トンネルのおゆきさん
羽虫十兵衛
トンネルのおゆきさん
「寒いなあ、太郎」
林蔵はリードにつながれた小さな頭をなでてやった。太郎は答えるように小さく鳴いた。歳をとった犬は
ここでの暮らしは、東京近郊での生活に比べてずいぶん質素かつ不便である。街灯はほとんどなく、車もないので近くのスーパーまで片道二十分はかかる。虫も多く、冬は寒いし夏は暑い。だが、これといって不満はなかった。「起きて半畳寝て一畳」を人生の
傍から見れば老いぼれた犬と死を待つだけの独居老人も、本人にすれば気負いのない身軽な楽隠居に他ならなかった。といって、社会との接点を全く絶ったわけではない。週に数回訪れる剣友会と、毎日定刻に行われる犬の散歩が、言ってみれば彼の「生存報告」だった。
林蔵の散歩コースは、山間の国道をしばらく歩き、開けた田んぼを
しかし。
林蔵の後退した額に、ポツポツと小ぶりな雨が落ち始めた。あいにく、傘も合羽も持ってきていない。散歩を続けるか引き返すか迷っていた所へ、大通りの横道に行き当たった。手早く切り上げるべく、林蔵はその道を曲がった。
どこへ続く道かは知らないが、方角は我が家の方に伸びている。だから、そのうち知った道に出るだろう。そんないい加減な目算で、森林を切り開いた薄暗く陰気な道を進んでいった。
ほどなくして、林蔵は古いトンネルに突き当たった。立てられた看板には「
トンネル内は殺風景だった。黄ばんだ蛍光灯の下、放置された工具や立ち入り禁止の看板が、隅の方で白いほこりをかぶっている。溝にはドブのような水がたまり、カビともコケともつかない緑色の汚れが張り付いていた。
手入れをされていない廃墟のようなもの寂しさが、人通りの少なさを物語っている。床のひび割れも多く、林蔵はつまずかないよう足元をよく見て歩いた。砂を踏むざらついた音と、太郎の荒い呼吸だけがトンネル内に反響する。出口から光が見えた頃、ふと視線を上げると、林蔵の目に奇妙な光景が飛び込んできた。
出口の所に、誰か座っている。
女だ。
髪の長い、白い服の女が、トンネルの灰色の壁にもたれかかっているのだ。
林蔵ははたと足を止め、相手を見た。真冬なのに、夏場のような薄着である。白いブラウスの胸元がはだけ、
林蔵はよほど声をかけようかと思った。彼の目に映るその若い女は、どう見ても普通ではない。
―――この女、人間ではない。
女は、体が半分透けていた。死人のような肌が、豊かな黒髪が、モノクロームの装いが、半透明のビニールのように陽の光を透過しているのだ。出口の向こうの景色が、
初めて出会う奇怪な現象に、林蔵は戸惑いを隠せなかった。これはいわゆる「幽霊」というやつなのか、それとも彼の老朽した脳が見せる幻覚なのか。できれば後者であってほしかった。しかし、その期待はかなわなかった。太郎が、尻尾をふって女の方に駆け出したのである。見えているのは林蔵だけではないらしい。
「ばかっ」
林蔵はとっさに叱りつけ、リードを引いた。トンネルに大声が反響し、太郎がビクッと身を震わせた。誰にでもなつく犬だが、人でないものでも例外ではないらしい。おとなしくなった太郎を抱きかかえると、林蔵はきびすを返してトンネルを駆けだした。
女は身じろぎもしなかった。
翌日。地元の体育館を間借りした剣友会の一角である。稽古の後、林蔵は友人の
「それじゃあ
「おゆきさん?」
林蔵は
「あのトンネルに出てくる女の幽霊だよ。色白のべっぴんさんだから、昔からみんなおゆきさんって呼んでるんだ」
「・・・・俺はそんな話、聞いたこともないよ」
「まあ、
宗像の話によると、松葉隧道では古くから女の幽霊が目撃され、少なくとも彼の父親の代から見られたという。現在ではそれを知る者は多くないが、それは単に人通りが少ないという理由と、近隣住民がみな老齢で話が外に広まらないという事情のためらしい。
「へえ。それにしても何者なんだい、そのおゆきさんってのは」
「さあねえ、詳しいことは誰にもわからん。その昔、特高に拷問されて殺された女が化けて出るんだとか、お産で死んだ妊婦が赤ん坊を探してるんだとか、いろいろと言われてはいる。ただ、どれもいい加減なうわさだよ」
林蔵が一番知りたかった部分は、なんともあいまいだった。素足で、生爪がはがれ、力なく壁にもたれかかったあの姿。あれは誰かを恨んでいるとか、探しているといった様子ではない。強いて言うなら。
―――疲れきって、誰かを待っている。
そんな姿である。
林蔵の無言を恐れと取ったのか、宗像は背中を叩いて元気づけるように言った。
「
「
林蔵は混ぜ返して笑った。脳裏には、なぜかおゆきさんの影が焼き付いて離れなかった。
それからというもの、林蔵は散歩中に興味本位でトンネルを通るようになった。宗像の言う通り、彼女は本当に何もしなかった。ただ置物のように座っているだけで、まばたきもしなければ言葉も発しない。太郎は彼女を見るたびに喜んで駆け寄ろうとするが、さすがにそれは止めた。
力なく座り込だ無言の幽霊。それは不気味といえば不気味だったが、しだいに恐怖よりも
そのうち、林蔵はおゆきさんに話しかけたり、お供え物としてみやげ物の生菓子をそなえることもあった。全くの無信心で、仏壇のほこりを払うのも
そうして幾日かが過ぎた。
ある日のこと。いつものように太郎を連れてトンネルを出た林蔵は、林道の木に見慣れない張り紙がしてあるのを見つけた。何の気なく読んでみて、あっと思わず声が出た。そこにはこう書いてあったのである。
『 注意 山にゴミを捨てないでください。カラスや他の動物が荒らして中身が散乱します。
トンネルが通る山林の、持ち主のものであった。しかし林蔵が驚いたのはそこではない。その下に
むき出しの地面に、円形にくぼんだ箇所がある。張り紙のある木のすぐ近く、深い茂みの奥だった。そのくぼみの真ん中に、和菓子の中身やパッケージが散らばっている。明らかに野生動物が食い荒らした跡である。林蔵が驚いたのは、それらがすべて、彼がおゆきさんに手向けたものだったからだ。思い返せば、トンネルに置いた菓子類は、最近見なくなっていた。
林蔵は自分の浅はかさを恥じた。人通りが少ないとはいえ、こんな場所に生ものを放置すれば、山の動物たちが漁りに来るに決まっている。当然、土地の関係者だって迷惑するだろう。考えればわかることなのに、
―――どうして、菓子はここにあったんだ?
林蔵が菓子を置いたのは、トンネル内だったはずだ。出口に近いとはいえ、それらがすべて山中で見つかるとは考えにくい。動物というのはたいてい、ゴミ捨て場のカラスのようにその場で食べ物を漁ってゆくものだ。巣やねぐらに持って帰るにしても、パッケージも開けずに持ってゆくとは考えにくい。他の通行人が片付けたのだろうか。
不思議に思った林蔵は、林道を外れたヤブのくぼみを確かめてみた。直径は約一メートルほどで、それほど深くはない。ゴミはあらかた片付けられていたが、細かい袋の破片が残っていた。それを何気なく手に取ろうとした時、突然太郎が激しく吠え始めた。林蔵は腰を抜かさんばかりに驚いた。普段は大人しく、めったに吠えない犬なのである。
「どうした、太郎」
右手のリードがピンと張るのが伝わってきた。太郎がくぼみの中心に走り、犬かきでもするように地面を掘り始めたのだ。後ろに黒土が盛り上がってゆく。太郎は深く掘った穴に鼻先をつっこみ、何かをかき出そうとしていた。
見かねた林蔵が太郎を抱き上げると、そこに赤茶けた
赤茶色の陶器と思えたものは楕円形で、穴が三つ逆三角形についている。その下に貝殻のような平たい破片が横一列に並び、何かと思えば歯であった。それは紛れもない、人間の
後日。
林蔵の通報により、警察の調査が行われた。その結果、同じ場所からさらに小柄な人間ひとり分の人骨が発見された。一時住民は騒然となったが、すぐに落ち着きを取り戻した。
正確な時代の特定は困難だが、遺骨は少なくとも死後百年以上は経過している。骨盤の形状から、性別は女性と断定。死因は不明だが、明治から戦前にかけての戦火や災害、事件事故等で死亡したものとされ、いずれにしろ事件性は認められなかった。
歴史的な遺物とも無関係なため、最終的に自治体に引き取られ、無縁仏として埋葬された。その始末は淡々とこなされ、いつしか人骨が出土したという出来事も、人々の記憶から忘れ去られていった。
そして。
白骨が発見されたその日から、おゆきさんはトンネルから姿を消した。もうどこにも見ることはなくなったのである。林蔵は大して驚かず、やはりそうか、と思った。あの遺骨は、やはりおゆきさんのもので間違いなかったのだ。
太郎がひどく寂しがるので、しばらくトンネルには行かなかった。ほとぼりが冷めた頃、思い出したようにまた訪れた。陰気なトンネルを歩きながら、林蔵はおゆきさんのことを考えていた。彼女は一体何者なのか。どうしてこのトンネルに居つくことになったのか。
おゆきさん。そうよばれた女は、はるか昔に死んでいた。警察の見解によれば、林蔵が生まれるより前である。この土地との関係は不明だが、墓地や
誰にも気づかれず、
体を土中に埋められた彼女は、霊体となってものしかかる土の重みに苦しんだのだろう。ほとんど身動きが取れず、口をきくことさえ息苦しくてかなわなかった。力なく座り込んだまま、一言もしゃべることができなかったのは、そのためだ。長年の苦しみは、女から希望を奪っていった。
とはいえ、かつては自分で自分の体を掘り起こそうとしたこともあったと思う。両手にこびりついた土汚れと、はがれてしまった生爪が、その証拠である。彼女は重く動きづらい体で、何年もかけて必死に穴を掘り続けた。遺骨発見場所のくぼみは、その痛ましいまでの苦労の跡だ。
しかし、その作業は絶望的な重労働だった。穴は一向に深まらず、無理に素手で掘り続けたため爪ははがれた。遺体がどれほどの深さにあるかわからないという
人通りが少ないとはいえ、トンネル内であれば通行人は必ず自分の存在を認識する。そこから遺棄された人骨にまでたどり着く可能性は限りなく低いが、ヤブのくぼみに陣取ったところで、気づいてもらえる望みはさらに薄い。
そうして女はトンネルに居つく亡霊となり、人々から「おゆきさん」と呼ばれるようになった。宗像の父親たちの時代である。それから、彼女は待った。自分を救い出してくれる誰かを、ひたすら待ち続けた。だが願いはかなわず、百年以上もの間、ただ薄暗いトンネルの小さな怪異として、地元の人々に知られる存在に過ぎなかった。
そんなおゆきさんに
おゆきさんは力を振り絞ってトンネルを
果たして、木に張られた注意書きを読んだ林蔵は、遺骨が埋まるくぼみまでたどり着いた。動物の本能か、人間にはない第六感によるものか、隠されたものに気づいた太郎は、土中から女の白骨遺体を見つけ出した。おゆきさんの悲願は、達成されたのである。
ふと顔を上げると、トンネルの出口が見えてきた。かつて女が寄りかかっていた場所には、もう誰もいない。太郎が残り香を
「太郎。おゆきさんはな、もう行ってしまったんだ」
林蔵は子供に言い聞かせるような口調だった。悲し気な語気が伝わったのか、叱られた後のように太郎はうなだれた。
「お前のおかげだよ」
しわだらけの手が、小さな頭をなでた。太郎がいなければ、おゆきさんはずっとこの地にとらわれたままだったであろう。現世のしがらみから解放したのは、他でもないこの老犬なのである。彼女が浮かばれて、本当に良かったと林蔵は思っている。
「行くぞ、太郎」
名残惜しそうにその場から動かない犬を、林蔵は引っ張っていった。太郎はあきらめたように歩き出し、何度も何度も振り返りながら、ゆるやかな山道を下りて行った。
誰もいないトンネルに、うつろな風がこだまする。
女が寄りかかっていた灰色の壁に、赤黒くにじんだ
『 りんぞう たろう ありがとう 』
トンネルのおゆきさん 羽虫十兵衛 @mekades2000
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