第13話

 ドサッ


 授業を終えたリヒトは自宅へと帰り、顔面からソファに突っ伏した。ふかふかなクッションの沈み込む感触がほんのわずかに心を慰めたが、全身にまとわりつく疲労感を完全に拭い去るには遠く及ばない。まぶたを閉じるたび、胸の内で膨れ上がる不安や責任が重石のようにのしかかり、目を閉じればすぐにでも深い眠りに落ちそうだった。


「お疲れ」


「……誰のせいだと思ってんだ……」


 ソファに埋もれた顔をわずかに起こすと、薄手のシャツ一枚でうろつくアイの姿が映った。タオルを肩にかけ、汗で濡れた髪を拭いている。艶やかな黒髪からは、ぽたぽたと滴る水滴が白い首筋を伝い、鎖骨へと流れ込む。


「何か問題でもあった?」


 純真無垢な瞳で首をかしげながら問うその仕草に、リヒトは思わず毒気を抜かれた。何か文句の一つでも言いたかったはずが、ただ小さくため息をつき、ソファに埋もれた体を起こそうとする。ちょうどそのとき、玄関の方から鍵の開く音が響いた。


「ただいまー」


 明るく元気な声とともに現れたのはエリスだった。手に提げた買い物袋には、新鮮な野菜や肉、そして調味料がぎっしり詰め込まれている。


「リヒト疲れてるでしょ?今日は私が夕飯作ったげる!」


「ありがとなエリス。いや、エイル」


 エリスの正体――それは、リヒトが『ルフトシュピーゲル』を応用して作り出した仮の姿だ。光の周波数や屈折率を操り、髪色や顔立ちを微妙に変化させたエイルは、『エリス』として学園生活に潜入していた。


「あー、もうエリスでいいよ。外で間違えて呼んだら困るでしょ?」


 彼女は軽く肩をすくめ、買い物袋を抱えたままキッチンへと向かい、すぐに調理に取り掛かった。


 カン、カン、トトトッ……


 リズミカルな音と香ばしい匂いが漂ってくる。以前はどこか不器用さが目立っていたが、見違えるほど無駄のない動きで作業を進めている。


「だいぶ上手くなったよな。前は包丁の握り方さえ怪しかったのに」


「……まあね、毎日やってればさすがにに上手くなるわよ」


 何気ない褒め言葉に少し照れくさそうに答えながらも、野菜を刻む手は止まらない。慣れた手つきでフライパンを手にして、ふと目を細め懐かしむように呟く。


「最初はリヒトに手伝ってもらってばっかりだったもんね」


「そんなこともあったな」


「結構厳しかったよね。『そこ違う』『もっと丁寧に』とかさ。ほんと、細かすぎてちょっとムカついたくらい」


「お前が無茶苦茶やるからだろ!危なっかしくて見てらんなかったんだって!」


「半分冗談だから。気にしないで」


「半分っておい……」


「でも、今思えばあれが私の原点になったのかな。誰かのために料理したいって気持ちの。それに……」


 一瞬、エリスの手が止まり、静寂がリビングを包む。視線を上げた彼女は、まっすぐリヒトの顔を見つめていた。


「なんだよ?」


「んーん、なんでもない。そろそろご飯出来るからお皿出して」


「ああ、分かったよ……」


 釈然としない様子のまま重い腰を上げたリヒトが食器棚へ向かおうとすると、先ほどまで部屋の隅でダンベルカールしていたはずのアイが準備を始めており、すでにテーブルにはカトラリーやグラスが並べられている。


 彼は初め、彼女も自分を気遣って手伝ってくれているのかと思ったが、ただ単に早く食事にありつきたいだけだとすぐに理解した。


 皿を並べ終わる頃には丁度出来上がり、食卓に見事としか言いようがない夕食が並ぶ。栄養バランスはもちろんのこと、彩り豊かで食欲をそそる盛り付けは見るだけで心が躍るようだった。


「いただきます」と声を揃え、三人はそれぞれ思い思いのおかずに手をつけ、談笑を交えつつ舌鼓を打った。


 特にアイは一口食べるごとに目を輝かせ、子供のように喜んでいる。


「これおいしい!おかわり!」


 よほど気に入ったのか、あっという間に皿を空けてしまった。その言葉を聞いて、待ってましたと言わんばかりにエリスはいそいそとおかわりを用意し始める。


「それ食べ終わったら明日の作戦会議するからな。忘れるなよ?」


「分かってる」


「それと、今日みたいに頼まれたからって魔法見せびらかすんじゃないぞ?仲良くなるきっかけになると思って見逃してただけだから。次からはしっかり断るように」


「……善処する」


「おいこら目を逸らすな」


 リヒトはジト目で睨むが、当のアイはどこ吹く風といった様子で全く意に介さない様子だ。


「はい、おかわり」


「ありがと」


 目の前に差し出された皿に、再び表情を輝かせ、すぐさま箸を取り勢いよく食べ始めた。


「私も手伝えそうな事があれば手を貸すから、遠慮なく言いなさいよ?」


「助かるよ。それよりも、良かったのか?エイルのこと」


「ん?どういうこと?」


「ほら、向こうのエイルに変に対抗意識燃やされてただろ?」


「あー、あれね。まさか自分に喧嘩売られるなんて思わなかったけど……貴方が私のこと揶揄ってた理由がよく分かった。ちょっとハマっちゃいそうだもん」


 冗談交じりに笑うエリスを見て、リヒトは呆れつつも安堵した様子だった。


「あんまりやり過ぎるなよ?」


「ふふっ、でもね、別に嘘を言ったわけじゃない。あの日の決意が嘘じゃないならきっと今も……」



 _______________________________________



 夜が深まるほどに、王城は静寂という名の仮面をまとった。金箔で縁取られた窓の向こうには皓々と輝く月が浮かび、城内を優しく照らしている。その光を邪魔しないよう、豪奢なシャンデリアは淡い輝きを放ち、大理石の床が一面に敷き詰められている。


 広大な一室の中央に鎮座する漆黒のグランドピアノ。その艶やかな曲面は月の光を映す。鍵盤の前に腰掛ける少女は金糸のような髪を肩に流し、白と黒を弾いた指先から繊細かつ凛とした旋律を産み出していた。瞼を閉じ、微細な息遣いすらも空間に溶け込ませていく。


 コンコンコン


 演奏が最高潮に達したそのとき、扉の向こうから控えめなノックの音が響いた。指を止め、「どうぞ」 と小さく響いた彼女の声に応じて、扉がゆっくりと開く。


 そこに立っていたのは、演奏者と瓜二つの少女――妹のエルナだった。


「姉さま、お父様がお呼びです」


「そう……」


 エイルは目をつむり、深い息を吐き出した。そして、ピアノの蓋をそっと閉じ、楽譜を片し、扉の前までゆっくり歩み寄る。


「今日も話が終わった後、付き合ってくれる?」


「もちろんです。他でもない姉さまの頼みですから。でも……あまり無理はなさらないでください」


「分かってるわ。でも、知りたいこと、知らなきゃいけないことがたくさんあるから」


 禁書庫――王城の地下深くにあるその場所で、彼女は毎夜膨大な知識を得ていた。すでにレベル1と2の蔵書を読み尽くし、さらなる探求を求めていた。しかし、父王の命により、レベル4以上へのアクセスは厳しく禁じられている。それでも彼女は止まらない。未来を開く鍵を手に入れるために。


 二人の足音が廊下に響く。厚い絨毯が音を吸い込み、壁に並ぶ古い肖像画たちが無言で見守る中、二人は父の待つ部屋へと歩みを進めた。


 やがて、目的地である重厚な扉の前にたどり着く。エイルはそっと手を伸ばし、一瞬だけ手を止めた。扉の向こうにあるものを前に、微かな緊張が漂う。その様子を見たエルナが、彼女の手に優しく触れる。


「姉さま、私はどんな時でもあなたの味方です。これまでも、これからも」

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キミも私もアイの奴隷 ~瀕死の奴隷少女助けたらいつの間にか主導権握られてました~ 風見ノリ @kazaminori09

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