Mars

第1話

僕は、見て見ぬふりをよくする。

例えば蟻が側溝に落ちる時、「あ」と声を出して立ち止まってみて、それからネクタイを直して咳払いをして、また歩き出す。蟻が側溝に落ちてしまった事実、僕がそれを助けられずに傍観者となってしまった事実を、咳払いでかき消してまた群衆の浪へと紛れていく。僕が蟻を見つめた時点で、既に蟻はそこにはおらず、ゆっくりと側溝の中に消えている。是れは僕にはどうにも助けられないもので、そこには絶え間ない運命がある。助けられないものは、見て見ぬふりをしてしまうしかないのだ。仕方ない。是れは仕方ない。


「君が、須藤君だね?」

目の前の老人が、細かくひびの入った眼鏡を鼻先に落としながらこちらを見つめる。汚い字の詰まった履歴書と僕の顔とを交互に見つめるこの人は、さっき店先でアルバイトの女の子に怒鳴っていた。面接の予定時刻より早く着いた僕は気まずい思いになって、地面に落ちてた石ころを靴の底でざりざりと弄っていた。小松菜安いなぁ。とか、もうみかんの時期か。とか思ってみたり、鼻を啜ってみたりして、落ち着いた(ように見えた)眼鏡の店長に声をかけた。またここで僕は傍観者となった。でもあの女の子のミスは僕の責任ではないし、手前の路地を曲がった時点で怒鳴り声は聞こえていたから僕がどうこうできるような領域ではなかった。

「須藤君。聞いてた?」目の前の眼鏡の店長は僕の顔を覗き込んで、不思議そうにも不機嫌そうにも見える顔をしている。老人は顔に皺が刻まれているから表情が読み取りにくい。

「あ、はい。」とぬるったい返事をして槍のような目線をひとつひとつ丁寧に避ける。手厳しい人だな。多分今ので落ちたけど、もし受かっても飛ぼう。出勤しなければまだ傷は浅いね。


すっかり真っ暗な1人の部屋に帰って、パチ、パチと電気をつけていく。1Kの小さな小さなこの部屋が、僕の愛すべき惑星だ。顔と名前が上手く一致しない政治家が起こした不祥事のニュースを聴きながら、PCを付けて煙草の箱をトントンしながらTwitterをスイスイと泳いでいく。カシュ、と音を立てて開いたエビスのビールは、これが最後の1本だった。


物事の全てが、自分に関係ない。

蟻も、アルバイトの女の子も、僕には関係ない。僕には何も出来ない。僕が狂わす運命はどこにあるんだろうか。机の上の消しゴムを、そっと指で押して倒す。これは僕が狂わせた消しゴムの運命。そう自分に言い聞かせて、消しゴムと見つめ合う。しばらく空っぽになった後で、くあ…と欠伸をして火をつける。

「こんな事いつも考えてたら疲れて気狂ってしまうわ。」と明るく、暖かくなった部屋に吐き捨てた。


僕には父親がいて、母親がいた。ごく普通の一般家庭って感じで、裕福でもなかったけど貧乏でもなかった。それなりの高校からそれなりの大学に進学して、今がある。母親の口癖は「運命を信じるのよ!」だった。なんつーか宗教とかじゃないけど、そういうスピリチュアル的なものにハマってるみたいだった。母親の部屋はいつもお香の匂いがして、紫のカーテンはいつも妖しくぴたりと閉じていた。そんな中で棚の中に置いてあった暖色のライトに照らされる水晶玉が、あの時の僕にとっての惑星だった。小学校3年に上がった頃、母親は自殺した。葬式が終わってしばらく経って、母親のあの部屋に入った時、そこにはなんにもなかった。紫のカーテンも、水晶玉もお香も、暖色のライトさえもなかった。明るい陽の光に照らされて、何も無いせいか前より広く見える部屋に対して「これが運命なら、信じなければよかった」と思ったのを覚えている。

急に記憶が鮮明になってきた…あの日、新学期のテストでいい点数を取って、早く母親に自慢しようとウキウキで帰った時だったんだ。ドアを開けて、ただいまー!と沈黙の部屋に声をかけて、リビングのドアを勢いよく開ける。そこには、そこには、…僕は、見て見ぬふりをしたかった。全力で。目の前の血塗れの肉塊からどうにかして逃げたくて、どうしようもなかった。どうしたらいいのかなんて小学3年生にはもちろん分かるわけなくて、泣きじゃくった。大声で。そうこうしてるうちに日は暮れ、父親が帰ってきた。僕の泣き声を聞いて走ってきた父親は、絶句していた。父親は肉塊から目を逸らさず、静かに警察を呼んだ。そして僕のことを抱きしめ、静かに泣いた。警察の人に色んなことを聞かれて、僕はやっぱり見て見ぬふりをしておけばよかったと思った。でも今考えてみるとそんなことは絶対出来なかったから、後にも先にも僕が狂わせてしまった運命はここにしかないだろうなと思う。


ぼくはあの日、なにをするべきだったのか。回らない頭でゆっくりと考えてみる。僕は今、何をするべきなのか。ぼくのせんたくは合っているのか。からだが熱い。僕の惑星は真っ赤な炎がもえさかり、遠くで消防車の音もきこえる。うんめいを信じよう。これは、僕がくるわせたぼくのうんめいだ。僕は、小学3年生のあの日から永遠に傍観者として生きた人生に見て見ぬふりをした。

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