第59話 失われていた記憶

「‥‥‥つき、夏樹。朝よ。早く起きなさい」

「うるさいなあ。もうちょっと寝かせて」


「もしかして、ゆうべまた家から抜け出したの」

「うーん」


 眠い目をこすりながらいやいや瞼を開けると、姉の顔が覗き込んでくる。

 十歳年の離れた姉の百合恵は、いたずらっぽく笑ってから、夏樹の鼻をつまんだ。


「うぐぐ、姉さま、やめてよー」

「ほら、早く起きなさい。今朝は卵が食べられるよ」


「ほんまに!?」

 ぱっと目を覚まし、夏樹は飛び起きた。


 夏樹が面倒を任されている鶏が、近ごろさっぱり卵を産まなくなった。

 藁を代え、冷たい水を汲んでやり、夏の暑さが少しでもやわらぐように布をかけ、とあれこれやってみた。

 そしてやっと卵を産んでくれた。


 汲んであった井戸水で顔を洗い、朝食を用意している母の元へ駆けつけた。


「母さま、こっこらが卵を産んでくれたって」

「ああ、そうだよ。夏樹が頑張って面倒をみたからだね。今日の卵は夏樹がお食べ」


「一個だけ?」

「そうよ。暑さがやわらいだら、また二個三個と産んでくれるからね」


「そっか。一個だけなんだ」


 食事の支度が整い、家族六人が席に着く。

 いただきますと手を合わせて、箸を取った。


 胚芽を残して精米した少し茶色の米、父さまと爺さまが朝から川で釣ってきた鮎、きゅうりのお漬物、お味噌汁の具材はナス。そして、夏樹にだけ卵。


「今日は卵があるなあ。良かったのう」

 婆さまがにこにこして、夏樹の頭を撫でた。


「みんなの分も産んでくれるように、お世話いっぱいするから」

「うん。任せるよ」


 卵を溶いてご飯にかけ、半分を百合恵にあげる。


「わたしは大丈夫やから、夏樹がお食べ」

「姉さまと半分こするとおいしいから、食べて」

「じゃあもらうね。ありがとう」


 朝食を食べ終えると、母さまと姉さまは食器を洗いに井戸へ向かい、婆さまは繕いものを、爺さまと父さまは、畑の手入れに向かった。


 夏樹は鶏小屋の掃除をして、明日も卵を産んで欲しいとお願いしておいた。


 昼には、またみんな集まり、お茶漬けと漬物を食べて、また仕事に向かった。

 暗くなる前にはみんな家に戻ってきて、夕食を食べ、早々に床に就く。


 夏樹も暑い中、たくさん動いて、近所の子らとも相撲を取って遊んだのに、目が覚めて眠れなかった。

 満月間近になると、いつも目が冴えて眠れない。

 そして今夜は満月、体の中の何かが激しく猛り、何度も寝返りをうった。


 昨夜も家を抜け出して、山の中を走り回った。

 夜の山は危ないからいけないと家族どころか、見つかった里の人たちにもよく叱られた。

 でも、体を使わないとじっとしていられないほど、落ち着かない。


 家族が寝静まった頃、夏樹は今夜も家を抜け出した。


 夜の山は昼間とは、違う顔をしている。

 動物たちが息を潜めて、時々走っていく際に折る枝の音がパキッとする。

 何かがはいずるガサガサ音。

 ピーと、動物が鳴く声が響き渡る。


 慣れているはずなのに、方向を見失う時がある。

 里が谷にあるお陰で、山で迷子になったことはない。


 里を囲むように山々に配置されているお地蔵さまだけは越えてはいけない。と、耳にタコが出来るほど言われているから、それだけは気をつけている。


 どれくらい走り回ったのか、そろそろ家に帰らないと、姉に見つかると叱られてしまう。

 里に向かって走り出した。


 ぴくりと鼻が動き、夏樹は足を止めた。

 空気の中に、血の臭いを感じた。


 大人たちが狩りで仕留めてくる獣の血は嗅ぎ慣れている。

 それを何十倍にも増幅させたような、強烈な臭い。


 むせ返りそうになって鼻をつまみ、できるだけ嗅がないようにしながら、谷から月明かりに照らされた里を見下ろした。

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