今度釣りに

こばやし あき

今度釣りに


 ゆっくりと目を閉じ、静寂に耳を傾ける。

 波の音もカモメの鳴き声も、どこか遠くの世界から運ばれてきたかのようにぼんやりとして現実味が無い。そんな音はかえって静寂を引き立たせる。


 呼吸が浅くなり、頭が痺れる。

 自分という枠が消え、ドライアイスが昇華していくように意識が辺りに拡散していく。

 

 強すぎる光で目を傷めないように、生まれたての赤ん坊のようにゆっくりと目を開ける。そうして僕の意識は少しずつきちんと身の内に収まっていく。


 抜けるような青空。

 水平線まで見渡せる微かに緑味を帯びた透明度の高い豊かな海。

 白い砂浜。


 そんな圧倒的な美しさは、感動と共に居心地の悪さを僕に与える。

 どうして僕はこんな美しい所にいるのだろう? 身に馴染んだ喧騒と灰色がかった景色は今もあの場所にあるのだろうか?


 僕は静かに頭を振り、釣りの準備を始める。


 ここヘンリービーチの桟橋は木で作られていて、海岸から三十メートルぐらい海に突き出ている。ここではムーンフィッシュやカニが捕れるそうだ。そう浜辺の掲示板に書いてあった。でもムーンフィッシュって何だ? 電子辞書で調べても載ってない。まあ、釣れればそれがムーンフィッシュなのだろう。


 桟橋にも砂浜にも僕以外の哺乳類は見当たらない。

 今は平日の午前中だし、この時期、五月は泳ぐには寒すぎる。でも夕方にでもなれば地元の人が散歩にでも訪れるのだろう。


 僕は今まで一度も釣りをしたことが無かった。日本で住んでいた所からは海は遠すぎたし、濁って泡立つ川で釣りをしたいとは思わなかった。今日だって、昨日の知らせを聞かなければこれっぽっちも思わなかっただろう。


 昨日の夜中、日本にかけた電話でそれを聞いても、今朝もいつも通り語学学校に行くはずだった。僕は今、オーストラリアに語学留学中なのだ。


 けれど、今朝、自転車をこぎ出し、いつも右に曲がるところを左―海へと続く道―に曲がった。その曲がり角が見えた時、不意に海を見てみたくなったのだ。

 そして道の途中の店で一番質素な釣り道具一式を買った。その店が見える前までには釣りをしようとすっかり決めていた。

 自宅からヘンリービーチまでは、自転車で三十分ほどだった。


 釣り道具の包装を次々と開き、店でもらってきた釣りの仕方の小冊子を読む。オーストラリアン向けなのでもちろん英語で書いてある。電子辞書で調べながらどうにか基本的な釣りの仕方と道具の使い方を知る。


 小振りのミートボールのような餌を針に付け、桟橋の上からとりあえず糸を海に浸してみる。これでもう釣りは始まっているはずだ。

 僕は左手で竿を握りながら、桟橋の手すりの上から覗き込むようにして海面を見つめる。海水は、海底は見えないけれどよく澄んでいて、気まぐれな魚達が針の横をすいっすいっと横切るのが見てとれる。



 Kと初めて会ったのは高校一年の時だった。同じクラスの友人の友人で紹介されたのだ。

 初対面の時からKとは気が合うような気がした。少し照れたような笑みで「よろしく」と言われた時、そう思った。

 けれど結局、高校を卒業してそれぞれ別の進路を進むことになっても、一度も遊ぶことは無かった。


 通学路が同じで、待ち合わせることは無かったが偶然会えば学校まで一緒に行った。会えば今度遊ぼう、今度遊ぼうと予定を立てたのだが、クラスも部活も別でお互い忙しくて、結局一度も実現しなかった。


 Kは大の釣り好きだった。もうマニアと呼んでいいくらいで、定期的に雑誌を買って、テレビ番組を見て、実際よく釣りに行っていた。

 そんなKだから、もちろん今度釣りに行こうと言う話になった。

 高校三年の夏休みが終ってすぐの時だった。その時までにはKから釣りの楽しさを散々聞かされていたので、僕も結構興味が湧いてきていて「よし行こう」と張り切って答えた。


 かなり大掛かりな計画になって、日帰りだけれど船で沖合まで出て海釣りをすることになった。Kも僕も凄く乗り気で、Kは僕に半ば押し付けるように何冊も釣りの本を貸してくれて、僕は自主的に釣り番組を見て、気分を盛り上げていった。


 予定を立ててから行くまでの間の話題といえばもちろん今度行く釣りについてで、普段は聞き手にまわる方が多いKが嬉しそうに今度行くところは何が釣れるだの餌は何がいいなど少し早口でしゃべる姿を見て、Kは本当に釣りが好きなのだなぁと少し飽きれて、少し感心して思った。


 しかし当日、天気は台風。家を出る前に予約した船から電話がかかって来て、今日は船が出せないと言われた。Kと僕は待ち合わせの場所で会うことなく、電話でのやりとりのみで、その日の約束を取り消した。


(「まさか台風が来るとはね」「ついてないよなー、二ヶ月も前から予約してたのにさー、本だって借りたの全部読んだんだぜ」「うーん、くやしいけど天気ばっかりはどうにもならないからね」「あーあ。しょうがないかー・・・今度、今度絶対行こうなっ!」「おうっ、もちろん! じゃまた今度」「じゃ、また」)


 それが僕達の一緒に遊ぶ最後の機会だった。その後、受験やら何やらで釣りをする精神的、時間的余裕がなくなっていった。そして、それにつれ通学路で偶然会うことも減っていった。


 そして結局「今度」が来ないまま、お互い別の進路を進んで、連絡が途切れた。

 

 

 上から見ていると魚は結構寄ってきているのに、全然食いつく様子が無い。

 餌が悪いのだろうか? 

 釣具を買った店の人にヘンリービーチで釣りをするならこれがいいと言われて買った餌なのに。

 ヘンリービーチはヘンリービーチでも場所が少し違うのだろうか?


『釣りっていうのはね、待つことが肝心なんだよ』


 はい、先生。

 僕はとりあえずもう少し当たりを待つ事にして、竿を握ったままベンチに腰掛ける。

 空を見上げるとカモメが一羽、滑るように飛んでいる。空が余りにも青いので、そいつの白さがやけに眩しい。


 風が穏やかに吹いて、それに合わせて磯の香りが強くなったり弱くなったりしている。

 日本もここも基本的な磯の香りは変わらないけれど、こっちの方が清潔でさっぱりしているような気がする。日本のような湿ったまとわり付くような生臭さが無い。どっちが好きかと言われたらこっちを選ぶけど、今は日本の海が恋しい。


 午前の無垢な光が、惜しげなく辺りに満ちている。気まぐれな波がそれを反射して、鋭く僕の目に投げかける。

 僕は強すぎる陽射しで疲れた目を休めるため、目を閉じる。



 取り残された約束。

 昨日から僕はそれについて考えている。


 昨日Kを紹介してくれた友人に電話したのは偶然だった。ちょっと聞きたいことがあったので軽い気持ちでかけたのに。


 電話に出た奴は沈んだ声で僕の質問に答えた後、こう付け足した。

「Kが死んだよ」


 始めは、またたちの悪い冗談かと思った。

「そう言う冗談はメールでしてくれ。電話代がもったいない」


「冗談じゃない、本当だ」


 僕は何度も奴の冗談に騙されているので簡単には信用できず、しばらく奴が笑い出すのを待った。


 しかし何時まで経っても笑い出さなかった。そしてようやく少し奴の言葉を信じ始めた。

「・・・ほんとにほんとなのか?」


「こんなこと冗談で言うか」

 奴の静かだけれど怒ったような声を聞いて、ようやく奴が冗談を言っているのではないことが分かった。


 けれど、その言葉の内容はまだ信じられなかった。

「え・・・死んだっていうのは、何か抽象的な意味で?」


「抽象も何もあるか! dieだよ。die。pass away!」


「何で、何で死ぬんだよ! まだ二十三だろ、おかしいよ」


「おかしいもおかしくないも、とにかく死んだんだよ!」


 僕は何かを考えようとしたけれど混乱してできなかった。

 しばらく沈黙が続いた。


「・・・詳しいことは後でメールするから、もう切っていいか? 俺もまだ実感ないんだよ」

 奴はそう言うと僕の返事を待たずに電話を切った。


 僕はしばらく何かを考えようとしたけれどよく分からなくて、とりあえず持ったままになっていた受話器を元に戻した。


 その電話以来、僕はずっとKのことを考えている。


 Kの顔、一緒に話したこと、声、動作、約束。約束。


 メールはまだ確認してないけれど、死因はそれほど気にならなかった。

 取り残されたままの約束の方がずっと強く僕の心を支配し続けている。


 僕はKと約束したのに。

 一緒に計画を立てている時、Kはとっても楽しそうに釣りの薀蓄を語っていた。あんなに楽しそうなKは見たことが無かった。


 もし台風が来なければ、もしその後も連絡を取り合っていたら……もし一緒に釣りに行っていたら、そうしたらたぶんKと僕はもっと仲良くなっていただろう。進路が分かれても連絡を取り合ってたまに遊びに行くぐらいに。


 もし……もし……

 

 けれどもう、永遠に、一緒に釣りに行くことは出来ないのだ。


 Kはあんなに楽しみにしていたのに。

 貸してくれた本の行く予定の海で釣れる魚、釣りの方法のページには、栞の代わりに紙が挟まれていた。その紙にはその本には載ってない釣りの情報が細かい字でぎっしり書かれていた。


 Kはあんなに釣りが好きだったのに。

 釣りなんてやる気になれば学校が終った後近くの川でだって出来たのに。

 何でやらなかったんだろう……何で……


 

 急に腕を引かれたような気がして、驚いて目を開けた。

 いきなり強い光に目がさらされたせいで頭がくらくらする。

 世界が白い。


 一瞬Kに腕を引かれたのかと思ったけれど、よくよく見ると魚が竿を引っ張っている。目を開けるまで、僕は釣りをしていることも竿を握っていることもすっかり忘れていた。


 僕は魚がかかったらどうしたらいいのか分からなかった。釣りの本を読んだのは五年以上前の話しだし、今朝もらった釣りの小冊子はまだ釣れた後の所まで読んでいなかった。

 とりあえず竿の手元にある糸を巻き取るのを回せばいいんだっけ? 魚を弱らせるのが先だっけ?

 僕は焦りながらもKが教えてくれたことを思い出してみる。


『いきなりリールを巻くと強い当たりの時は糸が切れるから、竿を押したり引いたりたまにリールをちょっと巻いたりして魚を弱らせて、その後完全にリールを巻き取るんだよ』


 了解。

 僕はその通りにやってみる。始めからそんなに強い当たりではなかったので弱らせなくてもいいような気がしたけれど、教えてもらったように細心の注意を払って押したり引いたりしてみる。


 呆気無い程簡単に魚は暴れなくなり、それでも慎重にリールを巻き上げる。リールを巻いていくと同時に魚が僕の所に近づいてくる。Kはこの時の「来た来たっ!」って感じが凄くいいのだと言っていた。けれど今の僕には余り感じられない。


 慎重にリールを回していると、僕の目線の所まで魚がやって来た。もういいだろうと思って巻くのを止めて魚を外そうと右手で魚を掴む。慣れないぬるっとした感覚が少し気持ち悪かったけれど、それでも魚を逃がさぬようしっかり掴む。


 こんな時「ゲットだぜっ!」と言うのかなぁなどと思いつつ、魚を針から外す。

 その小さな魚は青っぽい銀色の鱗を持っていて、体を動かすたびに鱗が光を反射して、とても美しく見えた。日本で言うアジに似ていた。


「やったよK。 釣れたよ」

 僕は口に出してそう言ってみた。

 けれど、もちろん答える人は誰もいなくて、僕の独り言は意味無く辺りに拡散していった。


 それでも僕は割りと満足して、もう帰ることにした。

 帰り支度をしようとして、僕は魚を持って帰る道具を買い忘れたことに気付いた。ビニール袋なら今朝釣り道具を買った時にもらったのがあったが大きな穴が開いていた。


 僕は軽く肩を竦めて、まだ生きている魚を桟橋の上から海に帰した。

 

 そうして釣りが終って、やっと少し楽しい気持ちがやって来た。

 

【 了 】

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