×××××××視点 4 嫉妬と相反と孤独
「失礼します」
私が別の話題を振ろうとした時、ヒナタさんの後ろから、男性が声をかけてきました。
「今、席がなくて。相席よろしいでしょうか」
辺りを見渡すと、確かに周りの席はほとんど埋まっていて、空いているのは私たちが座る四人席ぐらいでした。
「あー、席少ないもんね。私はいいけど」
「あなたは?」とヒナタさんに聞かれて、「勿論です」と返そうとした時。
男性が、私を見て目を丸くします。
私も、思わず声を掛けました。
「……ローレンス伯爵?」
「アルドバラ公爵令嬢?」
金髪碧眼のその人は、アーサー・ローレンス伯爵だったからです。
「ど、どうしてこちらに?」
「いえ、単なる散策なのですが……レディは、よくこのお店に?」
「え、ええ、まあ……」
私がちらり、とヒナタさんを見ると、ヒナタさんは黙々とピザを食べ始めていました。
……前から思っていましたが、ヒナタさんは貴族とかそういう肩書きには一切興味を示しません。この人の前では、等しく同じ対応なのです。
「……とりあえず、お掛けください」
私がそう言うと、「では失礼して」とアーサー・ローレンス伯爵は椅子を引きました。
「改めまして、アルビオン国から来ました。アーサー・ローレンスと申します」
「あ、どうも。ヒナタと言います」
ぺこり、と軽く頭を下げるだけのヒナタさん。
けれどその態度を見て、アーサー・ローレンス伯爵は目を輝かせました。
「その頭を下げる仕草……もしや、異世界からいらした方ですか?」
「『ニッポン』と呼ばれる国の」というアーサー・ローレンス伯爵の言葉に、「そうだけど」とヒナタさんが返すと。
「ああ! アルドバラ公爵家に、もう一人の『聖女』の方が滞在されているというのは、あなただったのですね!」
「よければ、異世界についてお話を伺ってもいいですか!?」心做しか早口で話すアーサー・ローレンス伯爵に、ヒナタさんは目を瞬かせて、「……どうぞ」と惚けたように返しました。
アーサー・ローレンス伯爵は身を少し乗り出して話し出します。
「我が家には異世界から来たと思われる資料がいくつか保存されているのですが、その中でも『ニッポン』の話が多くて。書籍もいくつかあるんです」
「え、本が? あなた、日本語読めるの?」
「いえ、全く読めません!」
「ぶはっ」
ヒナタさんは飲んでいたビールを笑いながら噴き出しました。
「あ、でもいくつかわかるものもあって。ローレンス伯爵領に来た勇者が残した絵なのですが」
「ええと」と言って、彼は握りこぶしを作り、凛々しい顔をしました。
「『チャリで来た。』」
ヒナタさんは頭をぶつけるように、テーブルに顔を伏せました。
「ヒナタさん!?」
思わず私は彼女の名前を呼びました。
……彼女からは、空気が抜けたような笑い声がしました。
「チャ、チャリ……異世界からチャリで来たのかよ……」
「あ、その人はトラックに轢かれてやって来たらしいですが」
「チャリじゃないじゃん!!」
あっははは! と顔を思いっきり上げて、彼女は笑いました。
アーサー・ローレンス伯爵も、城で会った時とは違い、普通の少年の顔をして笑っていました。
それを見て。
ぽつーん、と。
私は、急に周りが遠くなりました。
「面白い子だったね。アーサー君」
屋敷に着いてから、満足気にヒナタさんは言いました。
けれど私は、すぐに返事を返せませんでした。
「……どしたの」
私の態度に不審に思ったヒナタさんが、私の顔を覗き込みます。
私が仲間外れになることはありませんでした。アーサー・ローレンス伯爵の話術は巧みで、視野が広く、常に私が会話に入れるように気遣っていました。確かに、彼の話し方は堅苦しくないけれど礼節を弁え、相手を楽しませるものでした。私の知らない話も、私の知る話と共通点を探しながら辿ってくれました。
けれど、ヒナタさんがあんなに楽しそうにするなんて。
私が今まで、見たことないような顔をしていました。
それに、今までヒナタさんが、自分の国について話したことなんて、一度もありませんでした。
……私も、深くは聞かなかったけれど。
お父様から命じられていないことは、今までやってきませんでした。
アーサー・ローレンス伯爵からは、どんどん会話の引き出しが引き出されて。
ヒナタさんは、それに応えてさらに引き出しを引き出していく。
対して私は、何も持っていませんでした。
まるで自分が置物みたいに、そこにいました。
――「本当につまらない女だな」。
――「そんな空っぽの女だから」。
ふと私は、お兄様が言った言葉を思い出しました。
私が空っぽだから、ヒナタさんは楽しくないんでしょうか。
お兄様から、お義母様からずっとそう言われてきたのです。
ヒナタさんも、そう思っているんじゃないですか。
そう言おうとして、私は止めました。
「ん?」
なんてこと無く。
私を見るヒナタさんを見て、私は絶望しました。
ヒナタさんの目に映る私は、泣いていました。
そうだ。
と言われるのが、怖くて。
――「完璧なシステムを運営するために、情など妨げになる」。
お父様の声を思い出して。
怖いと思った自分が、とても情けなくて、恥ずかしかったのです。
「……どうした」
ヒナタさんは冷静でした。
私は、何かを言おうとしても、嗚咽としゃっくりだけが込み上げて来るだけでした。
言葉にならない私に、必要以上に尋ねることもなく、ただ私を抱きしめました。
彼女の体温は暖かくて、彼女が着ているニットの服越しに伝わって来るのです。
でも、私の想いは、私のこの渦巻くような混乱は、彼女には何も伝わらないのです。
彼女は私のように、一緒に泣いてはくれないのです。
それが悔しくて、悲しくて、寂しくて、傷ついて、恥ずかしくて。自分でもわけが分からないほど混乱していました。
わかりません。わかりません。
なんで、こんな事で傷ついているのでしょう。
トントン、とヒナタさんは、しゃっくりを上げる私の背中を叩きました。
泣き止んだ後、私たちはソファに腰掛けていました。
ヒナタさんは私の肩を抱いたまま、「どうした」ともう一度私に聞きました。
「大したことじゃないんです……」
私は、さっきのことをなかったことにしようとしました。
だって、なんて説明すればよいのでしょう。
ヒナタさんもアーサー・ローレンス伯爵も、私を害したわけではないのです。ただ、私の目の前で楽しそうに話していただけです。
――それを見て、私が惨めに思えただけで。
私は元から、そういう人間だとわかっていたはずなのに、どうして今更悲しくなるのでしょう。
「こんなことで傷ついちゃいけない……」
ほとんど無意識に言った言葉に、ヒナタさんは言いました。
「あなたが何に傷つくかは、あなたが決めるべきだ」
パシャリ、と。
打ち付けられた水のように、ヒナタさんの言葉が降ってきました。
まるで突き放されたようなその勢いに、私は、さっきまで自分が泣いていたことすら忘れるところでした。
「……ヒナタさんも、傷つくことがあるんですか」
いつも真顔で、知らない土地にいても、知らない人に囲まれても、誰にも媚びないこの人が。
「傷つくことばっかだよ」ヒナタさんは言いました。
「ただ、歳を取れば取るほど、どんどん鈍くなって来た。それが悪いこととは全然思わないんだけど、ずるくもなって来たなとも思う」
「ズルい?」
「そう」真顔のまま、彼女は続けました。
「子ども時代、別にその人が悪意を持って言った訳じゃないとわかっても、私は傷つくことばかりだった。だから『傷ついた』と伝えたら、『何マジにとってるんだよ、冗談だよ』と返されて。
……私は、もう、『傷ついた』と伝える前に、関係を絶つことにした」
「そうしているうちに、いつの間にか自分が、『何マジでとってんの』って、大切なヒトの傷をえぐっていた」
ヒナタさんは淡々と、それでいて時に声にするのをやめて、続けていきます。
「自分の傷に無頓着になると、いつの間にか他者の傷も無頓着になっていた。……いや、違うな。他者のためにあなたがいるわけじゃない。そうじゃなくて」
彼女がここまで一生懸命に言葉を紡ぐのを、私は初めて見ました。
それは慎重な態度というより、恐れているようでした。
何を恐れているのかは、私にはよくわかりませんでしたが。
「あなたが決めるあなたの傷は、あなたにしかわからない。……私にもわからない。
だから他者は容赦なくあなたの傷を否定するかもしれないけれど、だからってあなたから傷が無くなるわけじゃないんだよ。……取って代わることも出来ないけどね」
ただ、とヒナタさんは言いました。
「『傷ついた』ことを無かったことにするために、関係を断ち切るやり方はしないで欲しい。出来たら言葉にして欲しい。……と、身勝手ながら思うよ」
私はこの時、この言葉の半分も理解できませんでした。
ただずっと、この時のことを、痛みとともに何度も思い出すのです。
「……伯爵と、話してるの見て、悲しくなって」
私が話し始めると、ヒナタさんは再び私の背中に手を置きました。
「自分が惨めに思えてくる」「空っぽだとお兄様とお義母様に言われた」「でもお父様が情に振り回されるなと言うの」
「伯爵は悪い人じゃないけど好きじゃない」「ヒナタさんがあの人と楽しそうにしてると寂しくなる」「もう会わないで欲しい」
言葉にすればするほど、自分が身勝手だと自覚せざるを得ませんでした。
けれどヒナタさんは、私の感情を否定することはしませんでした。
同時に、私に合わせて、『もう二度とアーサー・ローレンス伯爵と会わない』とは約束しませんでした。
ヒナタさんは、私の身体に寄り添うことはあっても、寂しいと思う私の心には寄り添ってくれないのだと。
私はこの時、それだけを理解したのです。
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