第20話 願いが叶ったはずなのに

 ジェシカと並んで草原を歩く。

 ジュールがずっと夢見ていた、女性との一時だ。胸がときめき、照れ笑いを浮かべながらの会話。やっと願いが叶ったはずなのに、気持ちは沈む一方だった。


「ねえ、レオリール様に恋人はいる? 浮いた話は聞いたことないけれど……」


 ジェシカが口にするのはレオリールのことばかりで、ジュールのことなどまったく眼中にないといった感じだったからだ。


「僕にはわからないよ。まだ王都に来て、二月くらいだし。それにレオリール兄様はお忙しいから、あまり話をする時間もないんだ」


 苦笑を浮かべるジュールを、ジェシカは役に立たないとでも言いたげにため息をつく。


 ジェシカに無下にされる度、ジュールの心はナイフで切られたように痛む。そこから流れ出るのは、赤い血ではなくインクのような黒い血。そう、ドス黒い感情だった。


(どうして僕を利用するの? どうしてジェシカは自分のことしか考えないの? どうしてレオリール兄様に近づくの? もう来ないで、来てほしくない──) 


 こんなことを思うなんて、自分は醜い人間だ。純真無垢でいなければ、家族やジェイクリース領の人たちをがっかりさせてしまうのに。


 苦しい……苦しいよ。


 経験のない感情に、どう向き合えばいいのかわからない。


「あ、あそこに何かあるよ。花かな。行ってみようよ」


 どうにか気持ちを切り替えようと、ジュールは景色に目を向ける。すると少し先に黄色い塊が見えた。近づくと、小花がたくさん咲いていて、花の絨毯みたいだった。


「可愛い花だね!」

 五つの花びらを広げ、愛らしかった。


「そうかしら。雑草の花じゃないの」


 ジェシカは興味なさげだ。豪華な花でないと、贈られても嬉しくないという。

 花にも身分差のようなものがあるというのか。


(野に咲く花は、振り返ってもらえないの?)


 野花が自分に重なって見え、悲しい気持ちになる。


(ううん、そんなことないよね。僕は綺麗だって思うもの。それに……)


 ふと、幼いころの出来事を思い出す。自分が野原で見つけて摘んだ花。それを「ありがとう」と微笑み、受け取ってくれた美しい少年。


「ねえ、いつまでここにいるつもり?」


 つまらなそうな声に、美しい思い出が掻き消される。


「早く湖を見て、屋敷に帰るわよ」


 急かしてくるジェシカに、本当は行きたくないのだと察する。けれどレオリールが勧めた湖だから、見ておけば会話に花が咲くと考えた?


(どうしちゃったのかな、僕……)


 穿うがったものの考え方をしてしまう自分が、嫌で堪らない。


 ジェイクリース領にいたころの自分なら、ジェシカの気持ちをこう考えただろう。『せっかく勧めてくれたのだからと、相手の気持ちを慮って散歩に付き合ってくれた』と。


「待たせてごめんね。あの丘の向こうに湖があるよ」


 指差すと、ジェシカは無言で歩き出す。ジュールも何も言わず、黙々と歩いた。そして緩やかな丘を上がりきったとき、目前に湖が現れた。

 

「うわ~、鏡みたいだ!」


 凪いだ水面が陽光を反射していて、眩しいくらいだ。ジュールは嬉しくなり、水辺に向かって駆け下りていく。


「ジェシカ、見て! 魚がいるよ。あっ!」


 群れを成し泳ぐ魚が、ジュールの気配を察知してぱっと散る。ジュールは息を殺し、ピタリと身体の動きを止めた。すると、散っていった魚たちが徐々に集まり、再び群れを形成する。 


 その様子に、ジュールは目を輝かせた。念願の魚釣りも、近々叶いそうだと胸が踊る。


「はぁー、子どもでもあるまいし。何を騒ぎ立てているのかしら」


 優雅に歩み寄って来たジェシカにため息をつかれ、一気に気持ちが萎む。魚も彼女の呆れを含んだ物言いのせいかはわからないが、水面から消えてしまった。


 価値観が違うと、こうも気持ちはすれ違うものなのだろうか。ただ、楽しんでほしいだけなのに。


 俯きがちに、「もう帰る?」と問いかけようとしたときだった。湖に向かって強風が吹き抜ける。


「きゃー、あっ! 帽子が──」


 ふわりとめくれ上がるスカートに気を取られた瞬間、つばの広い白の帽子が風に煽られ宙に舞った。


 ジュールも咄嗟に手を伸ばしたが間に合わず、上へと飛ばされてしまう。そして湖のそばに立つ大きな木の枝に、引っかかってしまった。


「どうしてくれるのよ! 買ってもらったばかりのお気に入りだったのに。あなたが散歩に行こうなんて言うから、こんなことになったじゃない」


 ジェシカはただただ「なんとかしてよ」と憤慨する。


「ごめん。ちょっと待っていて。木登りはできるようになったから」


 相手がレオリールだったなら、ジェシカは「いいの、危ないことはしないで」としおらしく言うのだろうか。


 そんな考えが浮かんでしまい、ジュールは慌てて頭を振り打ち消す。きっと彼女にとって、よほど大切な帽子なのだと自分に言い聞かせた。


 木に駆け寄ったジュールは、幹を見上げた。うねりながら湖に向かって伸びる幹は、手足をかけられそうな凹凸がたくさん見受けられる。これなら登れそうだと、ジュールはシャツの袖を捲り気合いを入れた。


(よし! 頑張るぞ)


 オスマンに教えてもらったことを思い出しながら手足を運ぶ。枝まで辿り着き、ほっとひと息ついたときだった。再び風が吹き、茂った葉を揺らした。


「あっ!」


 ふわりと浮いた帽子が、水面へと張り出した枝の先へと飛ばされてしまう。辛うじて葉に乗っているといった状態だ。


「もう! ぐずぐずしているからよ。湖に落ちても、取ってきてもらうわよ」


 ジェシカは目を吊り上げ、心配どころか睨みつけてくる。


「大丈夫。必ず君の手に届けるから」


 紳士なら、スマートにやってのけるはず。そう自分を鼓舞した。


 そ〜っと……そ〜っと。


 枝は先へと進むほど、ジュールの重さでしなっていく。折れるのではないかと気が気ではない。


(これ以上は、進めないかも)


 次第に細くなっていく枝。その下には、澄んだ水面。水底が見え、ジュールは息を呑む。必要以上に高さを感じたからだ。


 大丈夫、大丈夫──


 息を詰め、ジュールは必死に腕を伸ばす。身体は限界まで倒していて、もう頼りは自身の指の長さだけだ。


(と、取れた──)


 帽子のツバを、二本の指先で挟む。そっと引き寄せ、しっかり手に取ったときだった。枝の先に体重をかけないよう気をつけていたのに、取れた安堵から身体を起こす際、手を前についてしまった。途端、「ミシッ」と嫌な音がする。


「うわー‼」

「なにやってるのよ!」 


 景色が反転する中、ジュールは無我夢中でジェシカに向かって帽子を投げた。と同時に、派手な水しぶきが上がる。


(た、助けて)


 底に足が着かないことが、ジュールの恐怖心を増幅させる。焦ったジュールは、自分がどっちを向いているのかもわからなくなり、手足をばたつかせ藻掻いた。けれど水面に出ることができず、息が苦しくなってくる。手足は重くなり、自分が沈んでいくのがわかった。


(レオリール兄様……ごめんなさい、迷惑かけて──)


 固く閉じていた瞼を、うっすらと開ける。


(綺麗……)


 たくさんの水泡が、水中に漂っていた。それがきらきら光る星のように見え、このまま底に沈んでも淋しくないと思えた。

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