第53話 ケンカ

「おはようございます。遅くなりました」

 冬樺が出勤してきた。もうそんな時間かと壁の時計を見る。まだ6時前だった。


「出勤時間より早く来てくれて、すまないね」

「急展開ですから、始発を待つのがもどかしかったぐらいです。詳しく聞かせてください」

 冬樺が向かいに座って、話を聞く姿勢になった。


 カマ吉が、最初に話す。

 いつものように寮の入り口が見える所で寝ていたら、川男の気配を感じた。

 いつもより濃く、不安になる気配だった。

 のそのそとやってきた川男は、わずかなためらいもなく、寮の玄関をくぐった。


 カマ吉がこっそり後をつけると、川男は迷うことなく、ある部屋に向かった。そこではお姉ちゃんが眠っていて、川男は扉の横に座りこんだ。


 カマ吉は全力疾走した。

 夏樹を呼びに行こうと思っていたけれど、所長のマンションの方が近いことを思い出した。

 マンションの部屋はわからないけど、満月だから妖力で気がついてくれと願って見上げていると、所長が姿を見せた。


 川男が寮に現れて、お姉ちゃんの部屋に入ったと教えると、所長が夏樹に連絡をした。


 夏樹が電話を受けてからのことを話す

 移動しながら大地に電話をし、到着すると捕獲していた。

 そして川内を連れて大地と事務所に来た。


 そこから先の顛末は、所長が代わって話してくれた。

 夏樹には、話せなかった。大地が消えてしまったなんて。


「牛尾さんは、本気だったんですね。ご自分の人生――妖生をかけるほどに」

「オレが電話せんかったら、大地は動かんかった。オレのせいや。アピれとか言ったから」


「岩倉さん、あなたは、どちらかを守らないといけない状況だったら、どっちを取っていました?」

「どっちって?」


「牛尾さんか、樋口萌奈さんか」

「どんな選択肢やねん」


「事実、そうなったじゃないですか。あなたが牛尾さんに連絡をしなかったら、寮の中には入れなかった。あなたは人ですから、あなたの方が不法侵入をしたとして、警察に捕まる恐れがありました。僕が同じ状況なら、迷わず牛尾さんに連絡をします。彼にしか、助けられない状況でした」


「何が言いたいねん」

「自分を責める必要はないと、慰めているんですよ。これでも」


「冬樺は、知ってたんか」

「牛鬼の伝承ですか? 知ってはいました」


「なんで、オレに教えてくれへんねん!」

「確証がなかったからです。どの文献にも書いてあれば、確信が持てましたけど」


「でも、それでも教えてくれよ」

「教えていたら、樋口萌奈さんを助けれられなかった可能性が高かったですよ」


「大地が動かんでいい方法があったかもしれへんやん。あっ、あの覚りさんに行ってもらうとか」


「彼が妖だったなら、可能だったかもしれませんけど、今、奈良に住んでいるんですか。仏教大学と仰っていましたから、京都在住かもしれません。終電はない時間ですから、車の免許があれば来れたでしょうけど、車で京都奈良間は、どれだけ時間がかかるのでしょうね。仮に30分で来れたとしましょうか。あの牛鬼さんが、待ったと思いますか。僕は牛尾さんのことをそれほど知っているわけではありませんが、自信を持ってNOだと言えます。5分でも待たないでしょう。付き合いの長い岩倉さんにも、わかりますよね」


 畳み掛けてくるような冬樺の言葉に、夏樹は反論する気をなくした。

「それでも、教えて欲しかった」

 何を言っても、口では冬樺に勝てない。


「知ってたら、大地には、手出させへんかった。絶対に!」

 代わりに沸いてきたのは、ふつふつとこみ上げてくる、怒りの感情。


「大地は、オレの‥‥‥大事な、大切な、友だちやったんや!」

 身を乗り出し、テーブルを挟んだ冬樺の胸倉を掴んだ。

「友だちがおらん冬樺に、オレの気持ちはわからへん」


「夏樹! 八つ当たりはやめなさい」

 所長の鋭い声が飛ぶ。


 胸倉を掴まれても、冬樺の表情は変わらない。

 冷静で、落ち着いていて、動揺の欠片すら見えない。

 冷たい目で、夏樹に視線を向けてくる。


「自分の無知を、僕のせいにしないでください」

 吐く息すらも、氷のようだ。


「今回のことはあなたの無知が招いたことでもあるんですよ。自分で調べていたら、知識を入れていたら、彼をけしかけることはしなかったでしょう。牛尾さんに電話をしなかったはずです」


 その通りだ。正論すぎて、何も言えない。

 勉強は大嫌いだ。全授業が体育だったらいいのにと、何度も思った。

 朝の10分読書の時間が、たまらなく嫌いだった。嫌すぎて、わざと遅刻をして登校したぐらい。佐和に叱られて、仕方なく遅刻はやめたけど、読むフリをした。


「彼はわかっていたんですよ。自分のことですからね。だから、恥ずかしいからとかわしていたんです」


 そうやったんや。全然、気づかんかった。本気で照れてるんやと思ってた。


「面倒だから、僕から教えてもらえばいいと手を抜いていた報いを、今受けているんですよ。あなたは」


「冬樺も、言いすぎだよ」

 所長の声が疲れている。夜中に起こされた上に、朝っぱらから目の前でケンカをされているのだから、無理もない。


 ごめん、所長。

 怒りをどこに向けたらいいのか、その収め方も、夏樹にはもうわからなくなっていた。


「これやから頭いい奴、嫌いなんや。正論ばっかり言いよって。なんでも自分の方が正しいと思ってるやろ、アホを見下してるやろ」


 嘘だ。

 冬樺の頭の良さに頼っていた。

 頭は彼に任せておけばいと、彼から教えてもらえればいいと思っていた。

 冬樺のことは嫌いじゃない。

 それなのに、思ってもいない言葉が口から零れ出てくる。次から次へと、嫌な言葉ばかりをぶつけてしまう。


 冬樺は一度、長く瞼を閉じた。

 ここまで言われても、まだ冷静でいようとしているのか。


 瞼を開いた。

「構いません。僕はもともと人と馴れ合うのは嫌でしたから。あなたの距離感がおかしいんです。仕事以外で慣れ合うのはやめにしましょう」


「冷たい奴やな。仲良うやろうと思ってたけど、無理やわ。やっぱりオレら合わへんかったわ。正反対やもんな。名前も性格も」


 胸倉を掴んだ手を離す。代わりに、ばんと胸を押した。

 冬樺を受け止めたソファーが、がたっと動いた。


 夏樹は事務所を出た。

 大地のスマホに電話をかける。

 応答はない。

 呼び出し音が鳴っている。

 スマホを耳に当て、その音をずっと聞いていた。


 *


 夏樹の後を追って、カマ吉も出て行った。

 足元で音が鳴る。ソファーの下に、呼び出し音が鳴り止まないスマホが落ちていた。

 冬樺が拾い上げると、ぶつかり方が酷かったのか、画面が割れていた。着信の相手は、たった今出て行った夏樹からだった。


「これ、牛尾さんのスマホだと思います」

 スマホを所長に渡す。


「あ、ああ。そうだね。ご両親に返して、理由を話してくるよ。川男の片割れの所にも行かないとな。後で、家を教えてくれるかい」

「はい。後始末ばかり、すみません」


「冬樺が謝ることじゃない。事務所の代表者としての、僕の仕事だから」

 所長は疲れを感じさせる顔に、うっすらと笑顔を浮かべた。


「所長。僕は正しかったと思います。でも岩倉さんを深く傷つけましました。僕がここでお世話になって、四ヶ月が経ちました。もうひとりでも大丈夫だと思います」


 仕事を辞めるつもりは、もうない。自分がやれることを見つけたから。

 だから、夏樹との仲が戻らないとしても、冬樺は妖よろず相談所で働くと決めた。


「岩倉さんとのバディ解消を希望します」

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