第12話
「はぁ……」
朝礼前の教室。リヒトは机に突っ伏し、重くため息を吐いた。
「おいおいリヒト、朝からそんな調子でどうしたんだよ?まだ一時間目も始まってないのに、もうバテてんのか?」
明るい声とともに、机を軽く叩く音が響く。フィンだった。茶化すような口調ではあったが、どことなく気遣いが滲んでいる。しかし、リヒトはその視線を避けるように、顔を伏せたままぼそりと答えた。
「ああ……ちょっとな。色々あって……」
「なになに?何かあったの?」
さらにもう一つ、弾むような声が加わる。幼馴染のティナが、リヒトの机の端にちょこんと腰を掛け、楽しげに目を輝かせながら問いかけた。ふんわりと揺れる栗色の髪からは甘い香りが漂い、その無邪気な笑顔が空気を明るく染め上げる。
「話すほどのことじゃない。ていうか、話したくない……」
「なんだよそれ!余計に気になるじゃん」
「ねえねえ、教えてよ」
「どうせ嫌でもすぐにわかる……とりあえず今は寝かせてくれ……限界なんだよ……」
彼の言葉は力なく途切れ、聞き取れるかどうかの声量で教室の空気に溶けた。ティナとフィンは顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げる。
「そういえば私、今朝見慣れない子がいてさ、声かけたんだけど──」
キーンコーンカーンコーン
予鈴の音が校舎中に響き渡る。慌ただしかった教室内が、潮が引くように静けさを取り戻しつつある。生徒たちは話を中断し、それぞれの席に戻っていった。
やがて扉が開き、担任の女教師が入ってくる。ほんわかした雰囲気でいつものように笑顔を浮かべながら教壇に立ち、生徒たちに視線を配った。
「はーい、皆さん、おはようございます。今日は特別なお知らせがありますよぉー。なんと、転校生が来ています!」
担任の声が、わずかに残るざわめきをかき消した。その瞬間、生徒たちの視線が一斉に扉のほうに向けられる。
「さあ、入ってきてくださーい!」
扉の向こうから現れたのは、絵画から抜け出してきたかのような二人の少女。一歩教室に足を踏み入れた瞬間、場の空気が一変した。
一人目の少女は、紫がかった柔らかなセミロングの髪を揺らしながらゆっくりと前へ進む。碧き瞳の片側は長い前髪の陰に隠れ、どこか吸い込まれてしまいそうな神秘的な色気を放つ。窮屈そうにブラウスの胸元を押し上げ、引き締まった腰の細さをよりいっそう引き立てていた。
もう一人の少女は対照的に、華奢で洗練された美を放つ。黒髪の外ハネショートが艶やかな光を受けてきらめき、その端正な顔立ちには一切の隙がない。藍色の瞳は一点をじっと捉え、周りの視線を一切受け付けない存在感を漂わせていた。
「……すっご、美人すぎない?」
「モデルとか、アイドルとか、そういうレベルだよな……」
教室中にひそひそとした声が波のように広がった。息を吞むような美しさと、異世界から訪れたような雰囲気に、全員が圧倒される。教壇に立った担任は、場の熱気に気づいたのか、軽く咳払いをして全員の注意を集めた。
「こちら、エリス・ノヴァさんとアイ・ノヴァさんです。お二人は事情があってこれまで学校に通うことができませんでしたが、今日から皆さんと一緒に学ぶことになりました。短い間ですが、楽しく過ごせるよう仲良くしてくださいね。では、自己紹介をお願いします」
そう言われ、紫髪の少女は教室全体に笑顔を振りまき、一歩前に出て口を開いた。
「初めまして、エリス・ノヴァと申します。皆さんと共に学べることをとても楽しみにしています。至らない点も多いかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
少し高めの澄んだ声が心地よく響き渡る。一語一語が丁寧で、落ち着いた凛とした調子に自信と優雅さが滲んでいる。生徒たちは思わず息を吞み、男女問わず羨望の眼差しを向けていた。
「はい!エリスさんありがとうございました。では続いてアイさん、お願いします」
「アイ。よろしく」
黒髪の少女はその場で無表情のまま短く言葉を紡ぐ。その声は平坦で抑揚がなく、彼女自身を象徴するかのような無駄のない簡素なものだった。しかし、その一言だけで教室の空気が再び凍りつき、生物として逆らえない何かを感じさせている。
担任も一瞬言葉を詰まらせたが、慌てて話を続けた。
「そ、それでは、エリスさんは窓際の席に座ってください。では、アイさんは――」
担任が続きを言い終える前に、アイは無言のまま動き出した。その静かな足取りは迷いがなく、床を叩く靴音だけが教室に響く。その足はリヒトの隣の席で立ち止まり、そこに座っていた男子生徒を見下ろすように見つめた。そして、わずかに首をかしげ、冷静な口調で一言だけ呟いた。
「ここがいい。変わって」
冷たさも温かさも感じさせない中立的な声色だったが、空気が一瞬張り詰めたように重くなる。生徒は目を丸くし、しばらく呆然としていたが、不思議と拒否できない威圧感を感じてしまい、勢いよく立ち上がった。
「え、えっと……先生!僕、席変わります!」
声を裏返しながらそう叫んだ男子生徒は、慌てて机の上の教科書や筆記用具を抱え込み、そそくさと空いた席へ移動する。教室中の視線が注がれる中、彼女は初めから自身の指定席だと主張するように無言で席に腰を下ろした。
「あー……そうですね。では、アイさんはそこに座ってください」
担任は動揺を隠しきれない様子で、ぎこちなく話を進める。それでも何とか二人を着席させ、教室の雰囲気を取り繕おうとした。とはいえ、漂う緊張感は依然として教室を支配していた。
リヒトは隣の席に座ったアイの存在に背筋をこわばらせ、机に伏せていた顔をそっと上げる。まっすぐ見据える無垢な瞳から悪意は一切感じられない。
「あまり目立つ行動するなって言ってるだろ?」
「離れるなって言った」
その一言にリヒトは言葉を詰まらせる。視線をそらしたいのに、アイの瞳がそれを許さないかのように、絡みつくような圧力を放っている。どこか挑発的な表情で、ほんのわずかに口元を緩めて微笑んだ。
一方、廊下側の席からじっと見つめていたエイルは、顔を真っ赤にして怒りの形相で二人を睨む。唇を強く嚙みしめ、握りしめた拳は震えていた。
こうして波乱の幕開けとなった転校初日。教室内の生徒たちの視線は依然としてエリスとアイに集中していたが、担任の号令でようやく朝礼が始まった。
朝礼を終え、生徒たちは次の授業に向けて屋外の演習場へと移動する。広々とした空間に透明な防護結界が張り巡らされ、整然と並ぶ生徒たちの間に、期待と不安が交錯した空気が漂っている。特に転校生であるエリスとアイへの注目は、いやが上にも高まっていた。
「次!エリス・ノヴァ!」
「はい!」
名前を呼ばれたエリスは立ち上がり、演習場中央の的に向かって歩み寄った。
今回の訓練は、狙撃の精密さと威力を測るための魔法射撃だ。転校生の実力がどの程度のものなのか、クラス中の生徒たちが息を呑んで見守っている。
エリスが立ち止まり、的に向けて手をかざした。その表情は真剣そのもので、教室で見せていた穏やかな表情は跡形もなく消え去り、ただ一心に目標を見据えている。まるでその瞬間だけ、彼女が周囲とは別の世界にいるかのようだった。
集中力が極限にまで高まると、彼女は静かに口を開き、詠唱を始めた。
「その怒りと慈悲は、万物の闇を穿つ。天より舞い降りし白光よ、永劫の輝きを纏い命運を断つ嚆矢となれ。『ラディアント・ジャッジメント』!」
その声は張り詰めた静寂の中に清らかに響き渡り、聴く者の心を引きつける。詠唱が終わると同時に、エリスの指先から一条の眩い光が放たれた。光の矢は真っ直ぐに空を裂き、その速度と威圧感に息を吞む者もいた。
光の矢はそのまま木製の的へと吸い込まれるように突き抜け、中心を正確に射抜いた。的の中心部が小さく燃え上がるように輝き、熱で木が焦げる匂いが風に乗って周囲に広がる。その光景はあまりに完璧で、演習場にいた誰もが言葉を失った。
エリスは小さく息を吐き、落ち着いた足取りで待機場所へ戻る。その途中、クラスメートたちから湧き上がった歓声に気づき、少し照れたように笑顔を浮かべた。そして、片手を軽く上げて応えるその仕草は、どこか気品が感じられるものだった。
「すげえ……」
「綺麗な上に強いとか反則だろ……」
「なんかもう全部許せるわ……」
生徒たちはその姿に目を奪われ、次第に拍手の輪が広がっていった。中には興奮を隠せない者もおり、ささやき声が絶え間なく続く。彼女の実力と存在感が、瞬く間にその場を支配していたのは明らかだった。
しかし、そのざわめきをかき消すような轟音が演習場に響き渡った。
立ち上る黒煙の中、防護魔法で守られていたはずの的は跡形もなく消し飛んでいた。木片すら残らず、地面にはただ焦げた痕跡が残るのみ。
爆心地で炎を纏った魔力の残滓が未だ燻る中、エイルが満足そうな笑みを浮かべ、エリスの正面へ立ちふさがった。
「どうかしら?私の実力は?」
彼女はエリスに近づきながら誇らしげな声で言い放ち、隠しきれない対抗心が滲み出ている。クラスメートたちは息を呑み、次の展開を見守っていた。
だが、エリスが返した答えは予想外のものだった。
「そうね、私ではとても敵いそうにないもの。才能だけじゃない。きっと、たくさん努力してきたんでしょうね。尊敬するわ」
「……っ!?」
エイルの表情が一瞬で固まった。悔しさや動揺を期待していた彼女にとって、その穏やかで真摯な称賛の言葉は、肩透かしを食らったような気分と、それを見透かされたような居心地の悪さが混ざり合う。
「エリスさんって、人間まで出来てるのかよ……」
「ほんとそれな。女神かよ」
「私、惚れちゃったかも……」
生徒たちは男女問わず、口々に感嘆の声を漏らす。その中でリヒトだけは、呆れ顔でその様子を見守っていた。
「次、アイ・ノヴァ!」
教師が名を呼ぶと、エリスの隣にいたアイが無言で立ち上がる。エリスのこともあり、周囲の期待と好奇心は彼女に集中した。ざわざわとした興奮が再び演習場を包み込む。だが、リヒトの胸には、ある種の不安が湧き上がっていた。
彼女は黙々と的に向かい両手を前にかざした。その動作は洗練され、どこか儀式めいてさえいる。だが、生徒達はその後の光景に目を疑うこととなった。
「えっ……」
一本の光の矢が放たれた。矢は一直線に的へ飛び中心に正確に突き刺さる。だが、木製の的は傷一つ負わず、破壊どころか貫通すらしていない。精度は完璧だったが、威力がほとんど感じられない、控えめで陳腐な魔法だった。
一瞬、演習場が静寂に包まれる。だが、その沈黙は失望によるものではなかった。
「無……詠唱?」
誰かが呟いた。その一言が場の空気を変えた。
「噓でしょ……?初めて見た……」
「私も。リヒト君でも詠唱なしは無理なのに……」
生徒たちが驚きと戸惑いの声を上げる中、アイは平然とその場を後にし、何事もなかったかのように元の場所に戻った。その落ち着きぶりがさらに彼らを驚かせる。
やがて、アイを取り囲むように興味津々に生徒たちが詰め寄り、次々と質問を浴びせ始めた。歓声や感嘆が次々と湧き起こる中、当の本人は我関せずといった様子でただ前を向いている。その様子を遠巻きに見つめ安堵している影が一つあった。
そう、リヒトの能力は本来『無詠唱』。アイの魔法は全て彼が操っていたものだ。
詠唱というプロセスを完全に省略して魔法を発動できる、特異な才能。それは他者にとっては目を見張るような「天賦の才」に映るだろう。しかし、この能力は決して万能ではない。いや、その代償が重すぎるがゆえに、むしろ「呪い」と呼ぶにふさわしいものだった。
魔力操作をすべて自力で、かつ完璧に制御する必要があり、その精密な制御に伴う精神的・肉体的負担は計り知れない。隠していた理由としては、過度な注目を避け、緊急時に敵を欺くためでもあるが、それ以上にこの理由が大きく占めている。
「では明日、ネフリム討伐の実地訓練を行う。各自念入りに準備しておくように!」
教師の声が響き、生徒たちがぞろぞろと帰り支度を始める。新たな悩みが胸中に芽吹いたまま、眩しい陽射しの中演習場を後にした。
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