第60話 夏樹の過去

 まず目に入ったのは、数人の里人が倒れている姿。

 月明かりに照らされたのは、どす黒い、液体。


「ひっ!」

 息を呑んだ瞬間、大量の血の臭いが鼻から口から入ってきて、酸っぱいものがこみあげてきた。

 たまらず大木に手を付き、根元に吐き戻した。


 いくぶんか楽になったので、涙で濡れた目をよくこすって、もう一度里を見下ろした。

 動いているモノがいた。


 4本もある尾をゆっくりと揺らし、獣が畑と家々の間を練り歩いている。

 家の中から、鍬を持った里人が飛び出してきた。

 腕の一振りで、体が真っ二つに引き裂かれる。一瞬遅れて、血がほとばしる。


 ひっと、ひきつった声が出た。

 手で口を抑えたものの、遅かった。


 獣が振り返って見上げている。距離があるにもかかわらず、獣と目が合った。

 今まで感じたことのない恐怖に、背筋が凍りつく。


「親父どの。ガキがいる」

 不思議なことに、獣の話す言葉がわかった。しかも誰かに話しかけている。


 のそりと現れたもう一匹は、もっと大きな体をしていた。しかも尻尾が増えている。

「まだおるか。何の力も残っていないこいつらを喰っても大した腹の足しにはならぬが、一人たりとて、残してはおけぬ」

 不吉で、おどろおどろしい声。


 殺される。がたがたと震える足を動かして、その場から逃げようとした。

 振り返った途端、目の前に一匹がどんと降り立った。


 生臭い息がかかる。

 動けなかった。

 動けば殺される。動かなくてもきっと殺される。

 ごくりと唾を飲み込んだ。


 すーっと、獣が離れた。

 夏樹は何もしていない。


「我が満願は成就した。この童子は、捨ておけ」

 大きい方の獣の後ろに、もう少し小ぶりの獣がいた。


「あぁん。なんでだよ。親父どの。まさか、こんなガキひとりに怖気づいたんじゃないだろうな」

「おまえにはわからぬか。このガキの体の中にある、おぞましい力を」


「わっかんねえなあ。ただのガキじゃねえか。それに、力があるってんなら、俺さまの腹の足しにしてやんよ」

「左様か。ならば好きにせい。ここで別れる。我が息子よ」


「ああ、後は俺さまの好きに生きさせてもらうぜ」

 意見が分かれた親父と呼ばれた一匹が、どこかに飛んで行った。


 助かったと少しだけ安堵したものの、息子と呼ばれた方は、まだそこにいる。


「く、来るな! あっち行け!」

 威嚇するつもりで放った声は、しかし震えて裏返った。


 それは人の言葉がわかるのか、「ふんっ」と器用に右の口角を上げて、あざ笑った。


「ガキ。俺さまの姿にビビッて、小便漏らしてんじゃねえのか。ああ」

「な、なんだ‥‥‥おまえら、なんなんだよ」


「俺さまか? これからおまえを喰うんだよ」

「ひっ、来んな! こっち来んな!」

 後退る。背後は谷、飛び降りても助からない。でも獣に喰われるぐらいなら、いっその事飛び降りようか。


「やめて! 弟から離れて!」

「なんだ。まだ行き残りがいたのか」


 姉の百合恵に助けられた夏樹は、逃げなさいと言われて従った。後から追いつくからという言葉を信じて。


 転がるように山を駆け下り、見慣れたお地蔵様まで来ると、夏樹は振り返った。

 姉の姿は見えない。あいつは姉さまを見逃してくれるのだろうか。

 後ろ髪を引かれる思いで、夏樹はお地蔵さまを越えた。


 山をさらに下ると、開けた道にでた。畦道よりも広くて、雨でぬかるんだり、石が転がったりしていなくて、歩きやすかった。


 このねずみ色の道は、どこに繋がっているのかわからないけど、とにかく夏樹は走った。

 早く助けを呼んでこないと、姉さまが喰われてしまう。

 他にも里や村があるらしいと、里人から教えてもらっていた。きっと姉さまや、里人の手当てをしてくれるはずだ。


 夏樹は走った。山道は歩きにくい。大きな石や折れた枝が落ちていたり、足を滑らせたりする。

 それに比べると、この道は本当に歩きやすかった。でも、いつまでも走り続けていられる体力はなかった。


 足の裏に痛みを感じた。走るのをやめて足の裏を見ると、皮がむけたのか血が出ていた。

 痛みを感じると、他の場所までが痛みだした。

 関節、ふともも、ふくらはぎ、足首、指。


 これぐらいなんだ。姉さまは背中を裂かれていた。姉さまはもっと痛いはず。

 弱くなる心を、姉たちを思う事で励まし、歩き続けた。


 夜が明け、夏の強い日差しが照ってくる。

 足裏に異常な熱を感じて、ねずみ色の道を歩くのをやめて、土の上を歩いた。


 腹が減った。食べ物なんて持ち出していないから、何も持っていない。

 喉も乾いた。どこかに川はないかな。


 眠気だけは感じなかった。まだ満月の影響があるからだろう。

 だから歩き続けた。痛みを堪えて、とにかく、ひたすらに。


 陽が沈み、夜が来て、火のような熱がひいたねずみ色の道を、また歩いた。

 走る気力はなくなってしまったけれど、歩く気力はまだ残っている。


 けれど、夜明け頃、唐突に眠気が襲ってきた。

 眠い。疲れた。痛い。けれど、歩かなければ。他の里や村へ、助けを求めなければ。


 徐々に意識が朦朧もうろうとする中、夏樹はついに倒れた。

 もう起き上がれなかった。うっすら白み始める空が見えた。


「いた! あの子や」

 遠くで声が聞こえた。


「かわいそうに。もう大丈夫やからね。啓一郎くん、早く」

「ゆっくりだぞ。どんなケガをしてるかわからないからな」

 温かい腕が背中に回されて、優しく抱きかかえられたところで、夏樹は意識を手放した。

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