閑話

閑話 1

 ……その子は、下町のはずれの路地裏で、まるで捨てられたゴミのように倒れていた。


 あたくしははじめ、壊れて捨てられた人形かと思ったわ。


 ひどく汚れてはいたけれど、よく整った綺麗な顔をしていたのだもの。


 けれど、右手は肩から先が失くなっていて、両脚もいびつに――左は股から先が、右は膝から先が失くなっていて。


 身につけているのは、とても服とは言えないような、ボロボロに擦り切れた布切れだけ。


 ピクリとも動かないし、人形と思っても仕方ないでしょう?


 かつての自分の姿を見るようで、あたくしは侍女のマーサが止めるのも聞かずに路地に踏み込んだわ。


 そばで見下ろすと、本当に綺麗な顔をしていた。


 汚物をこびりつかせた髪の色は灰色をしているのだけれど、屋根と屋根の間からわずかに差し込む陽光を浴びて、銀糸のようにきらめいて見えたわ。


 あたくしとおそろいだわ――と、そう思った。


 半分だけ開かれた目の色は、紅玉ルビーのように透き通った紅。


「……こんなよくできたお人形を、こんな風にするなんて……」


 と、お人形と思っていたその子のまぶたがゆっくりと持ち上がり、虹色にきらめいてあたくしを映した。


 その唯一残された小さな左手が、ゆっくりと持ち上がる。


「……め、がみ、さま?」


 擦り傷だらけの手が、あたくしへと伸ばされたわ。


「――姫様!」


 追いかけてきた侍女のマーサが止めようとしたけれど――


「まー! おまえ、人形じゃなかったのね?」


 あたくしは構わず、その子のかたわらにしゃがみ込み、伸ばされた手を取ったわ。


 長い長い――それこそ気が遠くなるほどの長い人生の中で、こんな子と出会った事は一度もないわ。


「……世界って、本当に無神経で残酷だわ……」


 もう諦めて……最後にしてしまおうかと迷っていたところに、こんな変化を見せつけるのだもの。


 もう期待なんてしない――何度も何度も、そう誓ったのに……はこの初めての事象に、かすかな希望を期待してしまう。


 あたくしは壊れた子供の手を引き上げて起こし、両手を回して抱き締めた。


「――ああ、姫様! いけません! お召し物が!」


 マーサが半狂乱になって叱ってきたけれど、あたくしは取り合わない。


 いまさら服が汚れるのがなによ。


 あたくし前は、もっとひどい格好だったこともあれば、そもそも服すらなかった事もあるのよ?


 ……マーサは知らないでしょうけどね。


 この子のすえた臭いなんて、懐かしく感じるくらいよ。


「あぁ……やっぱり、めがみさま……が迎えに、来たんだ……」


 掠れた声で子供が囁き――そのすべてを諦め切った声が、あたくし自身を見せつけられているようで妙に腹が立った。


「――おまえ、名前は?」


 抱擁を緩め、子供の綺麗な紅玉ルビーを覗き込む。


「な、まえ?」


「――まーっ! 名前もわからない子供が、こんな場所に捨てられてるなんて! これはお父様の怠慢ね!」


 あたしは全身に魔道を通して身体強化。


「あ……」


 子供を抱えて立ち上がると、小さな声が漏れた。


「ふふん。驚いたかしら? 身体強化の魔法よ!」


 見たところ、今のあたくしと同じくらい――三歳くらいかしらね?


 だというのにやせ細っていて、手足が欠けている事を差し引いても、あたくしよりずいぶん軽いように思える。


 旧帝都であるこの地が、エルディオン公国の都と定められてから五年。


 まだまだお父様の目が行き届いていない証だわ。


 ……少なくとものはわかってるけど。


 この子のように、今苦しんでる者に「いずれ救われるのだから、今は耐えろ」なんて、あたくしは言えない。


 ――言いたくない。


 今のあたくしが同じ事を言われたなら、きっとそれが女神だとしても、ぶん殴ってみせるもの!


 ――いずれとか、きっとなんて信じない。


 心の中で呟き、あたくしは抱き締めた子供の目を覗き込む。


「おまえも覚えておきなさい。

 この世界は、悲しみと理不尽に満ち満ちていて――達はいつだってそれに翻弄されるしかないんだわ」


 子供に、こんな言葉が理解できるとは思えないけれど、それでも覚えておいて欲しい。


 この出会いに、なにか意味があるのなら――


「でもね、それに抗い続ける者には、一歩でも前に進もうともがく者には――そういう者にこそ、救いの手は差し伸べられるのよ……」


 ……いいえ。この出会いが意味あるものにしたくて。


 は祈る気持ちで語りかける。


 わかっているのかいないのか、子供はわずかに首を傾げて呟いた。


「……めがみ、さまが?」


 幼くしてこんなところに捨てられたこの子が、どれほど女神の救いを求めていたのかが伺えて、あたくしは強く首を振る。


「いいえ! あいつらは結局は世界の味方なのよ!

 だから人が! あたくしが!

 ――このシャルロット・エルディオンが、おまえに、そしておまえのように、『今』に打ちのめされそうになってる者に手を差し伸べるの!」


 この子ほど幼い者は初めてだけど、はいつだってそうして来たし、今回だって変える気はないわ。


 ……今回はわがままの限りを尽くすと決めたのだから、だからこそ、絶対に絶対、押し通してみせるわ!


 そして、このどうしようもない人生を、少しでも多くの『よかった』に捧げて、笑って女神達の元へ行ってやるの!


「……シャル……?」


 子供の左手がゆっくりと伸ばされて、あたくしの頬を撫でた。


「じゃあ……も……いつかシャルに、そうする、ね……」


「……おまえ……」


 自分の名前すら知らないこの子は、きっと自分を表す言葉も知らなかったに違いない。


 それでも……それなのに、その小さな頭を必死に巡らせて……きっと誰かにそう呼ばれたのだろう……という言葉で自分を示し、に報いるという誓いを立ててみせた……


 それがにとって、どれほど得難くて、どれほど胸を打つ言葉なのか――


 あたしは涙が込み上げそうになるのを自覚して、顔を逸した。


「――バ、バカね! そういう時は『コレ』じゃなく、俺とか言うのよ。

 というか、まずおまえには名前が必要ね。

 特別にあたくしが考えてあげるわ!」


 そうして踵を返せば、裏路地の入り口に停めた馬車で御者がドアを開けて待っていた。


 あたくしの奇行を止めるのを諦めたマーサに指信号ハンドサインで事態を知らされて、座席が汚れないように布を敷いたようね。


 準備が完了してるのを確認して、あたくしは馬車に向かって歩き出す。


 マーサがこの子を抱えるのを変わろうとしたけど、譲らなかったわ。


 ――この子は……長い長いの中で、初めてに自らを差し出してくれた子なんだもの。


 薄暗かった路地から出ると、抱えた子供の髪が日の光に照らされて――汚物や泥で汚れているはずなのに、あたくしには美しくきらめいて見えた。


「――そうね、おまえはグレイよ」


「……ぐれい?」


「そ。神代の言葉で灰色って意味。おまえの髪の色よ」


 横でマーサが「犬猫じゃないんですから」とか言ってるけど無視したわ。


 本当は……これから辿る事になるあたくしの運命を支えて欲しくて――あたくしの先行きを照らして欲しくて、そう付けたのだけれどね。


 白でもなく、黒でもなく――すべてを曖昧にさせるその色のように……





「――どちらの道を選んでも、最後はロクな目にあわなかったものね」


 あたくしは日記を閉じて、ひとり呟く。


 懐かしさについ読みふけってしまっていたわ。


 こうして時折日記を読み返すのは、今のあたくしを確認する為。


「何度も何度もをやり過ぎて、混乱しちゃうのよね」


 苦笑しながら呟く。


 は、大筋は初期と同じ道を辿っているから、余計にそう。


 時折、『今』を確認しないと、以前の記憶とごちゃまぜになっちゃうのよ。


「……それにしても――」


 夕食の席でお父様に渡された手紙を再び開き、あたくしはため息を吐く。


 ――命令オーダーのひとつを達成。脳筋をボコっときました。


 クセの強い字で短く綴られたそれに、もう一度ため息。


 <伝話チャット>してるトコを、誰かに見られるかもしれないから、あたくしはグレイ達と直接の連絡を断っている。


 どうしても連絡が必要な時には、一般的な方法――魔道器の<伝文鳥メールバード>を使って、お父様への手紙を送るという形を取っているのよ。


「確かにアイツやその周辺の行動がわかってるとはいえ……早すぎでしょう?」


 何度も何度も試行錯誤を繰り返した、のあの日々はなんだったのよ。


 改めてグレイの能力の高さを思い知らされたわ。


「……あまり言いたくないけれど」


 さらにため息を重ねると、あたくしは目を閉じて、世界を巡る霊脈を視る。


「あの子と出会わせてくれた事だけは、感謝しておくわ。運命の三女神トリニティ……」


 そうしてあたくしは、次なる命令オーダーの詳細を伝える為に机の上のペンを取って、手紙を綴る。


 あたくしだけの大切な宝物に向けて。

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