行ってやろうじゃねぇか』『おぉ、ありがとな。じゃあ、お邪魔しましたっと』……こうして、城島は嵐のように去って行ったのであった」
うーむ。見事な再現映像だった。
俺は水屋に向き直る。
「で、要するになんだ?」
「実は、さっき。城島くんからクラス会に誘われたんだよ」
嬉しそうに答えた水屋に、俺は大げさに頷いた。
「へぇー、よかったじゃないか。大月もそれでテンションが高かったんだな」
だが、当の大月はご立腹なようで、
「よかったなじゃねぇよ! 重大な問題だろ。アイツら、本気でクラス全員を集めたクラス会を開くつもりだぜ。これは由々しき事態だろ、どう考えても」
「由々しきって、嫌なら断ればいいじゃないか」
「馬鹿野郎。おいそれとそんなこと言うもんじゃねぇ。どこで誰が聞いてるかわかったもんじゃない」
大月は顔を俺と文字通り目と鼻の先まで近づけて、厳しい口調で忠告した。
「いいか、俺らみたいなやつが断ったら、城島軍団からの制裁を受けることは確定してしまうんだぞ。わかったら、その口を慎め、大馬鹿者が」
「要するに、俺ら二人とも参加するってこと」
「あー、それで、誘ってもらえて嬉しくて浮かれてるのか」
「ちち、違うわい!」
大月は大きな身振り手振りで否定したが、顔の笑いを隠しきれていなかった。
「でも、本当にピンチなんだよ。なぁ、助けてくれよ。俺、普通のカラオケで何歌えば良いのかわかんねぇよ。曲全然知らねぇしさ。angelaとかfripSideがダメなのはわかるけど、米津とか伝わるのか? ドーナツホールとかパンダヒーローしかわかんねぇよ」
しっかり盛り上がるか心配しているあたり、見た目に反して大丈夫そうである。
クラスの中を見回すと、どうやら他のグループでも似たような雰囲気になっているようだった。城島達の行動力が伺える。
どうやら本当に、この週末はクラス皆でカラオケ大会を開くつもりらしい。結構な話だ。問題は、俺はどうするべきかということ。
自分に言い聞かせる。不安に思うことはない。このまま行けば大丈夫だ。
浮き足だった教室の中で、俺は一人、窓の外を眺めていた。
三
金曜日。今日はクラス会の日だ。
天気は生憎の雨。湿度が高い空気の中、教室は朝から妙な熱を帯びていた。
耳をすましてみれば、誰しもがクラス会の話をしている。結局のところ、全員楽しみなのだ。
俺は始業まで図書室に籠もった。早朝の図書室は、床も壁も灰色に染まっている。俺は適当な席に座ると、始業の時間までジッと時が過ぎるのを待った。
それは放課後になるまで続いた。
「今日、俺はB’zを歌う。それならなんとかなるからな。って、あれ、波多野どっか行くの?」
「ちょっと、本返さないとダメでな。悪い」
俺は適当な理由をつけては、放課後までのらりくらりと教室にいることを避け続けた。
そして、帰りのホームルームが終わったところで、城島グループの男子が教壇に立ち手を叩いた。
「それじゃあ、これからクラス会に行きたいと思います。駅前のカラオケに移動するから、皆準備してー」
彼の呼びかけで、一人、また一人と昇降口へ向かった。
「俺達も行こうぜ」
水屋と大月がやってくる。俺は鞄に荷物を詰めると、二人に言う。
「悪い。ちょっとだけ職員室に用事があってさ。カラオケには二人で向かっててくれ」
「えー、職員室? お前何やらかしたんだよ」
「じゃあ、先に行ってるから。気をつけて来いよ」
水屋と大月はそう言って、前を歩くクラスメイトの背中を追いかけた。
窓の外は雨が止んで、しかし一面どんよりとした雲がまだ残っている。空気が湿っていて、妙に蒸し暑い。
二人を見送った俺は、ゆっくりと図書室へと向かった。
〇
俺は図書室の窓からクラスメイト達が駅へと向かうのを見届けて、ようやく昇降口へ向かう。
靴を履き替えて外に出、駅と反対の方向へ歩こうとした時だった。
「そっちはクラス会がある方じゃないよ」
背中に声がかけられる。それは聞き覚えのある女の子の声だった。
俺は振り返り、声の主に笑いかける。
「向坂。まだいたのか」
向坂はいたずらに舌を出して、目を細めた。
「誰かさんと違って、私は本当に職員室に用事があったからね」
聞かれてたんだな。
「あー、そのなんだ、実は」
「いいのいいの、違うから。クラス会に来ないことを咎めようってわけじゃないんだ」
言い訳しようとする俺の言葉を遮って、向坂が手のひらをコチラに向けた。
そしてその手を体の後ろで組むと、屈んで俺の目を下から覗き込む。
「事情も、大体わかってるよ」
「ほう、というと?」
「波多野、誰からも誘われてないんだよね。もっと正確に言うと、誘われないようにしたんだよね」
瞬きもせずに見つめてくる向坂の視線が、俺は少しだけ怖いと思った。
少し話そうという向坂の提案に乗って、二人で浅水川の堤防に向かった。俺達の高校のすぐ横には市を横断する大きな川が流れている。マラソン大会もこの川べりを少し走る予定だ。
俺はズボンが汚れるのも気にせずに土手に腰掛けて、向坂は適当な石を川に投げ込んで遊んだ。
「波多野も水切りしなよ」
「雨で川が増水してるだろ。危ないぞ」
「……それはそうか。止めとこ」
向坂は石を弄びながら、俺に訊ねてきた。
「それで、どうしてクラス会に来ないのか、聞いても良いの?」
「嫌だって言えば、引いてくれるか?」
「んー、そうだね。私は無理にとは言わないかな。波多野が嫌がってるのに追求するほど、無恥でありたくないからね」
なるほど、大人な台詞だ。
けれど、俺に断る選択肢はない。あの日、初めて向坂が店にやってきた日。向坂は俺が投げかけた質問に答えてくれた。ならば俺だって、この質問に答えなければフェアじゃない。
俺は自分の中の気持ちを、訥々と話した。
「俺はさ、中学まで自分で言うのもなんだけどな。もっと明るいやつだった。どちらかと言えば、城島と積極的につるんでるような、そんな人間だった。友達とバカなことやって、笑ってるのが好きだった。でも、時々、自分だけが楽しんでる瞬間があった。俺は楽しいと、周りが見えなくなる時があったんだ。それが周囲を噛み合えば問題ないんだが、自分だけテンションが上がって、俺は前に前にと突っ走ってるのに、周りの全員を置いてけぼりにする。そんなことも多々あった」
あの時は心から楽しかった。けど、それは、振り返ればただの暴走でしかなかった。運動会の応援合戦。各色で毎年独自の応援歌を作る時、俺の好きな球団の替え歌にしたことを、他の生徒はどう思っていたのだろうか。文化祭で、誰も頼んでいないのに地域の雑貨屋から飾り付け用の大きな雑貨を借りてきたことは、ただの迷惑だったのではないだろうか。球技大会のバレーボールで俺ばかりがボールを触っていた時、皆は本当に楽しかったのだろうか。
「わかってみれば単純で、要するに俺は人と仲良くするのが得意じゃなかったんだよ」
自分が自分がと周りも気にせずに自己主張する人間は、コミュニティにとっては邪魔な存在でしかない。グループの空気を読まないで壊してしまう奴は、そこにいない方が互いのためになる。
それならば、最後まで自分を大切に自分勝手に生きてしまった方がいっそ楽だった。
だが、俺はそれすらもままならなかった。楽しんでいる誰かの邪魔をすることが耐えられなかったのだ。
気がついてしまうと、友達と遊ぶことも、周りの視線が気になって楽しめなくなった。会話の中で上手く話すことが出来なくなった。
俺は一人でいた方がいい人間だ。そんな人間が、高校で集団生活を余儀なくされたなら、取るべき行動はたった一つ。
「だから、俺は空気の外側にいようと思った。空気の外側にずっといれば、壊すことも、乱すこともない。誰も俺のことを気にかけないし、俺も気負うことがなくなる」
そんな俺にとって、クラス会は最も避けるべきイベントだった。
否応なしにクラスでの深い交流を求められてしまう場で、俺は自分が何をしてしまうのか、ただ怖かった。
「出来ればクラス会は参加したくない。けど、誘われてしまったら、誘いを断らなくちゃならない。お誘いを断るのは、団結しようとするクラスの空気に水を差すってことだろ。だから、俺はもう誘われているフリをして、他の人から誘われないようにしたんだ」
図書室に通って教室にいる時間を減らしたのも、図書室で向坂と一緒になった時に、あえて二人で教室に戻ったのも、全部そのためだった。
結果は上々。俺は誰からも誘われずに今日の日を迎えることが出来た。
「城島には申し訳ないが、そういうわけだから俺はクラス会には参加出来ない」
俺は淡々と話し終えた。向坂は俺が話している間、ずっと黙って聞いてくれていた。俺の話をどう思って聞いていたのだろうか。どんな言葉が返ってくるのだろうか。ふと向坂のいる方を見る。
いつの間にか俺の隣に座っていた向坂は、川の一点にジッと視線を落として、膝を抱えていた。
何を考えているのか、読み取れない横顔を見つめる。見惚れるほどに愛らしい輪郭が僅かに動いて、向坂が口を開く。
「いいね、それ」
「え?」
思っていた言葉とは別の返答に、俺は一瞬何を言われたかわからなかった。
だが、俺にその真意を探らせる間を与えずに、向坂は立ち上がる。
「そっか。なら、波多野は来られないね。仕方ないし、別に気にしなくていいよ。だって誰も波多野を誘わなかったんだからさ」
呆気にとられて、立ち上がるのが遅れる。
向坂はスクールバッグを手に取ると、堤防上の道路へと歩き出していた。
「じゃあ、私はそろそろカラオケ向かわないといけないから行くね。また、来週になるのかな」
「あ、あぁ、そうだな。また来週だ」
「じゃあ、また学校で会おうね。バイバイ」
こちらに背中を向けてヒラヒラと手を振る。その背中が、俺には随分と遠くに見えた。
向坂は坂になっている土手を登って、その途中で足を止め、
「波多野―」
大きな声で俺を呼んだ。
俺がどうしたと返事をすると、向坂は少しだけ俯いて訊いた。
「またご飯食べに行ってもいい? 今度は、ちゃんとお客さんとして」
どうして、今そんなことを訊くのだろう。
俺にはまったくわからなかったが、それに対する返事は決まっていた。
「もちろん構わない。というか来てくれ。待ってるから」
「私は、波多野がいて迷惑だなんて思ったことないからね」
向坂はそれだけ言い残すと、今度こそ駅の方へと歩いて行ってしまった。小さくなるその背中を見つめながら、俺はただ川辺に一人で立ち尽くしていた。
四
向坂と別れた後、俺は家に帰って店の手伝いをしていた。
母さんは俺に出前を頼もうとしていたが、今日はどうにも外出する気力がなかったので頼み込んでなんとか母さんに出前をしてもらうことになった。
「出前にわざわざ車出すのも嫌なんだけどね」
母さんはぶつくさ文句を言いながら、でも仕事だからと小型のバンを発進させていった。
俺はホールに入って母の代わりに接客をした。今日はそこまで人はいなかったが、常連さんはチラホラと入っていた。
五時半頃。ガラリと扉が開いて、顔を覗かせたのはご近所に住む掛布さんだった。
いらっしゃいませと元気よく挨拶し、いつものカウンター席に通す。
「あらあら、今日は鳴ちゃんが接客担当なのね。久しぶりだわ。随分と大きくなって」
掛布さんは高齢のおばあちゃんで、俺がもっと小さい頃からおばあちゃんだった。実の祖父母よりもあっている頻度が多く、実際、孫のように可愛がってもらっている。
掛布のばあちゃんは、いつも天津飯を頼む。今日はどうするのか訊くと、やっぱり天津飯を注文した。『これが食べられる内は長生き出来るわ』というのが、掛布のばあちゃんの口癖だった。
父さんは手早く天津飯を作り、自分で掛布のばあちゃんに提供する。そのついでに、掛布のばあちゃんに話しかけた。
「掛布さん、聞いて下さいよ。ウチの倅がね、こうしていっつも家にいるんですけど、どう思います?」
「あらあら、まぁそうなの。しばらくお店で見ないから、てっきりお友達と遊んでるんだとばっかり思ってたわ」
「それがね、中学までは結構コイツも遊んでたんですがね、今は部屋に籠もって何してんのかわかんねぇんですよ。高校生なんだから、もっと外で遊ぶべきですよね」
父さんは、時々こうして常連さんに子供のことを相談している。俺がそのことを知ったのは高校に入ってからだったが、いざこうして目の前でやられると、少し嫌な気持ちになってしまう。
掛布のばあちゃんは、天津飯を食べながらうーんと考えると、ゆっくりと口を開いた。
「でもね。鳴ちゃんには鳴ちゃんの悩みがあって、鳴ちゃんなりに考えて頑張って生きてるんだから、父親としてはどっしり構えておけばいいんじゃないかしら」
「頑張ってる? ウチの倅に限ってそんなことはないですって。確かに前は頑張ってましたけど、今はそうでもないっすよ」
胡乱げな父さんに、掛布のばあちゃんは頭を振った。
「そんなことないわ。だって、鳴ちゃん、しっかり大きくなってたもの。それに、大ちゃんが高校生の頃は、もっとひねくれててどうしようもなかったわよ。私もあの頃の大ちゃんは本気で心配してたの。この子は将来ちゃんと生活出来るようになるのかしらって。でもね、そんな大ちゃんも、今じゃこうして立派に家業を継いでるじゃない。だから、鳴ちゃんもきっと大丈夫よ」
自分のことを言われた父さんは、目を丸くして頭をかくと『掛布さんにはかなわねぇな』とズコズコ厨房へと引っ込んでいった。
掛布のばあちゃんは、父さんが子供の頃からばあちゃんだったらしい。だから、この家で掛布のばあちゃんに敵う人は、今のところ誰もいないのだ。
掛布のばあちゃんは、この後も懐かしい懐かしいと言いながら天津飯を完食した。お茶を飲んでお会計をする。伝票を持って行くと、俺なんかにも丁寧にお辞儀をしてくれた。掛布のばあちゃんは品のある人だった。
「今日は鳴ちゃんに久しぶりに会えて嬉しかったわ。また顔を見せてちょうだいね」
優しく言って外に出ると、止んでいた雨がまたぽつりぽつりと振り出しはじめた。
「まぁまぁ、本降りにならないうちに帰りましょう」
そう言ってあじさい柄の傘を広げると、家の方へと向かっていったのだった。
雨はしだいに強まって、間もなくバケツをひっくり返したような酷い雨に変わった。
店内にいた人の数も、徐々に減っていき、六時半を過ぎたあたりでとうとう誰もいなくなった。
「あー、ひどい雨。びしょびしょになっちゃった」
出前から帰ってきた母さんが、ズボンの裾を濡らしながら戻ってくる。
「遅かったね。そんなにかい?」
「もうね、いつもより車通り多いから大渋滞につかまってさ。雨脚強くって目の前見えなかったし」
「あー、そりゃいけねぇよ」
母さんはシャワー浴びてくると奥へと引っ込んでしまった。
入り口の扉を叩く雨音に、父さんはポツリと呟く。
「今日は、もう誰も来ねぇかもな……」
この雨では外出する人もそう多くないはずだ。
それでも七時半までは開けておこうと、俺はYouTubeを見ながら、父さんはスポーツ新聞を読んで時間を潰した。
時間は過ぎ、そろそろ七時半。もう閉めてしまおうかと思ったその時、不意に正面の扉が開かれた。
俺も父さんも完全に仕事が終わったモードに入っていたので、反応が遅れる。それにしてもまさかこの雨の中で来店があるとは思わなかった。誰だろうと振り返り、そこにいた人物を見て驚く。
なんと、そこに立っていたのは向坂だった。
「まだ、一人入れますか?」
向坂は足下をびちゃびちゃに濡らしながら訊いてきた。
俺は父さんと顔を見合わせて、
「全然大丈夫だけど、向坂どうしたんだ」
「ありがとうございます。ごめんね滑り込みで。カラオケ終わってお腹減ってさ。ちょっと寄っちゃった。傘立てはこっちかな」
ハンカチで体を拭きながら傘を立てる向坂。
どうして向坂がこんな雨の中一人でウチの店に来たのだろう。クラス会はどうしたのか。
そこへ母さんがひょっこりと顔を出して声を上げた。
「いらっしゃいませ。ってちょっと、びしょ濡れじゃないの。あなたこの間の子よね。体冷えちゃってるでしょ」
「大丈夫ですよ。足下以外は濡れてないですし」
「ダメよ、いま外酷い雨なんだから出歩いちゃ。ちょっとお風呂浴びて行きなさい。体温めておいで」
俺は驚いて母さんを見た。クラスメイトの女子が家の風呂に? 何考えてるんだこの親は。
向坂も流石に、
「そんな、いただけません」
と抵抗した。しかし、母親の圧が凄く、何度か問答を交わして、最終的に入ることになってしまった。
「それじゃあ、お風呂二階にあるから、案内するわね」
母さんの先導で向坂が奥へと入って行く。電光石火かくありき。
母は階段の途中で立ち止まると、俺に向かってこう言った。
「しばらく、二階は男性出入り禁止ですので」
「行かんわ!」
二階へ二人が上がっていったのを見届けていると、父さんが呟いた。
「残念だったな」
本当にウチの親はどうしようもないバカだ。
〇
しばらく待っていると、二階から軽い足音が降りてくる。
それとなく視線をやれば、そこには阪神タイガースのレプリカユニフォームを着た向坂がいた。
向坂は父さんを見つけると丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。シャワー浴びさせてもらえるなんて」
「いいのいいの。困った時はお互い様よ。こっちこそごめんね、せっかく鳴のお友達が来たのにそんな服しか用意してなくて」
本当だよ。いくら母さんが阪神の強烈なファンだからって、もっと他の服あっただろ。
「大丈夫です。近本選手、私も好きです」
向坂はにこやかに答える。意外と向坂も好きなのか、もしかして。
俺は向坂を適当なテーブルに座らせて、何が食べたいか訊いた。向坂はガッツリしたものが食べたいと言った。
俺は父さんを振り返った。父さんは「あいよー」と気の抜けた返事をして、厨房の奥へと消えていった。
俺は向坂の正面に腰を下ろすと、様子を伺いながら話しかける。
「案外、早かったな」
「そうかな。七時だし、良い時間で解散したと思うけど」
「あ、すまん、そっちじゃなくて。店にまた来てもいいって言ってから、ここに来るまでが早かったなって。まさか、言ったその日に来るとは思わないからさ」
「え、ああ、そっちね。ごめんごめん」
向坂は口元を隠す。俺はこの向坂の返答を聞いて、クラス会で何かあったのではないかという疑念を深めた。
「外は、なんか雨凄かったらしいけど、ずっと降ってたのか?」
「ううん。カラオケ出た時はそこまで降ってなかったよ。公園すぎた辺りで急に降られちゃって、困っちゃった。ありがとう」
俺は上手い返答が出来ずに「気にするな」の一言を酷く噛んでしまう。
俺はその後も、向坂の気が紛れるような話をしようとしたが、普段から人と話す機会自体そこまで多くなかったので、どうすれば話を繋げられるかがわからずに、結局短いやりとりが少し起こっただけになってしまった。
父さんが炒飯をテーブルに二人分運んできてくれなければ、俺はあまりの気まずさにおかしくなってしまいそうだった。
今日の晩ご飯は、カニ炒飯だ。カニと言っても、実際にカニが入っているわけではない。カニカマを使った似非カニ炒飯である。以前、父さんに「店でカニカマ炒飯だすのはどうなんだよ」と訊ねたところ「馬鹿野郎。ただありのままで生きてるカニよりも、人間の味覚で美味いカニを再現しようと時間と労力を注いでるカニカマの方が、より美味いカニ炒飯を作れるに決まってるだろ」というありがたいお言葉をいただいてしまった。実際、父さんの似非カニ炒飯は、ほどよい油っぽさと香味料が合わさって、評判が良かった。
二人一緒に手を合わせる。俺はいつもの様に炒飯を食べながら、それとなく様子のおかしい向坂のことを見守っていた。
向坂はサジを手に取ると、一口一口噛みしめるように食べ始めた。その手が、一口進むごとに、段々と早くなっていく。
俺は自分で、食べるのが速いほうだと自覚している。時々十回は咀嚼してから食べようと意識するが、すぐに忘れて勢いよく頬張ってしまう。
だが、この日の向坂の炒飯をかき込む速さは、そんな俺ですらも速いと感じるほどだった。
次から次へとサジをくる。まだ口の中に物が残っていてもお構いなしに頬張る。何も言わずに、黙って食べ続ける。
不意に、向坂の目から涙がこぼれた。
俺は思わず手を止めた。向坂の目の端からこぼれた涙が、細い線を描いて頬を伝っていった。
俺は焦って向坂に大丈夫なのかと声をかけるが、向坂はそれでもサジをくる手を止めなかった。次から次へとこぼれる涙を拭って、ただひたすらに炒飯を食べた。その視線は、ぼんやりと遠くを眺めているようだった。
〇
「ありがとう。今日は、本当にごめんね。色々心配かけちゃった」
『こんな雨の中、鳴のお友達をそのまま帰らせるわけには行かない』という母さんの提案で、会計を終えて遠慮していた向坂を無理矢理車に押し込んだ。もちろん、運転は母さんである。
向坂を後部座席に座らせて、俺は助手席でぼんやりと雨の町を眺めていた。
町は一面濡羽色に包まれ、雨の雫がヘッドライトの光を反射し白い粒となってフロントガラスを打ち付ける。別世界に囚われたような気持ちになる俺に、時々現れるぼやけた信号と家の灯り達が、ここが町中なのだと静かに教えてくれていた。
「服は、返さなくていいからね。必要なかったら捨てちゃって良いわ。どうせ沢山あるんだし」
「何から何まですいません。ありがとうございます」
車中、俺は母さんがいて良かったと心底思った。
母さんの少し失礼でカラッとした空気のおかげで、和やかな雰囲気で俺は過ごすことが出来ている。これが、また向坂と二人きりになってしまえば、さっき以上に何を話せば良いのかわからなくなっていた。
向坂も来店した時とは変わって朗らかな笑顔が戻っており、リラックスしているのがわかった。
母さん曰く『伊達に客商売何年もやってないわよ。鳴ちゃんとは経験値が違うんだから』だそう。いつもは鼻につくその口ぶりも、今回ばかりはありがたい。
向坂の家は、俺の家から公園を通り過ぎ向こう側へ、車で五分ほどの場所にあった。オシャレで現代風な二階建てのアパート(?)で、いわゆるデザイナーズマンションらしい。
その正面に車を止める。
「ここでいいかしら」
「ありがとうございます。本当に、お世話になりました」
「いいのよ。その代わり、これからも鳴ちゃんと、仲良くしてあげてね」
深々と頭を下げる向坂に、母さんはなんでもないわと笑いかける。
今日の向坂は、明らかに何か変だった。母さんがいなければ、きっと俺は何も言えなかっただろう。けど、だけど――。
「向坂!」
荷物を持って車を降りようとする向坂を、俺は思いきって呼び止めた。
動きを止めて、俺を見る向坂。
目が合う。今日、初めて、向坂が俺を見た気がした。
「波多野、どうしたの?」
どうしたの、って、本当にどうしたのだろうか。どうしたかったのだろう。計画も思いつきもないままに呼び止めて、何を伝えたいのだろう。
わからない。でも、何かを伝えたい。
だから俺は、わからないままに話し始める。
「あのさ、俺、何にも出来ないけど。でも、俺は向坂の……。向坂に何かあったら、いつでも俺の店に来てくれ。一緒にご飯を食べよう」
途中、言い淀みながら告げた。結局、俺は何が言いたかったんだろうか。勢いよく口から飛び出た言葉は、意味不明な提案となって行ってしまった。
間抜けに口を結んだ俺を見て、向坂は思わず吹き出していた。
「うん。ありがとう」
家の中に走って行った向坂を見送って、俺は再び助手席に体を沈めた。
車が再び発進する。
「女の子には、悔しくなる時があるのよ」
帰り道の信号待ち。母さんが口を開いた。
「何の話?」
「さっきの子のこと。えっと、何さんだっけ」
「向坂」
「そう、向坂さん。あの子にも色々あって、どうにもならない時があるの。だから、そう言う時に向坂さんが鳴ちゃんを頼ったたってことは、鳴が向坂さんに信頼されてるってことだと、お母さんは思うな」
信頼、ね……。
「悔しかったように、母さんには見えたのか」
「それこそ、生きてる年数がずっと違うもの。見てれば、なんとなくわかる」
「だとしたら、なんで向坂は悔しかったんだと思う?」
母さんは、少し黙って首をかしげた。
「そこまでは知らないって。鳴ちゃんの方が、詳しいんじゃないの?」
「俺も知らない。ってか、俺は、向坂のこと、ほとんど何にも知らない」
「学校では話さないの?」
「あんまり。男子と女子だし、そこまで一緒にいるわけじゃないからな」
「そりゃ、そっか。まぁ難しいよね。同じ性別同士でも言えない話もあるし、どんなに仲が良くたって、相手がなにを考えてるかなんてわからないから」
母さんは遠い目をしていた。いつかあった自分の学生時代を思い返しているのだろうか。
「母さんは、悔しいことあったのか?」
「あったよ。いっぱいあった。時々なんて言葉で済ませられないほど、いっぱいね。でも、私は友達とか、お父さんとか、親身になってくれる人がいたり、守ってくれる人だったり、支えてくれる人がいてくれたから、今も頑張っていられる。向坂さんが今日ウチに来たのは、鳴ちゃんを頼りにしてのことだと、お母さんは思うな。だから、何かをしろっていうわけじゃないけど、鳴ちゃんは、鳴ちゃんが出来ること、してあげたいことしてあげれば、それが自然に応援になってると思うよ」
この時、俺は気がついた。
『俺は向坂の、応援団長だから』
さっき俺は、向坂にこう言いたかったのだ。
だが言えなかった。そう名乗るにはおこがましいと感じたのだ。応援団長なんて名乗る資格が、俺にはないと思ってしまった。
「……俺は自信がない。頼ってくれても、それに応えられる気がしない」
「無理にとは言わないけど、出来ることでいいんだよ。少なくとも、今日お母さんは、鳴ちゃんがお友達に頼られてるのを知って、すごく誇らしかったんだから」
信号が青になって、車は再び走り出した。
「そうなのかな……」
俺は今日の出来事を振り返りながら、ぼんやりと窓の外の雨模様を眺めていった。
〇
翌日の土曜日は半日授業があった。登校してクラスに入った俺は、なぜか妙に浮き足立っているクラスメイトを見て違和感を覚えた。
教室中にいる誰もが、小さなグループで輪になってヒソヒソと何かを噂し合っていたようだったのだ。教室の前方には大月と水屋の姿もあって、この二人もなにやらそわそわしている。
この変な状況を気にしながらも、とりあえず席に座る。そこへ俺の登校に気がついた大月達が素早くこちらへ移動すると、いきなり俺の机を取り囲んだ。
「おい波多野。お前、昨日結局カラオケ来なかったじゃねぇかよ。待ってたんだぞ」
「あー、その、急に家の用事が入ってな。悪い悪い」
「悪いじゃねぇよ。お前な、そのおかげで、今とんでもないことになってんだぞ」
妙に落ち着きのない大月。まぁ、大月が落ち着いていたことの方が少ない気もするけれど。
「どうしたんだ。何があったんだ? とりあえず、教えてくれよ」
「そうだな。いいか、驚かないで欲しいんだが。事件の当事者二人がいないウチに教えてやろう」
「手短に頼む」
俺は鞄の中身を机の中に移動させながら、大月に何が起きたのかを訊ねる。すると、大月は周囲に人が少ないのを確認してから、一層声をひそめて俺に言った。
「金曜、クラス会の最後で、城島が向坂に告白したんだ」
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