【短編】空の向こうは

竹輪剛志

本編

 扉を出て、家から出たとき。そこには心躍る様な何かがあった。その何かを求めて、昔は良く外出していた気がする。

 けれど、今ではすっかり籠りがちになってしまった。時折散歩に出ても、あの頃の様な心躍る体験は無かった。

 寧ろ本を読んだり、勉学に励む方が好ましかった。その結果、良い高校には行けたが、元来の内気な性格のせいで周りとは馴染めず、味気ない学校生活を送っていた。

 友達は一人も出来ず、部活は入ったが楽しくなくて早々に幽霊化。かといって打ち込めるような趣味もない。

 すると必然的に、一学期が無為に過ごされる。学校に行って授業を受けて帰るの繰り返し。当然、楽しい筈もない。

 夏休みになっても、それは変わらなかった。

 夏の暑さに、身体も心も腐っていくようだった。することもなく、動画や漫画といった安易な娯楽で腹を満たす。すると、一時の満腹感で安堵できた。けれど、満腹以外の満足は得られなかった。美味い何かを食った後の様な感覚はない。安いジャンクフードを食べ続けるような日々。

 天機は突然に訪れた。あらゆることに飽きて、ベッドに寝っ転がっている時のことだった。ふと、扉を開けた冒険。少年の日々を思い出したのだ。

 それからの行動は簡単だった。まるで何かに従うかのように、身体は機敏に動いた。大きな鞄を取り出し、服を二、三着放り込む。その後は、財布と充電器、あとはバッテリーを入れて準備完了。玄関の扉を開けて、外へと出る。

 そう俺は、あの頃に持っていた、失った何かを思い出す為、ひと夏の旅に出ることを決意したのだ――

「それで、こんな所まで来たのか?」

「そうだよ」

 夏の日差しが、バス停のちょっとした建物のおかげで和らぐ。眼前には、目一杯の田んぼが広がっている。稲穂は緑色で、無風に立っている。

 隣の男は、煙草を吸っている。白いシャツにだぼだぼのズボン、肌がほんのりと小麦色に焼けている。

 旅の始めは電車だった。その後、バスに乗り換えた。ワケは分からないが、とにかく知らない所まで来たかったのだ。その判断が過ちだった。うっかりバスで居眠りをしたが故に、ドが付くほどの田舎まで運ばれてしまった。目が覚めた次のバス停でとりあえず下車したが、それも間違いだった。次のバスはかなり先というのを知って、さらに絶望した。

「おっさんは何でこんなバス停にいんだよ」

 そのバス停で遭ったのが、この男だった。絶望している横に、何の気なしに座ってきたのだ。

 当然だが、その男の名前は知らない。どんな人間なのかも知らない。けれどそれが幸いか、男に対しては元来の内気は鳴りを潜め、会話は円滑だった。

「おっさんじゃねえ。俺はまだ26だ」

「……存外に若いな」

 どうだって良い人間関係を前に、態度はぶっきらぼうになる。

 おっさんには、俺がここまで来た経緯を話した。それを聞いたおっさんは慰めるでも呆れるでもなく、笑っていた。

「それに、バス停に来る理由なんてバスに乗る為以外にあんのか?」

 夏の暑さに頭でもやられたのか、と言わんばかりの視線を向けてくる。それが何だか癪に触って、こちらも言い返す。

「でもよ、次のバスはかなり先だぜ?」

 時刻表を遠目にもう一度確認しながらそう指摘すると、おっさんは笑った。

「んなもん、実家の手伝いサボる為に決まっているだろ。ちょいと街に用があるんだが、車で出るよりサボれる」

 煙草の煙が空に消えていく。その様子を見て、このおっさんが立派では無いことを確信した。

「酷い理由だな」

「でも、楽しいぜ?」

 煙草をもう一吹かしして、おっさんは言葉を継いだ。

「農作業をサボって打ちに行くスロットの脳汁の出方といったら、堪らないね」

「用があるんじゃないのかよ」

「用事だけ済ませてさっさと帰るわけないだろ。馬鹿か、お前」

 なんてことを言うおっさんの方を、俺はもう見ていなかった。だけど一つ、その語気の軽さが羨ましくなった。

「おっさん、気楽そうで良いな」

「そう見えるか?」

「そりゃあ」

 すると、おっさんは吸い殻を灰皿に押し付けて、再び口を開く。

「もう、俺は諦めちまったからな」

 意外な一言に、視線を再びおっさんの方へ向けた。口調はさっきまでの軽々しいものでは無く、どこか含みのあるモノだった。

「どういうことだよ」

「悩むモンが無いんだよ」

 おっさんはポケットに手を作っ込み、煙草の箱を取り出した。そこから一本取り出すと同時に言葉を継ぐ。

「俺にはもう、農家するしかないんだよ。多分近いうちに両親がくたばって、その後は俺が実家を継ぐ……」

「それは、楽しいのか?」

 俺の問いに、おっさんはすぐには答えずに煙草に火をつけて、ゆっくりと吸う。そして、その息と煙が吐かれると同時に、呟く。

「楽しくねぇよ」

 おっさんは遠くの田んぼを見つめている。

「だけど、何にもしなかったら人は飢えていく一方だ。だから、安易な娯楽で飢えを凌ぐ。例えば、スロットとか」

 煙が再び、ゆっくりと吐かれる。

 おっさんは、俺だったのだ。おっさんもまた、何かを探している。腹を満たせる、とびきりの好物を。

 ただ一つの相違点は、諦めたかそうでないか。当然、諦めたら楽に決まっている。

 人生とは、飢えを満たすことだ。そして、どう飢えを満たすかが生き方だ。俺には何が好物か分からない、おっさんは探すことを諦めた。

 とはいえ、飢えを満たすだけなら簡単だ。特に、娯楽に飽和した現代においては。だからこそ、自分だけの好物が要るのだ。

「お前も、飢えているんだろ?」

「……ああ」

 まるでおっさんは、最初から全てを見透かしていたような目線を送ってきた。

 その目線を外すと、口はおのずと開いた。

「俺はどうやって、この飢えを満たせば良いんだ?」

「知らん、人によって好物は違うだろ。自分で考えろ。若いし、自由も時間もあるだろ」

 そう言って、おっさんは時刻表を指差した。次のバスはまだ先のこと。

 俺の視線は田んぼと、青空に向かった。そのまま、しばらく考えた。考え続けた。そもそも自分は何故こんな旅に出たんだろう。それは、朧気ながらの幼少の記憶に従ったまでのこと。

 この旅は楽しかったか。多少心は踊ったが、あの頃の様なモノは無い。

 そうなれば、考えるべきは今と昔の違い。俺はこの16年で何を得た。あの頃とは、何が違う。

 なんてことを考えていると、ふと脳裏にある思い付きが浮かぶ。

「海に行きたいな」

「水泳か、サーフィンか?」

「いや、越えたい」

 身体を起き上げる。バス停から出て、空を目一杯に見上げる。

「マゼラン、コロンブス、アイツらが海を抜けて大地を見た時、どんな気分だったんだろうか」

 結局の所、答えはシンプルだった。俺が成長と共に得たのは、知識と経験。それだけだった。

「知らない所に行きたいな。それも、誰も行ったことの無いような」

 幼少の俺が外出に心躍った理由も、何となく遠くに来たかった理由もただ一つ。俺は、知らない何かを知りたかったんだ。

「そんな所、もう無いだろ」

 おっさんが煙混じりに指摘すると、遠くからバスが走って来るのが見える。

 太陽が眩く輝いている。

「あの空の向こうは、誰が知っている?」

 青空に指を指す。心は澄み渡り、心躍る気持ちが沸き上がっている。

「……そりゃ、ご立派なことだ」

 おっさんは座っている。

 バスが目の前に止まる。扉が開いて、俺はそれに乗る。振り返ると、おっさんはまだバス停に座っている。

「乗らないのか?」

「説教かました相手と同じバスに乗れるか。恥ずかしい」

 笑いながら言うおっさんと目が合った。

「おっさんも頑張れよな、飢えを満たすもの探し」

「……もう諦めたといっただろ」

 その一言に、俺は笑って返す。

「若いんだろ? お互い頑張ろうぜ」

 すると、おっさんは笑った。心は踊っている。その音をかき消すように、バスの扉は音をたてて閉まったのだった。

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