PICU入院まで

 PICUではすぐに麻酔マスクをつけ、深く眠りました。MRI検査中は別室で待ちます。


 ちなみに皆さん、PICUってご存知ですか?

 ICUならわかりますが、私は知りませんでした。


 小児集中治療室といって、全国に四十ヶ所あるそうです。二十四時間体制で救急受付をしているのは十ヶ所。

 主に生後数週間の乳児から十五歳までの子を診るそうなのですが、二十四時間先生も看護師さんも交代でついてくださいます。

 そして本人や家族の心のケア、リハビリ、食事や薬、保育士さんまで関わってくださいます。各担当の方々の情報共有の速さもすごく、直接の説明も毎日してくださいました。


 心配なことは何度でも聞いていいですし、弱音だって吐いて構いません。

 親の心が折れてしまうと子供は敏感に感じ取り、悪い方向へ進んでしまうこともあります。

 なので、頼れる方には頼ろう! の精神で過ごされるのをオススメします。


 上記のような説明があるのは、PICUへ入院が決定してからになります。


 MRIから息子が戻り、脳の状態を映像で見せられてからが本当の修羅場でした。


 脳全体に白い点が散在。

「急性脳症の可能性があります。まだ病名は断言できませんが、すぐ治療に移ります」と説明を受けました。

 私が「治りますか?」と尋ねれば、先生からお答えが。


「脳は一度破壊されると治りません。この子の場合、脳の信号を送る伝達部分が白くなっています。なので、どこまで状態が戻るかわかりません。歩けない、喋れない、意思の疎通が取れない。障がいを持つ子の母になる覚悟をしてください」


 この言葉は、今思い出しても涙が止まらなくなります。

 当時も勝手に涙が流れ、情けなかったです。

 泣きたいのは息子なのに、母親なのにと、自分を責めました。


 同時に、私の中にたくさんの人格が生まれた気がしたぐらい、悲観したり、その現状を受けれてどう生活していくか未来を考えたり、入院してからどうすべきかネットで調べないととか、先生の言葉を聞き逃さないようにしている私がいたりとか。

 もう、支離滅裂なのに現実は動き続けるので、必死でした。


 治療準備があるのでまた別室へ。

 看護師さんが扉を開けてくださった瞬間、嗚咽が耐えきれず。

 一人になり、パニックになりそうなのを必死に抑えて夫へ電話。

「一人で辛い話を聞かせてごめん」なんて謝られ、「どうしてうちの子が……」なんて呟きを聞きつつ、でもだからといって他の子が病気になってほしいわけじゃないと心の中で神様にでも言い訳している複雑な心境になりました。

 それでも状況説明をし続け、病名は変わるかもしれない等を伝え、娘の様子も聞き、明日も面会があるから早く寝てと伝えて電話を切りました。


 次に、母に連絡しました。

 娘は一緒に入院できませんので、面倒を見てもらうためです。

 関東に住む高齢の母を関西へ呼ぶのは本当に申し訳なかったのですが、「泣くんじゃないよ、任せなさい」の言葉をすぐにくれました。

 母の第一子、私の姉は難病で亡くなっています。

 だから気持ちはわかってくれていますし、なぜか同じ気持ちを味わせてごめんと謝られ、それは関係ないと否定しました。

 姉の病気は遺伝性ではありますが、私の子供達には遺伝していません。

 息子の病気は遺伝性はなく、誰がなってもおかしくない病気がたまたま発症したので、誰も悪くないのです。


 最後に息子のお友達のママさん達にも迷惑を承知でメッセージを送りました。

 障がいが残ってしまったら、子供達の心に傷がつく。何より、息子がどんな気持ちになるのだろうと思い、生死も彷徨っていますし、直接は会えなくなるかもしれないのを伝えました。

 カクヨムにも、この段階で報告しました。


 この行動があったからこそ、たくさん助けられました。励ましはとても嬉しかったですし、力になりました。

 実際の生活では、息子へお友達からの励ましの動画。

 娘の幼稚園の送り迎えや息子との面会時間中は預かっていただいたり。

 何かあったらすぐ声を掛けてとママ友さん達からもおっしゃっていただき、支えていただきました。

 

 今でも感謝していますし、一生、この気持ちが薄らぐことはありません。

 

 報告を終え、症状を調べました。

 良いもの、悪いもの、どちらもひたすら探し続けました。そうでもしないとおかしくなりそうで。

 先生とのお話し中、私の受け答えに専門用語が混じっていたのか、同業ですか? 聞か、動物看護師でしたと伝えると「それなら気になることは調べていただいて大丈夫です。わからないことがあれば聞いてください」とおっしゃっていただけたのもあって、必死に情報収集したのもあります。


 泣いたり落ち着いたりを繰り返していたら、看護師さんが今後の説明をしに来られました。


 一般病棟に移れるようになるのが一週間ほどかかるかもしれない。

 そこから私が付き添い入院になる。

 入院期間は未定。

 長くなりそうだが、二、三ヶ月ほどを考えてほしい。症状次第で早くもなるし、遅くもなる。

 一般病棟へ移るまでに個室か大部屋を決めておく。

 必要な持ち物を準備する。


 入院パンフレットも渡され、だいたいこのような内容のお話をしていただいたと思います。


 あと、PICUは完全看護になるので、すぐに必要なのは『オムツ』『お尻拭き』『前開きのパジャマ(肌着なし)』『歯ブラシ』でした。

 オムツは一般病棟に移ってからも使いましたが、入院期間が未定なのでとりあえず夜用と昼用、合わせて四袋持って行きました。病院でも購入できますが、高いので外で買う方がいいと看護師さんが教えてくれました。


 治療を開始し、落ち着いた頃に先生からさらに詳しい説明と、追加のお話もしていただきました。


 もう少し早く来ていても、食べられるという事実だけで入院は断っていた。(だからこのタイミングが最善でしたと、慰めのお言葉も添えてくださいました)

 退院は私達家族が負担にならないところまで持っていけたら。

 リハビリは家から通うかもしれないし、リハビリ専門の病院を紹介するかもしれない。

 車椅子生活は可能か。

 緊急の場合、連絡なしで治療を始める。

 私が体調を崩した場合、私の母が付き添い入院になる。


 簡単に書いていますが、私の質問に丁寧に答えてくださっているので、だいぶお話ししました。

 先生は「もしお母さんが病気などで付き添い入院できない場合、目が覚めておばあちゃんが目の前にいて、この人誰? という状況になったりしませんか?」とも確認してくださって、思わず『そうだよな』と笑いました。


 最後に、いろいろな病院に断られたのもあり、お礼を伝えました。「受け入れてくださり、ありがとうございます」と。


「それが我々の仕事なので、全力でやらせていただきます」


 などと、本当にドラマの世界のようなお言葉をかけていただけて、この先生になら任せられると心から思えました。


 この後、治療を始めた息子と面会。

 全身の力が抜け、まぶたは半分開き(次の日ワセリンを塗られテープで乾燥保護)、口も管があるのでだらりと。

 首も腕も、鼻も、尿も、全部管。

 心拍等の機械もあるので、近づくのも怖くて。

 少しでも引っ掛かったら息子が死んでしまう、なんて思いました。

 実際そんなことはないですが(先生もいますし、看護師さんもいますし)、目の前にはろうそくの火のような命の息子がいる気がして、恐ろしかったです。


 それでも触れたくて、胸の辺りを触りながら「また明日来るね。ゆっくり寝てね」と言って、帰りました。

 目の下のクマがひどくて、やっと眠れている息子の姿に安堵もしました。


 この時、日付けをまたいで一時頃だっだと思います。

 家に着いたのは二時頃でした。


 余計な話なのですが、PICUから帰る時、暗すぎて迷子になりました(笑)

 扉、自分で鍵を開ける仕様なのですが、そんなの知らなくて『ドア開かんのやけど』と、エセ関西弁を頭の中で呟きながら彷徨い、一般病棟に侵入してしまった不審者です。

 その時見つけてくださった看護師さん、本当にお世話になりました。(本当にすみませんでした)

 この出会いは伏線で、こちらの看護師さんが一般病棟で最初に担当してくれた看護師さんになります。

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急性散在性脳脊髄炎【ADEM】についての記録 ソラノ ヒナ @soranohina

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