第25話 胸の痛み

 馬車を引く二頭の馬の蹄の音。そして車輪が地面を転がる音。


 会話のない馬車の中では、ジュールにとって唯一の救いの音色だった。


(どうしよう、さっきから口も聞いてくれない)


 自分は何か失態を晒したのだろうか。不躾なほど、レオリールを凝視していたから?


 彼の紳士的な振る舞いは、ジュールの目を釘付けにした。背筋を凜と伸ばした立ち姿は美しく、挨拶に訪れる気難しげな年配者もそつなくかわしていた。


 それなのに、時折自分のことを気にかけ向けられる視線。


 なぜか胸が高鳴り、目を背けてしまった。どう考えても失礼な態度だ。レオリールも怪訝な顔をしていたし、怒ったとしても不思議はない。加えて、ダンスの機会まで作ってくれたのに、自分のはっきりしない態度のせいで台無しにしてしまった。


 不安がどんどん膨らんできて、ジュールは顔を上げていられなくなる。もう額が膝についてしまいそうだ。


 そんなジュールを見かねたのか、「何をやっている? 気分でも悪いのか」と平坦な声がかけられる。


「いいえ……」


 ゆるゆると頭を左右に振ると、「背を丸めて下を向くな。紳士だろう」と言われ、ジュールははっとする。


(そうだよ! 紳士たる者、毅然としていないと)


 気持ちは落ち込んでいても、周りに悟られるなんて修行が足りない証拠だ。


 ジュールは背筋を伸ばし、しっかりと前を向く。


「まぁ……私が悪かった。念願のダンスの機会を潰したのだから。──そんなにあの子と踊りたかったのか?」


 向かいに座るレオリールが、決まり悪げに自分を見ている。


「えーと、踊りたかったというか、誘われた理由にがっかりしたというか……」


 レオリールに言っていいものかと、口ごもってしまう。


「なんだ、その歯切れの悪い物言いは。はっきり言いなさい」


 言葉とは裏腹に、気遣うような視線を向けられる。


「はい……。はじめは嬉しかったんです。踊りませんかって誘ってもらえて」


 長い髪をくるくると巻いた、可愛らしい年下の女の子。赤いドレスに、白いレースが胸元を飾っていた。目はまん丸で、気の優しそうな品のある笑みを口元に浮かべていて、とても好印象だった。


「でも、僕がもじもじしてしまったせいで、機嫌を損ねてしまったんです」


「もじもじって──優しく手を取って、ホールの中央へ行くだけだろう」


 何を戸惑う必要がある? とレオリールは不思議そうに首を傾げる。


「簡単に言わないでください。女の子の手なんて、握ったことないんですから……」


 こんなこと、自慢にならない。できることなら言いたくなかったのに。


「そうか……それで? 機嫌を損ねられて、どうしたのだ」


 優しく先を促される。心なしか、声が嬉しそうに聞こえる気もする。


 お子様な自分が愉快だった?


 唇をとがらせレオリールを見ると、僅かに口角を上げ温和な笑みを浮かべていた。それは、はじめて目にする温かな笑顔だった。 


 そのことに、胸のモヤモヤが一気に晴れる。


「実は、『早くしなさいよ、私が変に思われるでしょう! 勘違いしないでよね、レオリール様の頼みでなければ、あなたなんか誘ったりしないわ』って言われたんです」


 女の子って、やっぱり怖い。見かけはあんなに可憐で、穏やかそうだったのに。


 あのとき、レオリールが帰ると言ってくれて、ジュールはほっとしたのだ。その心情を、正直に吐露する。


「貴族の女は、気位の高い者が多い。親から受ける教育が、そうさせているのかもしれないがな。よりよい家柄に嫁ぐことが、幸せなのだと言い聞かせているのだ」


「そんな──悲しいこと……。愛がない結婚なんて、僕は嫌です」


 自分の両親は仲睦まじく、愛に溢れている。互いに恋をして、幸せな結婚をしたのだと母親から聞いていた。けれど貴族社会を知った今だからこそ、わかることもあった。

 母親はドアナール領の公爵家の娘だ。田舎の伯爵家に嫁ぐことを、陰で笑う者もいたのではないかと。


 でも、愛が勝った。


「愛など、いつまでも続くものではない。薄れて消えていくものだ」


 レオリールなら、自分の考えに理解を示してくれる。そう思っていた。しかし、返って来た言葉は突き放すような物言いで。


「レオリール兄様……どうしてそんな──」


 ジュールはレオリールの表情を見て、はっとし言葉を呑み込む。

 感情の見えない、能面のようだったからだ。目の中には暗い翳りが浮かんでいるようにも見えた。


 こんなレオリールを見るのははじめてで、ジュールは困惑する。


「あの、レオリール兄様は、愛がなくても結婚できるんですか?」


「私は結婚などしない。煩わしいだけだ。恋に夢見るのはいいが、私を巻き込まないでくれ」


 強くきっぱりとした口調だった。その中に拒絶の鉄壁を感じる。この感覚は、以前にも触れた気がした。いつだっただろうか。


(あ……肩の傷──)


 レオリールは、心に何を抱えているのだろう。


 また、馬車の中に沈黙が漂う。


 ジュールは口を閉ざしてしまったレオリールを、そっと窺い見る。


(涙が……出そうだよ)


 腕を組み険しい顔で目を閉じている様は、話しかけるなと言われているようで、胸が苦しくなるのだった。


 ※※※


「ジュール様、何かあったのですか?」


 演奏会から帰ってきてから、浮かない顔をしているとトニスは心配顔だ。予定より早く帰ってきたこともあり、またジュールが傷つくことを言われたのではと、眉間に皺を寄せている。


「演奏会では何もなかったよ。いい勉強になったし」


 務めて笑顔を見せるものの、レオリールの言葉が、胸に重くのしかかっていた。いつもは感情の起伏を見せないレオリール。その彼が、結婚の話題になったとき覗かせた憤りのような感情。なぜレオリールは、愛は薄れて消えていくなどと言うのだろう。母親からは、祖父母の仲はよく、早くに妻に先立たれたあとも、祖父は後妻を迎えなかったと聞く。


(もしかして……)


 ふと、レオリール自身が辛い恋を経験したのかもしれないと思い至る。


(あれ……胸が痛い──)


 鋭い切っ先で、心臓を衝かれたような痛みが走る。なぜだろう。レオリールが愛を信じていないことが、悲しく思えたからだろうか。


「ねえトニス、レオリール兄様は、恋人がいるのかな」


 ジェシカと同じ問いかけをする自分は、聞いてどうしようというのか。


 心が悶々とするジュールとは対照的に、トニスは目を爛々と輝かせた。


「なぜそのようなことを? レオリール様の色事が気になりますか」


 色事──


 最近知った閨事ねやごとを思い出し、ジュールの顔は真夏の太陽のように熱くなる。


 裸の男女が抱き合い、陰部と繋がる。本に書かれた赤裸々な情事は、まだ子どものような思考のジュールには、刺激が強かった。


「そ、そんなんじゃないよ! ──実は帰りの馬車で、レオリール兄様が言ったんだ。自分は結婚なんてしない、愛は薄れて消えていくものだって」


 慌てて否定し、何度も深呼吸した。それから、トニスに話して聞かせる。


「レオリール様がそのようなことを……」


 そう呟き、トニスは何やら考え込む。その様子から、何か知っているのだと察する。早く聞きたいけれど急かすことなく、ジュールはトニスが口を開くのを待った。


「私の知る限りでは、レオリール様に色恋沙汰はなかったかと。そうなると、ご両親からの愛を、誤解なさっているのかもしれませんね」


 自分が言えるのはここまでだと、神妙な面持ちでトニスは口を閉じる。


 レオリールの両親は、ジュールにとって祖父母だ。祖母はジュールが生まれる前に亡くなっていて、人柄はわからない。けれど、祖父は優しい人だったと記憶している。


(レオリール兄様は跡継ぎだから、厳しかったのかな)


 愛を疑うほど? もしかして、折檻を受けていた?


 ジュールは信じられず、呆然とする。


「ジュール様。これだけは申し上げておきます。亡き公爵様は、立派なお方でした。憶測で、おとしめることのなきように」


 よほどの事情があるということか。イザベラとレオリールは、随分と年が離れている。


 そのことも、何か関係している? 


 詮索してはいけない。そう思うものの、考えずにはいられない。


(お母様が四十三で、レオリール兄様が二十五……)


 年の離れた兄弟姉妹はいる。けれどここまで年の差があると、やはりいらぬ憶測をしてしまう。もしかして、レオリールは祖父が外に作った子どもではないのかと。


「ジュール様、そのお顔は──」

「ごめん! もう考えないから」


 口を引き結び、難しい顔をしていたようだ。咎められそうになり、慌てて謝る。


「わかっていただけてなによりです。それより、もっとよきことを考えてください」


「よきこと?」


「はい。レオリール様に、愛の素晴らしさを教えて差し上げるのはどうでしょう。ジュール様なら、きっと伝えられると私は思っております」


 太鼓判を押され、ジュール自身もそうできたらどんなにいいだろうと考える。


「うん、そうだね。僕、やってみるよ」


 愛を信じることができたレオリールに望まれるのは、どんな女性なのだろう。


(いたた……また、胸が痛い)


 ジュールは胸に走る痛みの正体がなんなのかわからず、首を傾げた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る