波多野は大きく腕を振る

ラピ丸

第1話 坂の上から来た少女

 応援とは「頑張っている人を励まし、彼ら、彼女らに力を分け与える行為」だ。

 しかし小学校や中学のことを思い返すと、俺は家族の行事も学校のイベントも惰性で声を出していただけで、心から他人を応援したことがなかった。

 現代で見られるほとんどの応援もきっと同じだ。応援する人の中には、他人を想う気持ちなど存在していない。あまつさえ自分の利益のことを考え、他人を鼓舞したフリをしている。実に軽薄だ。

 そうならば、どうすれば本当に応援をしたと言えるのだろうか。本当の応援をしたことがある人間が、世の中にいるのだろうか。応援をするための資格とは、いったいなんなのだろうか。

 出前の途中、イヤホンから流しっぱなしにしたラジオ。陽気なパーソナリティの取り上げた『最近、推しのライブに行った時、推しからのファンサービスが少なくて困る』という話題を聞いて、ふとそんなことを考えていた。


   〇


「いつも、ありがとうございますー」

 俺は笑顔でそう言って、元気よく頭を下げた。扉が閉るのを待ち、その場を離れる。

 アパートの脇に停めた自転車を押し出す。辺りはすっかり暗くなっていた。夜の道を走るのは怖い。だけどもう五月だから、日の入りの時間も遅くなっていくだろう。

 俺の家は中華料理屋をしている。父方の祖父が店を起こして以来、街の中華屋として住民に愛されていた。だから、出前の依頼が来ることも多い。そうすると、俺が出前を届けに行くのだった。

 頭に被ったヘルメットには「波多野飯店」の文字が、中華風のフォントで書かれている。かっこが悪いので気は進まないが、被らないと「出前の時はウチの看板背負ってると思ってやれ!」と怒られるので仕方がない。

 品物を下ろして軽くなった自転車を押し、帰路につく。

 この町には坂が多い。開発される前は辺り一面が山だったようで、登り坂にも下り坂にも富んだ起伏の多い町だった。

 アパートから商店街を通り過ぎ、左手に公園を流して、長い登り坂に差し掛かる。家まではあと少し。

ぐっと腕に力を入れると、連動してお腹が間抜けな音を鳴らした。気の抜けた音に思わず力も抜ける。腹が減った。

「飯は力だ」と父さんはいつも口癖のように唱えている。よく食べ、よく動く。それが一番大事だと。俺もその通りだと思っている。

 だから、腹が減って気力が出ない現状に、俺は心底後悔していた。失敗だ。帰ったらまず食事を摂ろう。今日の晩ご飯はなんだろうか。

ふと、何か聞こえた気がして顔をあげた。

 それは坂の中腹にある大きなト字路に侵入しようという時だった。

 どこからともなく、声が聞こえた気がしたのだ。気のせいだろうかと後ろを振り返るも、坂の下には誰もいない。

だが、謎の声はまた聞こえてきた。

「……いて」

 微かな声だ。女のもののような気がする。

 もう一度、今度は注意深く耳をそば立てる。すると、ハッキリとこう聞こえた。

「どいて、どいて!」

 どいて? 何が?

 ……ところで、話は変わるが俺に映画趣味はない。だがしかし、それなりにアニメ映画は見てきたつもりだ。特に金曜の夜にやっている映画番組は幼い頃から毎週見ていて、俺は中でも空に浮かぶ伝説の城に向かう話が大好きだった。あの作品では、冒頭に空から落ちてくるヒロインを、主人公の少年がお姫様ダッコの要領で受け止めるシーンがある。

 俺はあの番組を見る時には、果たして空から落ちてきた女の子を受け止められるだけの力があるのだろうかと常々考えていた。現実として、これまでの人生の中で空から女の子が落ちてくることはなかったのだけれど、確かにそう案じていたのだった。

 振り返ればそんな経験があったからこそ、坂の上から女の子が転がって来た時、俺は受け止めることができたのかもしれない。

 気がついた瞬間、大きな音を立てて、自転車が倒れていた。次いでオレが地面に背中を打ち付ける。背中の痛みに顔を歪める前に、今度は顔面に鈍痛が走った。何のことはない。人間の少女の肘が鼻っ柱を打ったのだ。

 俺は鼻から血を流して、女の子の下敷きとなりアスファルトに倒れ込む。「痛い」とも「辛い」ともとれない叫び声を上げ蹲った。

「ったた……。あー、まいった。全然止まれないなんて」

 女の子が頭を抱えながらゆっくりと起き上がる。

数秒、自分の状況が把握出来ないようにキョロキョロと辺りを見回していたが、やがて自分が男性を一人下敷きにしているのに気がつくと、驚きの表情を浮かべすぐさま立ち上がった。

「ごごご、ごめんなさい! お怪我はありませんか? あ、血が! ごめんなさい!」

 慌てる女の子を手で制する。鼻を拭う。血は少ない。痛いけど、問題ない程度だ。

「鼻が痛いくらいです。平気だから。心配しないで下さい。それより、そっちは?」

「私も、なんとも無いです。お兄さんが助けてくれたので」

 女の子は笑顔で大げさに飛び跳ねて見せた。元気なのは結構なことだ。

 俺は膝に手を置いて立ち上がる。ズボンのホコリを払って、道ばたに横たわる自転車を起こした。新しい傷はなさそうだし、ヲカモチもしっかりと荷台に鎮座している。見たところ無事なようだった。

「夜道は危険だから、いきなり飛び出しちゃマズいですよ。俺は自転車だったけど、もし車だったら取返しがつかない」

「はい。ごめんなさい……」

 しおらしく頭を下げる女の子。白い半袖のシャツを身につけている。体操服っぽいな。

 ふと、彼女の胸元にある校章が目に入り、俺は目を見開いた。

「あ、永高の人なんですね」

 永高とは、この辺りにある県立永山高等学校の愛称だ。地域に深く根付いた歴史ある高校であり、俺が入学した学び舎でもある。彼女の服もよく見れば永高の体操服だ。どうやら同じ高校の生徒らしい。

「俺も永高なんですよ。偶然ですね」

 何の気なしに俺が言うと、彼女は目を丸くして驚いた。

「うおー。凄い偶然ですね。私、今年永高に入ったばっかりなんですよ」

「あ、俺もだ。じゃあ、同級生ですね」

「更に偶然。これはもはや運命といって差し支えないのでは?」

 それは言い過ぎだろ。

「こんな時間まで練習ですか。偉いですね」

「いえいえ。やりたくてやってることですし。っていうか、敬語も良いですよ。同級生ですし」

「それを言うならあなたも敬語じゃないですか」

 俺からは敬語をやめない姿勢を見せると、女の子は「そりゃそうか」と言って笑った。

「あなたは、部活とか入ってないの?」

「俺は、あんまりそういうの興味ないから。永高は部活が強制じゃないし。あなたは、部活で練習してるんだよね」

「走り込みは自主練だけどね。気持ちいいんだ」

 走り込みを伴う部活か。なんだろう、サッカー部、ソフト部、テニス部……。

「水泳部でしょ」

「お? どうしてそう思ったの?」

「日焼けの跡がある。まだ日差しも強くないこの時期に、二の腕までほんのり日焼けしてるのは、練習中も肌を出してるからだ。水着なら、腕が出る」

 彼女は「いやん」と呟きながら腕を両手で覆った。勘違いするな、下心はない、はずだ。

「良いところ行ってたけどね。正解は陸上部です。マラソンの選手なの」

 あぁ、確かに。走り込みを伴う部活には違いない。

「……盲点だったな」

「でも、凄い推理力だね。探偵になれるんじゃない?」

「これが探偵小説ならそうかもしれんが、残念ながら俺は探偵じゃない」

 少女は大きな声で笑った。

「あなたのクラスはどこ? 私はC組」

 彼女のクラスを聴いて、顔をしかめる。

「ねーねー、どこのクラス? A? B?」

 この数分の間に随分と距離が近くなった少女から顔を背けて、俺は出来るだけ小さな声で呟いた。

「…………C組」

「えっ」

 二人の間に沈黙が流れる。

 お互いクラスメイトなのに、クラスを名乗るまで気がつかないって、そんなこと、あっていいのか。

「い、いやぁ、そうだったのね! ごめんごめん! いつもと格好違ったし、それに暗くて顔もよく見えなかったからわかんなかった」

 少女は微妙な空気を打ち消すように殊更に明るい声でそう言った。

 これは気まずいぞ。いたたまれない。毎日同じ教室で顔を合わせているんだ。せめてなんとか名前だけでも思い出したい。

 彼女をよく見ろ。短く切りそろえられた髪。陸上部だ。それでいて身長は俺の胸元くらいの高さしかない。女子でもかなり小柄な方。極めつけは黒いコウモリの髪留めをつけている。こんな印象的なアイテムそうはないはず。

 俺は普段使わない脳みそをフル回転させ、一ヶ月の記憶をなんとか掘り起こし、そして一人の名前を思い出した。

「わかった。向坂さん。向坂美咲さん。前の方の席に座ってる向坂さんだ!」

 少女――向坂美咲は、可愛らしい腕を激しく振り、俺の言葉を肯定した。

 向坂美咲はクラスの中でも活発で人気のある人物だ。いつも教室の端っこでぼんやりしている俺と違い、目立つグループの中心で楽しそうに話しているのをよく見かける。思い出してみれば、実に印象深いクラスメイトだった。

 俺から少し遅れて、向坂もこちらを思い出す。

「そうだ。波多野君、だよね。休み時間はずっと本を読んでる」

 実際はそんなこともないのだが、目立たない人間への印象なら概ねそんなものだろう。

「向坂さんは、毎日走り込みしてるの?」

「呼び捨てで良いよ。暇がある時はそうかな。マラソンを走りきるためには、体力が必要だからね。今日は、ちょっと失敗だったけど」

「失敗? 何かミスでもしたの?」

「さっき波多野くんにぶつかったじゃん」

 あぁ、クラスメイトと遭遇した衝撃ですっかり忘れていた。

「いやぁ、今日は気分転換にいつもと違う場所で走ろうと思ったのよ。この辺の道路は幅も広いからランニングにはちょうどいいと思ったんだけど、坂の傾斜を見誤っちゃって。気づいた時には勢いが余っちゃったのよ。本当、波多野君には大変なご迷惑をおかけしました」

「波多野でいいよ。いつも走ってるのは、ここら辺じゃないんだ」

「中央山公園で走ってるの」

 中央山公園は、この町でもっとも大きな公園の内の一つで、元からあった山自然を利用した市民憩いの場所である。

「確かにあそこはランニングしてる人も多いな。……ともかく、公園と違ってこの辺は車も多くて事故の可能性だってあるんだ。気をつけろよ」

「身に染みました」

 恥ずかしそうに眉根を寄せて、向坂は肩をがっくりと落とした。

 不意にぐぅと、お腹の音が鳴る。あぁ、そう言えば空腹だった。いや、しかしこの音の主は俺ではない。だとすれば音の主は――。

「あ、あれぇ? 何の音だろうね? 猫かな? 迷い猫でもいるのかなぁ?」

 俺の目の前の少女は、自分のお腹が音を上げたことにポッと顔を赤らめた。

 年頃の少女が、同年代の男にお腹の音を聞かれて恥ずかしくないわけがあるまい。わざとらしく辺りを見回す向坂を横目に、俺はヲカモチを軽く叩いた。

「しまった。俺、出前の途中だったんだ。悪いけど、もう戻らなくちゃ」

 向坂は改めて、まじまじと俺の全身を見る。

「そういえば、波多野、割烹着だね。バイトかなんか?」

「家が中華料理屋でな。手伝ってるんだ」

「へぇー。いいね。今度食べに行ってもいい?」

「別に、来るなとは言わない」

「ツンデレだなぁ」

 向坂は満足げに鼻を鳴らして、手を振った。

「じゃあ、また学校でね」

 俺は向坂の目をまっすぐ見られずに、顔を背けてスタンドを上げる。

「気をつけて帰れよ」

 逃げるようにペダルを漕ぐ。

 夜の町並みが再び進み始める。

「マラソンかぁ……」

 少しだけ振り向くと、向坂はもう、元来た方角へと走り出していた。




   二


 朝、蒸し暑さに目が覚める。

 窓を開けると、涼しい風が入ってきた。まだ外は薄ら暗くて、しかし遠くから聞こえるカラスの声が確かに朝だと報せてくれる。

 階下では静かに物音がしてくる。父さんが今日使う食材か何かをしこんでいるのだろう。

 我が家は二階建ての一軒家で、一階が店舗、二階が生活スペースになっている。俺の部屋の真下は厨房になっているため、作業音が床から聞こえてくるのだ。

 着替えて、顔を洗いリビングに顔を出すと、母さんがせっせと朝ご飯を作っているところだった。

 母さんは入り口に立っている俺に気がつくと、ニッコリと笑った。

「おはよう鳴ちゃん。もうすぐご飯が出来るから、ゴミ出すついでに、下のお父さん呼んできて」

「おはよう母さん。みそ汁が煮立ってるから、火の加減、調節しなよ」

 鍋は激しく沸騰しており、今にも噴きこぼれん勢いである。慌てて火を止める母さんを横目に、俺は階段を降りていった。

 我が家ではどんなに忙しくとも家族で朝食を取る決まりがある。いつから始まったのかは知らないが、父さんのこだわりなのだと母さんは言っていた。

「父さん、朝ご飯出来たってよ」

 手早くゴミをまとめ、捨て、父さんを呼ぶ。

 父さんは手元を注視したまま、「んー」と気の抜けた返事をした。

 そのままリビングへ向かう。テーブルにはすでに朝食が並んでいた。今日のメニューはジャガイモのみそ汁と焼鮭だ。

 間もなく父さんがリビングへ来て、椅子に座る。

「いただきます」

 全員揃って合掌し、俺は箸を手に取った。

「おいお母さん見てみろよ。このバイクかっけぇだろ。市場でカツオ亭の親父が見せびらかして来たんだ。俺も乗りてぇなぁ」

「ダメよ、お父さんもう今月のお小遣いみーんな自分で使ったんだから。市場の若い子にちょっとした物を買ってあげるのはお父さんの自由だけど、それでお金が無いって言っても知らないんだからね」

「普段はおっとりしてんのに、お金になると細かいんだから……」

「お父さんが大雑把すぎるのよ」

 ガヤガヤ朝から喧しい両親を無視して、ニュースを眺めながら黙々と箸を進める。鮭を半分平らげた時に父がそう言えばと俺を見た。

「鳴。お前、学校ではツレの一人でも見つけたのか?」

「……別に。関係ないだろ」

「鳴ちゃん、そんな言い方しないの。お父さんだって、心配してくれてるんだから」

「心配してくれって頼んでないだろ。こっちには、こっちで色々あるんだよ」

「お前の事情は知ったこっちゃねぇがな」

 父はみそ汁をテーブルに置き、

「そうやってふて腐れてばっかりいると、後悔することになるぞ。普通のやつは高校の頃に友達作って部活やって女の子と付き合ったりするもんだから」

「普通ってなんだよ。気色悪い」

「ちょっと鳴ちゃん」

 母さんは嗜めようとするが、父さんが「いいから」と制した。

「別にな、俺だって鳴を責めたいわけじゃねぇんだ。いつだって、俺達は鳴の応援をしてるんだからな。だけど、心配なんだよ。そうやって根暗になってくのを見ているのは」

 根暗って、自分の尺度で俺の日常を測らないで欲しい。

「怠けてるように見えたなら、悪かったよ」

 心のこもらない謝罪を述べて、俺は茶碗を置いた。

「ごちそうさま」

 母さんの制止も聞かずに合掌する。リビングを出る背中に父さんが言う。

「そうやって怒って学校に行くつもりか」

 生憎、俺は怒っていなかった。俺は父さんの声を無視した。

 部屋から鞄をひっつかむと、まっすぐ階段を降りる。

 靴を履いていたところに、母親が二階から顔を出す。振り返ると、手にはお弁当が握られていた。

「鳴ちゃん。あの、お弁当持って行きなさい」

「ありがとう」

「お父さんも、本気じゃないんだからね」

 母さんは遠慮がちにそう付け加えた。

 本気じゃないんだとしたら、じゃあ、どういうつもりなんだろう。

 あえて訊ねない。訊ねたって、答えが返ってこないこともわかっている。

俺は黙って家を出て、脇に停めた自転車にまたがった。


   〇


「波多野の家の弁当って、豪華だよな」

 お昼休み。蓋を開けた俺の弁当を見て感嘆の声を漏らすのは、クラスメイトの大月だ。

「やっぱり、中華料理屋のお父さんに作ってもらってんのか」

「そうだけど、大したことないぞ。入ってるのは残りものだし。それに、大月のお弁当だって、俺から見れば十分美味しそうに思えるが」

「俺ん家のはダメ。かーちゃん忙しいから冷凍食品とおにぎりだぜ? 味気ないったらありゃしない。それに引き換え波多野の弁当は凄い。ある時はエビチリ。またある時は八宝菜。一週間あれば、満漢全席揃えられるんじゃないかってほどだ。心底羨ましい。ちょっと寄越せよ」

「やなこった。お前の弁当だって、見たところ栄養バランス考えて作られてるぞ。贅沢を言うな」

 おかずを取り合う俺達を見て、糸目でのっぽの水屋がため息を漏らした。

「本当に、二人とも贅沢だよね。俺の家は、弁当作ってもらえないから、心底羨ましい……」

 そう言って水屋はコンビニで買ったサンドイッチを頬張る。

 俺達は互いに顔を見合わせて、水屋におかずを一つずつ分けてあげた。

 大月と水屋はクラスでも数少ない俺が言葉を交わす人間である。入学最初の席が近かったことがきっかけで話すようになり、今ではお昼を一緒に食べる仲だ。

 大月は、見ての通りお調子者でうるさい奴だ。たまに暴走する時もあるが、まぁ基本的に無害である。

 水屋は、なんというかおっとりしていて、基本的に大人しい奴だった。

 大月と水屋は中学が同じらしく、高校に上がってそこに俺が加わった形になる。友達、というには少し距離があるけれど、しかし高校で唯一気さくに喋れる間柄だ。

 二人と話しながら俺はチラリと横目で教室の前方を見た。そこには友達に囲まれる向坂の姿があった。

 今朝、登校してからずっと、なんとなく向坂を目で追ってしまっている。別に友達になったわけでもないので、俺から話しかけることも、まして向坂から話しかけてくることもないのだけれど、なんだか気になった。

 友達の輪の中心にいる向坂は、笑いながらお弁当をつついている。

 俺はその手元の弁当箱を見て驚いた。向坂のお弁当は大きいスマホ程のサイズだったのだ。

 向坂は夜遅くまで走り込みをしていたくらい練習に励んでいる。消費カロリーも俺なんかとは比べものにならないほど多いはずだ。にもかかわらず、摂取するお昼ご飯があの程度ではお腹が減ってしまうんじゃないのか。

 余計なお世話には違いないが、心配になる。大丈夫なんだろうか――。

「波多野、向こうの女子がどうかしたか」

 不意に聞こえた声にぎょっとして前を見ると、水屋と大月がまっすぐ俺を見て眉根を寄せていた。

 慌てて首を横に振る。

「違う違う。そういうのじゃないから、全然」

 だが、その咄嗟感がかえって男子高校生の妄想力を刺激したようで、大月はニンマリと笑うと顎に手を添えて体を後ろに引いた。

「なるほどねぇ、ついに波多野にも淡い春がやってきたのか。ええっと、あそこにいるのはどなたかなー? っと、向坂さん? おーいおい、チャレンジャーだな。向坂さんはクラスの中でもかなりレベル高いだろ」

「レベル?」

「スポーツ万能、成績優秀、品行方正、眉目秀麗。中学では陸上の長距離種目で北信越大会二位の超実力者。明るくて人付き合いも良いから男子からの人気も高い。話しかけることすら恐れ多いくらいの人だぜ?」

 これまで黙って大月の話を聞いていた水屋が柔らかく頷いた。

「なんとなく近づきづらいよねー。わかる」

「水屋さん、それに対してですよ。こちらの波多野は成績並、運動神経並、友達もロクにいないような根暗ぼっちですよ。どう思われますか? 無理でしょ」

「そこまで言う必要は、ないと思うけどね。でもまぁ、奥手じゃ中々どうにもならないだろうね」

「そんなんじゃない。断じて」

「例えるなら月とすっぽん。提灯に釣り鐘、掃き溜めに鶴」

「最後の一つは意味が違わない?」

「掃き溜めと鶴か」

「誰が掃き溜めだ。誰が」

 思わず箸を置いて大月を睨んだ。大月は苦笑いを浮かべると両手の平を上に向け肩をすくめる。

「でも意外だな。波多野は、俺らと同じタイプだと思ってた」

「同じタイプってなんだよ」

「そりゃあ、人気者には恐れ多くて話しかけられない。というか、女子だったら誰でも話しかけられない。男子でさえも、人によっては話しかけられない。奥手で弱い儚げなタイプってことだよ。だいたい、ああいう教室で周りの迷惑も顧みずに喧しく騒ぎ立てる人間には、嫌悪感すら抱いておかしくないはずなんだけどね」

「それは大月だけだろ。お前の数少ないサンプルでもって俺を類例に当てはめるな」

「へいへい。気をつけますよ。ん、おや? そうこうしてたら、向坂さんの机に動きがありませんか?」

大月の言葉に向坂の机を見ると、一人の坊主頭の男子が女子の輪に近づいて行ってるのがわかった。彼は女子達の輪の中に入ると、躊躇いもせずに何やら話しかけている。俺には出来ない。なんだろうと耳をすましてみると、楽しげな会話が聞こえてきた。

「へぇ、じゃあ、向坂は自分でご飯作ってるんだ」

「うん。まぁね。城島くんは、お昼は購買なの?」

「そ。色々食べたけど今のところマスタードソーセージが一番美味い」

「いいじゃん。私も食べたい」

「えー、俺的には向坂の手作り弁当の方が美味しそうだけどな。出来れば毎日作って欲しいくらい」

「ちょいちょい、城島マジ調子乗んなよ」

 他の女子に叱られた男――城島は、軽く頭を下げながら顔をほころばせた。そして全員でケラケラと笑う。なんとも、ドラマ的なやりとりをされていらっしゃる。

 城島龍大は野球部の明るい好青年だ。家族の仕事の関係で隣の県から永山高校に入学して来たらしく、ともすれば周りから浮いてしまいそうなポジションだったのに、五月現在、すっかりクラスに馴染んでしまっていた。つまり、コミュニケーション力の高い天性の人気者というわけだ。

 不意に大月が、俺の肩を勢いよく叩く。彼は片目を細めて口角を上げた。

「恋敵だな」

「違わい」




   三


 俺の毎日は単調だ。七時過ぎになると登校して、無気力に授業を受ける。授業が終われば部活もないので、さっさと家に帰る。そして放課後は家の手伝いと宿題をして、九時か十時には就寝する。ささやかだが、退屈な毎日。それが俺の日常だった。

 家の手伝いと一言でまとめても、やる業務は意外と多様だ。ホールに出て接客をすることもあれば、自転車で出前を運んだりもする。料理の仕込みはそんなにやらない。だが、お客さんに出す漬物を切ったり、シウマイなどの蒸し物を仕上げたりといった簡単な作業は務めている。皿洗いだってお手の物。

 繁忙期になれば、俺の放課後が店の手伝いで埋め尽くされることもあった。

 五月のこの時期は、来る人の数が特別多いわけでも少ないわけでもない。そのため勉強の息抜きに少しだけ店を手伝っている。それでも、基本暇だった。

 今日の放課後は特に手伝うこともなかったので、俺は家に帰るとまっすぐ自室に籠もり、だらだらと時間を潰していた。

 六時を過ぎた頃、不意に居間にある電話から「木星」のメロディーが流れた。居間の電話は内線と外線で着信音を変えていて、木星は一階からの内線を意味している。俺は面倒くさがる体をなんとか起こして受話器を取った。電話口は母さんだった。

「鳴ちゃん。ちょっとおつかい頼まれてほしいんだけど。三丁目の楠木さん家に出前してくれない?」

「どうせ暇なんだから、母さんが行けばいいだろ」

「お母さんは、家のこととかしなくちゃいけないのよ。それとも、鳴ちゃんがご飯作ってお風呂掃除して太郎の散歩行ってくれるの? お願いしたらやってくれる? ねぇ、自転車でそんなかかるところでもないじゃない。パッと行ってきてよ」

 実に面倒くさい。自転車に品物の入ったヲカモチを乗せると結構重たいのだ。体はリラックスモードだというのに、動きたくない。

 だが、ここで断固ノーを突きつければ、今度は家事をしなければならなくなる。それもそれで面倒くさい。

 俺は両方の面倒さを天秤にかけて、出前を取ることに決めた。

 自転車にヲカモチを固定させて家を出た。西の空は僅かに赤く染まっているが、もうすっかり夜の藍色が一面を染めている。自転車のライトを点灯させて、俺はゆっくりと自転車を進めた。

 届け先は、本当に家からほど近い場所にあったので、出前自体はすぐに終わった。適当に礼をして、自転車を返す。帰り道も半分というところで、前方に大きな公園が現れた。

 そう言えば、昨日向坂がよくトレーニングに使うと言っていた中央山公園は、まさにここではないだろうか。茂み沿いをまっすぐに走らせると、やがて木で出来た小さなポールが現れる。そこには文字が彫られていて「中央山公園」とあった。ここだ。

 適当な場所に自転車を停め、公園の中を覗く。入り口から下へ続く長い階段の先に、荒いグラウンドと、芝生と、遊具が並んでいる。俺は一分ほど公園の中を伺って、外周を囲む自然を帯びた散歩道を、グルグルと回る少女の影を見つけた。

 向坂美咲は、学校指定の体操服に身を包んで走っていた。

公園の中には彼女以外には犬を散歩するおばあさんぐらいしかいない。部活を終えてすぐにここに来たのだろうか。

自転車を入り口あたりに残し、公園の中に続く階段を降りる。

声をかけようとして、集中している向坂に気後れする。向坂は俺よりもずっと小さな体で、黒いコウモリの髪飾りを月明かりに照らしながら、ぐんぐんと風を切って進んでいた。

黙々と、リズム良く呼吸を繰り返しながら、前へ前へと進む。インターバルを設けながらも、ほとんど休み無しで走り続けている。アスリートという文字がピッタリ似合っていた。

周囲を見回せば散歩道から少しだけ離れた位置にオンボロなベンチがあったので、俺はそこに腰掛ける。一息ついて、ぼんやりとして視線で向坂を追った。

「よく体力が続く……」

 俺だったら、半分の距離でも、きっとへばってしまい動けない。向坂は大きく腕を振って走っていた。

俺がベンチに座ってから三周目。散歩道の向こうから前進してくる彼女を、変わらずぼんやり見つめていると、いきなり向坂と目が合った。

マズい、と直感した。仲良くもないクラスメイトが、夜の公園でベンチに座り自分を観察しているこの状況。俺が向坂ならかなり気持ち悪い。気味が悪い。気色悪い。

言うことも決めないままに手をあげる。

「これは奇遇。偶然だな。……すまん、嘘だ。ちょっと前から見てた。その、声をかけようかとも考えたんだが、タイミングを逃してしまって。悪かった」

 頭を下げた俺を見て、向坂は首にかけたタオルで汗を拭い、ニコリと笑う。

「波多野、バカ正直だね。そういうところは良いと思うよ」

「向坂は、部活終わりか?」

「ううん。今日は、部活なかったから、自主的に練習をね」

 真面目だ。

「ハードじゃないのか」

「本気じゃないから。あくまで今日は休養日だし、軽いランだけね。やりすぎは良くないし。えっと、格好からして波多野は、また出前?」

「まぁな。出前の帰りにたまたまこの公園の横を通ったから、昨日の向坂の言葉を思い出して、今日もいるのかなと」

「応援しにきてくれたわけだ」

 思わず顔をあげる。向坂は大きな双眸を薄めて優しい表情で俺を見ていた。

 咄嗟に否定する。

「違う。そんな出しゃばったつもりはない。本当に、ただ通りがかっただけで、それ以上でもそれ以下でもない」

 向坂は「そっか」とだけ言った。

 俺はベンチから立ち上がって、向坂に並んで歩いた。

 彼女の荷物がある場所まで、他愛もないお喋りをした。好きな食べ物のこと。勉強のこと。よく聞く音楽のこと。

「そういえば」向坂の視線は公園の遊具を向いている。「学校では、話しかけてくれなかったね」

「向坂は人気者だし、それに放課後の道ばたで、たまたま会っただけだから、話しかけるのもなんか、気兼ねしたんだ」

「難しい言葉知ってるんだね。さすが読書家」

 俺は言葉に窮する。特に会話が不得意だった記憶はないのだが、向坂が相手だと、どうしてだか上手く話が出来ない。

 不意に、向坂が足を止めた。それに気がついて俺も足を止める。向坂はジッとこちらを見てつめて呟いた。

「でもね、出来れば学校で話しかけてくれると嬉しいな。勝手に壁作られても寂しいよ。私は波多野ともちゃんと仲良くしたいって、少なくとも思ってるからさ」

「…………あぁ、すまん」

 反射的に謝ってしまった。向坂は微笑んでいて、俺は俯いたままだった。

 学校はある種、特別な空気を有している。同じ生徒同士と言っても、コミュニティの違いや成績、人気などによって気軽に話しかけられる相手と話しかけられない相手が出来てくる。向坂が俺に話しかけることは出来ても、俺が向坂に話しかけるのは容易ではない。

 俺が話しかけないのは、つまりはそういうことだった。仕方のないことなのだ。なのに、なぜか悪いことをしている気分になってしまう。面と向かって言われると、俺の考えが言い訳のようにしか思えなくなる。なぜだろう。

 沈黙を破るように、ぐぅと間の抜けた音が鳴った。それはお腹の音だった。

 昨日と似たようなシチュエーション。そして今度も音の主は俺ではない。彼女は俺の隣で顔を赤く染めた。

「あはは、またお腹鳴っちゃった。波多野に二回も聴かれちゃったよ。なんでだろ。恥ずかしいな」

「別に生理現象なんだから、恥ずかしがることは――」

 言いかけて、思い出した。

「なぁ、今日のお昼に向坂のお弁当がちらっと見えたんだ。それで気になったんだが、あの量で向坂は足りてるのか? 運動してる人の量にしては、随分少なくなかったか」

「あぁ、まぁ、私は料理が苦手なもんでさ。あんまり、上手く用意出来ないんだよね」

 え、まさか、自分で作ってるのか。

「驚いた。部活までやって、家事までやってるのか」

「お母さんもお父さんも仕事で忙しいから、自分で出来ることはやりたいんだよ。ともかく、心配ご無用。あれでも一応、一日にとる栄養を管理してるから。ちょっとだけお腹は減るけど、全然なんともないよ」

 向坂は務めて明るく笑って見せる。でも、俺はちっとも心配がなくならない。

『なら、俺がお昼を作るよ』

 言いかけて、飲み込む。これは余計なお世話だ。立場をちっとも弁えない、入らぬ気遣いだと自分を諫める。

 俺と向坂はクラスメイトだが、友達でもコーチでもなかった。

 俺は何も言えなかった。言えないまま向坂と別れる。

少しだけ冷える春の空の下、俺はゆっくりと家に帰った


   〇


 その後一週間の間、学校で向坂と話すことはなかった。時々目が合うことがあっても、お互いに話しかけはしない。どちらが悪いわけでもない。気軽に話そうねと口約束を交わしたところで、実際親密度が高くなければ気軽に話したりなど出来ないのだ。

そして日は巡り、月曜日。憂鬱な一週間の始まりに立って、面倒な授業を終えた俺は、なんだかすぐ家に帰る気分にはなれなかった。

帰りのホームルームが終わるとその足で図書室に向かう。図書室は静かで、誰に気を遣うこともないので、俺はゆったりすごしたい時や、暇を潰したい時には、大抵図書室に行くことにしていた。

 図書室横にある掲示板を見ると、学校行事のお知らせが一枚張ってあった。特別棟三階最奥にあるこの掲示板は、他の箇所と比べて目立たないこともあってか掲示物が一際少ない。お知らせによると、もうすぐマラソン大会が開催されるそうだった。

「そういえば、そんな行事もあったような」

 体育も次回から長距離の練習と言っていた気もする。日付は二週間後らしい。もうすぐじゃないか。

脇に添えられた特集も、学校行事に合わせて長距離走の豆知識について取り上げていた。

『よい体を作るには、よい睡眠と、よい食事』

 その通りだが、身も蓋もなさ過ぎやしないか。

 図書室の戸を開けて中へ入った。人気はなく、カウンターに座った当番が一瞬俺の方に目線を向けて、またすぐ手元に視線を落とした。ペーパーバックを読んでいるようだ。

俺はまっすぐ書架へ向かった。目的もなく背表紙をなぞり、タイトルの語感で適当な実用書を取る。パラパラと中をめくれば、有機栽培についての図鑑らしかった。俺はその本を左手に抱えて、適当な席に腰を下ろした。

 没頭すれば周りが気にならなくなる質で、次に顔をあげたのは閉門のチャイムがなる午後七時すぎだった。窓の外を見れば、西の空にカラスが連れ立って飛んでいる。その輪郭も夜闇に紛れてぼんやりとしていた。

「そこの子、もう閉めちゃうから、借りるなら早くしてね」

司書の先生の言葉に本を閉じ、立ち上がる。手早く本を返却ボックスの中にしまって、図書室を出た。

特別棟の廊下は、もうどの教室も消灯しており、薄ぼけた色の蛍光灯だけが点々と端まで続いている。足早に階段へ向かう途中、中庭の方から楽しげな男女の声がした。窓から中庭を見下ろせば、渡り廊下を歩く人の影が見えた。エナメルバッグを肩からかけているから、きっと運動部の誰かだろう。

 俺はしばらくその人影を見ると、目をふいと逸らし階下へと急いだ。

 永山高校の駐輪場は校舎の裏側に並んでいる。ところどころトタン屋根に穴が空いてしまっており、そこから星空が覗けた。一番端にこっそり止めたブリジストンの白い自転車を引き出して、ヘルメットを被った。

「さようなら、会えなくなるけど、寂しくなんかないよ」

 Mr.Childrenの「星になれたら」を口ずさみながら、人気の少なくなった校門を左へ。途中グラウンドの横を通ったので眺めてみると、もうそこに人の姿はなかった。

 家から高校までの間にまたがる、長いたんぼ道を通り抜け、長い浅水川の上を渡る大江橋の終端まで来たところで、俺は自転車を停めた。

 そこにはベンチの上でぐったりと横になっている女の子がいたのだ。

 俺の住む町は田舎だが、ホームレスがまったくいないわけではない。駅前に行けばロクに洗濯もされていないような人形を引きずりながらものもらい同然の生活を送っている人間を見ることも出来る。ただ、こんなたんぼが何反もあるような田舎道で見たことはこれまで一度もなかった。

 しかし、この日俺がその少女を見つけて足を止めてしまったのは、単に物珍しさからではなく、彼女が明確に自分の知り合いだったからだ。

 運動の邪魔にならないよう短く切りそろえられた髪。学校指定の体操服に黒いコウモリの髪飾り。

 そこに倒れていたのは、向坂美咲だった。

「あの、向坂さん?」

 自転車から降りてベンチに横たわる彼女に近づいた。

 胸が上下している。呼吸はある。もう一度声をかけた。

「向坂、おーい。大丈夫か? 向坂さんー?」

 今度は大きめに声を張ったが、反応はない。意識を失っているようだ。

今日は季節外れに冷える。このまま放っておくわけにはいかないだろう。

だがどうする。彼女を起こすには体を揺すったりした方がいいのかもしれない。しかし、不用意に触れて平気なのか。訴えられないか。

普段女子と関わる機会がほとんどないことが裏目に出る。急に陥ったピンチ。俺はどうすれば良いのか思考をフル回転させていた。

どうやって起こそう。やっぱ揺するんだよな。でもどこを揺するんだよ。少なくとも胸は論外だとして、頭もよくないとか聴いたことがある。え、待って、髪サラサラじゃん。腕細ぉ。アスリートなんだよな、その割りに華奢じゃないか。

 ああでもないこうでもない、さてどうしようかと戸惑っていると、ベンチの上の向坂が突然うめき声をあげた。

 驚き、彼女の顔を覗き込む。向坂は眉根を顰めて苦しげな表情を浮かべている。

いったいなぜ、君はそんなに悲しそうなんだ。

「向坂。おい、大丈夫か。しっかりしろ」

 肩を思い切り揺すった。その衝撃で、向坂がゆっくりと目を開ける。

 顔を覗かせていた関係で、自然、互いに目が合ってしまった。

 目をぱちくりとあけ固まる向坂。その数秒後である。

「うぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああ」

橋の上にもの凄い叫び声が響いた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」

 俺は飛び退いて平謝りする。

 向坂は両腕で自分を抱いて俺から身を遠ざけながら激しく狼狽する。

「何々、なんなの。っていうか誰ですか。止めて。来ないで。警察呼ぶわよ!」

「誤解です。波多野です。ごめんなさいでも悪いことしようとしたわけじゃなくて。ただ、ベンチで横になってたから大丈夫かなと様子を見ただけなんです警察は呼ばないで!」

 俺はなんとか落ち着いてもらおうと、必死に弁解をした。誠心誠意の土下座が通じたのだろうか。向坂も寝ぼけ頭から段々と意識が覚醒してきたようで、俺と周囲と自分とを確認すると恐る恐るコチラに顔を向ける。

「あれ、波多野?」

「そうです。なので、何卒通報は勘弁していただけると助かります」

「…………そうか。私眠ってたのか」

 ブツブツと何かを一言二言漏らし、

「ごめんなさい。ちょっと驚いちゃって。波多野が、起こしてくれたんだよね。なのに、失礼なこと言っちゃった」

「いや、こっちこそ、女子の寝顔覗くとか凄い失礼なことしちゃって申し訳ないと思ってる」

「ねがっ」

 向坂は持っていたタオルで慌てて口元を拭った。

「私、変な顔してなかったよね?」

「全然! むしろ可愛かったよ!」

 あ、俺のバカ。何言ってんだ。

 向坂は顔を耳まで真っ赤に染め上げて、喉の奥で小さくうなり声を上げたのだった。

 近くの自動販売機で水を買って向坂に手渡す。彼女はそれをコクリと一口飲むと、ほうと息をついた。

「向坂さん、大丈夫なの。俺が言うことじゃないけど、こんな場所で寝てたら危ないよ」

「ごめん。ちょっと疲れただけで、大したことないから」

「大したことないって、こんなところで寝るってことは、家に帰れないほど疲れてたってわけだろ。練習しすぎじゃないのか」

「そんなことない。本当に大丈夫だって」

「大丈夫なやつは、こんな変な場所で無防備に寝たりしない」

 俺の言葉に反論できないのか、向坂は斜め下を見て口を尖らせた。

「別に、いいじゃん。何なの。別に友達でもないくせに」

 息を飲んだ。頭から血が抜けて急に世界が遠くなったような、感覚。

 向坂はハッと目を開いて頭を振る。

「波多野、違うの。ごめん、私、そういうつもりじゃ」

「いいや、違わない。そうだな。余計なお世話だった」

 大きな声を出したつもりはなかったのに、その言葉はずっと鼓膜に残って離れなかった。

 俺は、何を勘違いしていたんだ。友達でもなんでもない、ただのクラスメイトだっていうのに、これじゃまるで父さんみたいじゃないか。余計なお節介がしたいわけじゃなかった。心の底から、向坂が心配だっただけなのに。でも、それを上手く伝える言葉も、技術も、今の俺は持ち合わせていない。

 その時、ぐぅと向坂のお腹が鳴った。

 沈黙を破る音だった。そして、思い出す。

『飯は力だ』

 これまで学校の外で向坂と三回会ってきた。毎度、同じような時間にお腹を鳴らしているのを見ていた。俺は、腹を空かしている向坂に、お腹いっぱいご飯を食べて欲しかったんだ。

「あはは、お腹も空いてるみたいだし。そろそろ帰るね」

 向坂は空気を誤魔化すように笑ってみせる。でも俺は笑わない。

 俺はまっすぐ向坂に向き直ると、その目をジッと見つめた。

「俺は、向坂の友達じゃない。でも、お腹を空かせた人を、放っておけない」

「え」と驚きの声を上げる向坂の腕を、俺は思わず掴んでいた。

「向坂。俺の家に来てくれ」

「家にって、なんで」

「いいから。黙って来い」

 俺は向坂の腕をしっかりと掴んでいた。




   四


 家の脇に自転車を停める。

 ここに来るまでの道中、終始戸惑うような表情を見せていた向坂だったが、「波多野飯店」の文字が見える頃には観念したようで、まじまじと俺の家の様子を観察していた。

「ここが、波多野君のお店?」

「俺の、父親のだよ」

「随分、貫禄があるね」

「まぁな。じいさんの頃からやってるらしい。この辺りでも古株だそうだ」

「あ、良い匂いがする」

 目を閉じて向坂が言った。中から漂ってくるのは野菜炒めの香りだ。

 俺は向坂を促して、正面口から中に入った。瞬間、父さんの威勢の良い声が飛んできた。

「いらっしゃいませ。……って、なんだ。鳴か。お帰り」

「ただいま。お客さんは?」

「見てわかるだろ。誰もいねぇよ。どこ行ってたんだ、遅かったじゃねぇか」

「ちょっとね」と言葉を濁して、俺は後ろに立つ向坂を招き入れた。

 恐る恐る、といった感じで入店する向坂。布連を潜り店内に入ると、中を見回して「ほー」と息を吐く。

 店内はがらんとしている。カウンター席が五つ。テーブルが四つと少し手狭だが、個人店ならこんなものかなと俺は思っている。

 適当に入り口に近いテーブルへ近づいて、椅子を引いた。

「ここ、座ってくれ」

 向坂は言われるがまま上座に座る。俺は自分の鞄を奥に引っ込めるついでに、水を注いだグラスをテーブルに一つ持っていった。

その背中に、呼び声が掛かる。振り向くと父さんが、信じられない光景を見たかのように目を点にしていた。

「鳴。そっちの可愛い子は、なんだよ。誰なんだ」

「すまない。急に連れてきて。何でもいいから、何か栄養のあるもの食べさせたいんだ。適当に作ってほしい」

 俺の申し出に、父さんはすんなりとは頷かずに唸った。

 都合の良いお願いを父さんにしていると自分でも思う。慈善事業で料理を出しているわけではない。何でも良いから適当になんて、商売にならないことはわかっている。

 でも、それでも、俺は向坂が心配だった。

 父さんはしばらく考えた後、真面目な顔で俺に訊いた。

「彼女なのか?」

「違う!」

 思わず声が裏返った。一つ咳払いを入れる。

「違う。ただのクラスメイトだよ。でも、少し心配してるんだ」

 言い切って、父さんを正面から見返した。

 父さんは少し閉口して、おもむろに口を開く。

「食べられない物聞いてこい。今日は、特別だぞ」

「…………ありがとう」

 厨房に入っていった父さんを見送って、俺は向坂に向き直った。

「何かアレルギーあるか? 嫌いなものとか」

 俺が訊ねると向坂は、

「いいよ。そんなつもりで来たわけじゃ本当にないから!」

 と固辞した。

「遠慮するな。お金もいらない」

「やめて。それは、施しを受けたみたいで、気分が悪いよ」

「でも、そうでもしないと食べてくれないだろ」

 食い下がる俺に、向坂は段々と声を大きくしていく。

「誤解してるかもしれないからハッキリ言うね。私は食事をしっかり管理してるの。少ないように見えるかもしれないけど、ちゃんと考えてるんだから。だいたい、波多野が無理矢理連れてくるから来たけど、迷惑なの」

「でも、それで倒れてたら意味ないだろ」

 被せるように声を発していた。

深呼吸を一つ。向坂につられてヒートアップしそうなテンションを、なんとかなだめる。

「アスリートなのは知ってる。向坂が、ちゃんと本気で取り組んでるのもほんの少しだけど知ってる。でも、あんな食事の摂り方はダメだ。明らかに少ない。必要最低限の食事じゃ向坂には合ってないんだ。だから倒れた。勝つ体を作るためには、十分なご飯を食べないとダメなんだよ」

 食事はそのままエネルギー補給だ。電気のない家電が働かないように、食事を不適切に制限しても十分なエネルギーは得られない。

 俺の言葉に、向坂は答えてくれない。その沈黙を肯定と受け取って、俺は改めて訊ねる。

「アレルギーとか、嫌いな食べ物は?」

 実時間にして五分も経っていないだろう。だが、向坂が口を開くまでの間には途方もないような長い時間が流れたように感じられたのだ。

 向坂は、やがてポツリと呟いた。

「食べれないものは、ないです」

 それは実に丁寧な言葉遣いで、彼女の気さくさから考えれば距離を置かれたように思われて少し寂しかったけど、それ以上にご飯を食べてくれるのが嬉しくて、俺は噛みしめるように深く頷きながら「わかった」と返事をした。

 父さんを手伝うために、向坂をテーブルに残して裏へ回ろうとしたところで、住宅スペースに繋がる廊下からこっそりとホールの様子を観察していた母さんに出くわした。

 母さんは俺を見るなり肩を掴むと、

「鳴ちゃん。あの子はどこの子? お友達? 同じ学校の制服よね。え、ひょっとして彼女さんだったりするの……?」

 勢いよく俺の肩を揺らしてきた。

 さっきも父さんにしたような問答で、正直うんざりする。

「違う。ただのクラスメイト」

「でもでも、家に連れてきたってことは、好きなのよね」

「なんでそうなる。ただ……、ご飯ちゃんと食べてなさそうだったから、ウチなら食べられるかなって思っただけだ。あ、そうだ。今日のご飯代は後で俺が働いて払うから、あの子からは取らないで欲し」

 ギョッとして言葉が途切れた。

 母が薄らと目に涙を溜めていたからだ。

「なんで泣いてるんだよ」

「だって……。鳴がお友達を連れてきたから、お母さん安心で……。きっとお父さんも同じ気持ちだからね」

 気持ち悪い。何度も言うがただのクラスメイトだし、そんなに大騒ぎすることでもないと思うが。

 母さんは俺の頭に優しく手を置いて笑いかける。

「鳴ちゃん。任せておいて」

 俺はすぐさまその手を払いのけた。

「子供扱いするな。任せるって、何をだよ」

「ふふ、お母さん達は鳴ちゃんの親なんだから、ちゃんとわかってるの。こっちのことは良いから、ホールに戻ってあの子と話をしてきなさい」

「え、いや、話すことなんて」

「良いから良いから」

 母さんは俺を無理矢理回れ右させると、強い力で裏から追い出してしまった。

 こういう時の力はいったいどこから出てるんだろうか。

 手持ち無沙汰になってしまったので、ズコズコ席へと戻っていく。俯きがちな俺が戻ってきたのを見て、しかし向坂は何も言わなかった。

 話をしろと言われたが、俺は何も口に出せなかった。ただ黙って横に座っているだけだった。気の利かない自分が、少し嫌になった。

 やがて厨房から美味しそうな香りが漂ってくる。そして配膳のお盆を持った母さんがテーブルへとやってきた。

「はい、お待たせしました。野菜炒め定食です」

 向坂の前に置かれた盆には、ご飯とお味噌汁、野菜炒めと菜花和え、それにカットバナナがついていた。町中華の料理というより、学校給食といった献立である。

 父さんの方を見る。

「アスリートって聞こえたからな。こっちの方が、栄養バランスも良い」

 お盆は二つあって、母さんは向坂と、なんと俺にも出してきた。

「ちゃんと温かいご飯を、誰かと一緒に食べるっていうのも大事なことなのよ」

 母さんはボソリとそれだけ耳打ちすると、ご満悦そうに奥へと引っ込んで行ってしまった。

 お盆を下げるわけにも行かずに、俺は戸惑う。

 向坂の方をチラリと見ると、箸を取る手に躊躇いが見えた。

 誰かと、一緒に、ね。

 俺はまっすぐ箸を手に取ると、顔の目の前で合掌する。

 俺の仕草を見て、向坂も静かに合掌した。

「「いただきます」」

 二人の声が、揃ってホールに響いた。


   〇


 ご飯からは湯気が立っていた。米の一粒がちゃんと起きていて、照明を反射して眩しいほどに輝いている。みそ汁はワカメと豆腐が入っただけの簡単な物だ。しかし、白い味噌からほんのり甘いうま味の香りが漂ってくる。人間出汁には逆らえない。いつも店で出す野菜炒めは味付けを中華風に濃くするため色味も濃くなってしまうが、今日の野菜炒めは塩こしょうで味付けしただけの簡単なものだった。その分にんじんやもやし、青梗菜の彩りが映えて食欲をそそられる。菜花和えはお酢で味付けをしているためさっぱりとした味わいだった。

 俺にはどれも食べ慣れた味だけど、向坂はどうなのだろうか。美味しいと思ってくれているだろうか。

 顔を見て、野暮な考えを一蹴した。

 その思わずあがった口角が、言葉よりも雄弁に向坂の感情を語っていたからだ。

 俺達は黙々と食べた。おかずと汁物とご飯を、頬張って噛みしめた。会話はなかったが、気まずくもなかった。

 はじめに俺が「ごちそうさまでした」と言い、少し経ってから向坂が「ごちそうさまでした」と告げた。

 俺がお盆を持って立ち上がる。向坂も立とうとしたが、俺がその分も引き受けた。

「美味しかったですって伝えておいて」

 向坂が控えめに言ったから、

「それが一番の褒め言葉だよ」

と俺は笑い返していた。

「悪かったな。無理矢理連れてきて」

 席に戻ってから、俺は向坂に頭を下げた。改めて考えると、かなり強引なことをしていたと思う。怒られたって仕方がない。

 だが、向坂はそんな俺の言葉に首を振った。

「気にしないで。ううん、むしろ、私こそありがとうだよ。お腹減って、道ばたで倒れてたって、心配するなって方が難しいもんね。ごめん」

「そんなこと……」

 ないよとも言えない。何も、言葉に出来ない。

「――向坂ってさ」

「何?」

「いや。三回、俺は向坂を学校の外で見てるけど、ずっと体操服だろ。それって、やっぱり学校の外でも走ってるってこと……だよな。運動部で、部活でも手を抜いてないんだろ。なのに放課後も練習するって、凄いなって思うんだ」

 ぽつりぽつりとこぼれた言葉は、本心に近い部分の独白のようだった。

 向坂は凄い奴だ。

「部活も、勉強も手を抜かず、なのに皆に気さくで。それに、陸上をあんなに打ち込んでる奴を、俺は知らない」

 陸上どころか。部活道を、何か一つのことを精一杯やっている人間を、俺は知らない。クラスの大半は、勉強とか部活とか恋愛とか、そう言う青春っぽいものをそれとなく手広く味わって、今しかない時間を謳歌しているように思える。

 もちろん、それが悪いことなんて思わない。でも、

「何か一つのことを精一杯やるのって、カッコいいなと、俺は思う」

「……ありがとう」

 向坂は黙って聞いてくれていた。その視線が温かくて、申し訳ない。

「向坂は、陸上好きか?」

「なんでそんなこと聞くのさ。……好きだよ。もちろん。好きじゃなきゃ、こんなに一生懸命やれないよ」

「辛くないのか。練習、止めたいって」

「辛くない、って言ったら嘘になるかな。楽しくないこともあるし、苦しいこともある。でもね、止めたいって思ったことはないよ。不思議と」

「それは、やっぱり陸上が好きだから」

「どうだろう。私は陸上が好きだけど、でも好きだから止めたくないってわけじゃ、ないと思うな」

「なんだそれ。好きだから頑張れるけど、好きだから止めたくならないわけじゃないって、支離滅裂じゃないか」

 俺は顔をほころばせる。

向坂はとぼけた表情だ。

「私の中では矛盾してないよ。頑張れる理由と、続けられる理由は、違ってていい」

「なら、どうして向坂は陸上を続けられるんだ」

 俺の問いかけに、向坂は少し口を噤んだ。でも、すぐに答えてくれた。

「私ね。夢があるの」

「へぇ、それはどんな」

「私、中学の陸上でそこそこ良い成績残してたんだ。だから、高校ではもっと良い成績を残したい。私ね、高校生の中で、一番早いランナーになりたいの」

 一番早いランナー。すなわちそれは、高校総体一位を目指すということに他ならない。

 俺は呆気にとられていた。まさかそんな夢物語を、こんなに真剣な言葉で語る同級生が、クラスメイトにいるなんて思わなかったからだ。

「凄いな。向坂は、凄いな」

 ようやくひねり出した言葉は、実に間の抜けた、しかし偽りのない本心だった。

 俺は続ける。

「でも、それならなんでウチの高校なんだ。陸上の強いとことか、俺にはわかんないけど、私立とか、そっち目指した方が良かったんじゃないのか」

「あー、やっぱそう思うよね。ま、理由は色々あるんだけど。私がウチの高校を目指した一番は、本庄先生がいたことかな」

 本庄先生。誰だそれ。

「わかんないって顔してるね。陸上部の外部コーチやってくれてる人なんだけど。この人、昔陸上の世界大会に日本代表で出たことある人なんだ」

「日本代表! そんな凄い人がいたなんて知らなかった」

 驚きで思わず大きい声が出た。

 向坂はケラケラと笑っている。

「驚くよね。私も超驚いた。本庄先生は、私がもっとうんと小っさい頃、たまたま行った陸上の大会で見たことがあってね。その時はもう日本代表じゃなくなってて、出場選手の中でも結構ベテランになってたんだけどさ。それでも、もの凄い早さで目の前を走り抜けていったの。あの時のことは、ずっと忘れてない」

 噛みしめるように語る向坂の目は、まるで恋する乙女のようだった。

「先生ね、ウチの高校の出身でさ。昔はこの辺りに私立なんてなくて、ウチも陸上そこそこ強かったらしいんだよね。で、現役を引退した後、母校に恩返しするためだからって、コーチになったの。私、それ聞いた時舞い上がってさ。運命だ! ここに行くしかないって。それが、私がこの高校を選んだ理由」

 語り終えて、照れくさそうに水を飲んだ。

 向坂は、ちゃんと本気なのだ。惰性で生きてる俺なんかと違って、ちゃんと本気でやってるんだ。

 そう思うと、俺の胸の中を埋め尽くしたのは、圧倒的なドキドキだった。

「恥ずかしいや。友達にも話したことないのに、なんで言っちゃったんだろ。ごめんね、こんな話、何にも面白くないでしょ」

「……そんなことない。そんなことない」

 俺は向坂の目を見れないでいた。でも、伝えずにはいられない思いがあった。

 息を深く吸って、吐き出す。

「向坂、あのさ」

「どうしたの?」

「えと、その、俺は口下手だし、気の利いたことも言えないし、空気を読むのも苦手だ。でも、俺は向坂のことを応援してる。たぶん、そんなに表だって何か出来るってわけじゃないけど、心の中で頑張れって言ってる。これから、向坂が夢を叶えるまで、ずっと、応援してる。負けるなって。頑張れって。向坂なら出来るって!」

 とりとめなく言葉が出てくる。言いたいことがまとまらない。だけど、伝えずにはいられなかった思い。それを、ありのままに吐き出した。不格好でも、伝えようとした。それは向坂が俺に夢を語ってくれたからだった。

「その、だから、どうってわけじゃなくて、えと、つまり……」

 上手くオチを付けられない俺に代わって、向坂が優しく微笑んだ。

「つまり、私の応援団になってくれるんだ」

 向坂の声は弾んでいた。

「ありがとう、波多野」

 真っ正面からそう言われて、俺はただ、頷くことしか出来なかった。


   〇


「それじゃあ、そろそろ良い時間だから」と向坂が時計を指した時、時間はもう八時を過ぎていた。

 お代はいらないと言ったら、そんなことは出来ないと揉めてしまったので、出世払いということで何とか納得してもらった。父さんは「次はお家の人と来てくれれば、それでチャラだよ」と売り込んでいた。

 一人で帰ろうとする向坂を途中まで送っていくと押し切り、結果俺達は公園まで並んで歩くことになった。

「男の子なんだから、女の子を夜道で一人きりにしちゃダメよ」

 そう言う母さんは叱りつけるポーズを取っていたが、にやけ面が隠しきれていない。余計なお節介は、親譲りなのかも知れないなんてことを思った。

 公園につくまで、俺達は一転して何も話をしなかった。

 それは料理が出てくるまでの時間と同じだったが、なぜだか今度は嫌な感じが一切しなかった。

「送ってくれてありがとう。後は大丈夫だよ」

 公園の入り口まで来た時、向坂は俺を振り向きそう言った。

「今日は、色々と、こちらこそありがとう」

「なにそれ、話し方変になってる」

 向坂は弾けたように笑う。俺はムッと眉根をよせてみせる。

「生憎、話し方は生まれつきだ」

「そっか。なら、もっと話す練習しないとね」

 そう言うと向坂は俺にそっと手を差し出す。

「LINE。交換しようよ。そしたら、いつでも話せるでしょ」

 その中には、可愛らしいスマートフォンが、LINEのQRコードを夜闇の中に浮かび上がらせていた。

 俺は高校に入ってから、否、これまでの人生の中で両親以外の人間とLINEを交換したことがない。

 だから、こういう時、なんて言えばいいのかわからない。喜んで交換するのか、それとももっと何かしなければ怒られるのだろうか。

 黙って画面を見つめる俺を見て、向坂は首をかしげる。

「どうしたの。なんで黙ってるの?」

「や、その、LINEなんて、学校の人と交換したことないから、なんて言えばいいかわからなくて」

「えー。ちょくちょく思ってたけど、波多野って面倒くさいね」

 そういうことを真顔で言われると傷つく。

「ほらほら、うだうだ言ってないで携帯出しなよ。LINEなんて、構えるもんじゃないんだしさ。皆友達と普通に交換してるって」

「でも、それは友達だからであって、俺と向坂が交換するのは違うんじゃないか?」

「…………本気で言ってんの? 私達、もう友達じゃん。それとも波多野は違うって言うの」

 向坂が俺を友達と言ってくれた。それに驚き、嬉しさで大きな声が出た。

「! ち、違わない!」

「よろしい。なら、スマホ出しな」

 向坂に促されるままにスマホを取り出す。

 互いのQRコードを読み取ると、向坂のアイコンが画面に出てきた。俺は登録ボタンを押して、向坂と友達になった。

「じゃあ、また明日学校で。バイバイ!」

「うん。また、明日」

 元気よく公園の向こうに走り出した向坂の小さな背中に、俺はそっと手を振ったのだった。

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