第41話 兎の湯温泉 月華
番頭の
背中の羽をぱたぱたと動かして闊歩する天狗たち。
小さな鬼と川獺が、人の子のように元気にぴょこぴょこと走っていく。
前方からようやく人が来たと思ったら、顔のパーツがなかった。
「ここには人がおりませんので、妖たちはみな本来の姿でのんびりなさっておいでです。ほら、お客様にも尻尾が生えて、冗談でございますよ。仲居がお部屋まで、ご案内いたします。ごゆるりとお過ごしくださいませ」
煌輝の言葉に思わず、お尻を確認しようとしてしまった。
新月に向かっているから、冬樺の生え際は1センチほど白くなっている。まさかもう妖化するのかと、どきっとした。妖の姿になってしまったら、明日の祈祷に行けなくなってしまう。
「ご案内いたしますね。こちらへどうぞ」
冬樺が宿帳に記入をしている間に、番頭はどこかに行ってしまっていた。代わりに、ウサギ耳が生えた着物の女性が冬樺を部屋に案内してくれた。
お茶を出されて、館内の施設の案内と利用時間の説明を受ける。
「ご存知と思いますが、ここは幽世と現世の狭間に位置しております。正面玄関以外からお出になりますと、狭間で迷子になり彷徨うことになりますので、くれぐれも窓からの出入りはなさいませんよう、ご注意くださいませ」
内心で怖っと思いながら、冬樺は頷いた。
部屋での夕飯の時間を夜7時にお願いして、先に風呂に入ることにした。
旅館にある浴衣はなぜだか恥ずかしくて、持参してきたジャージとTシャツを持って部屋を出た。
大浴場のある1階に行くエレベーターの中で、人とほぼ同じ大きさの二足歩行をする猫と一緒になった。
廊下ですれ違ったのは、傘から生えた一本足で跳ねて進む唐傘。
大浴場には狸の集団、小鬼の集団、海外からの旅行者なのかフランケンシュタインや、見た事のない不思議な形の妖などがいた。
あまりにカオスな風呂場に、落ち着かない冬樺は長湯をせず、さっと出てきた。ロビーの一部に土産物屋があり、母への土産を買って帰ろうかと考えた。
明日は家に戻ってから、明後日に京都に向かうことになっている。
仕事について、母はあまり心配している風ではなかった。半妖の冬樺が一般の仕事に就くのは難しいと承知していて、でも何もしない方が不安だったのではないか。
働くことを報告した時、安心したような顔をしていた。
一度は辞めようかと思ったが、今は思っていない。まだ足手まといになってはいるだろうけど、かといってまったく無能ではないと、今は自負してもいる。
戦闘において夏樹は頼りになるが、知識はほとんどない。今はスマホを持つことになったが、きっと自分で調べるということはしないだろう。
なら補完するのは自分がやればいい。
今、事務所での居場所を見つけた冬樺にとって、仕事は楽しくてやりがいのあることになっていた。
土産物を一通り見て回り、部屋に戻って財布を取って来ようと、振り返った時、足元に現れたその妖に目を留めた。
「あ、やっぱり霧のあんちゃんや」
「カマ吉じゃないですか」
最近姿を見せないなと、夏樹が寂しがっていたが、まさか吉野で会うとは思ってなかった。
「なんか嗅いだことのある匂いやなと思って後追ってきてん。途中で見失ってしもうて、探してたんや。夏のあんちゃんもおるん?」
「いえ、彼は関東にいます」
「仕事?」
「そうです。カマ吉はどうしてここに?」
「里帰りしてるんや。母ちゃんが子ども産むから、きょうだいの世話しに」
「出産ですか。それはおめでとうございます」
「ありがとう」
「カマ吉は、ここに住んでいるんですか」
「住んでる家は別の場所やねん。父ちゃんがここで働いてて、出産後落ち着くまでここにいていいって
「縁貴さま?」
「ここの支配人」
「優しい方なんですね」
「うん。霧のあんちゃんは、なんで吉野に?」
「とある半妖の方が、結婚パーティをする日を晴れにして欲しいという依頼があって、
「3社全部回るん?」
「はい。ここの番頭さんがタクシーを用意してくださったらしいので、明日の移動は楽させてもらえます」
「人間のタクシーかな?」
「どういうことですか?」
「前に玄関で一瞬だけ見てん。牛が箱曳いてた」
「牛車ですか? まさか、いまどき牛車なんてありえませんよ。牛に曳かせていたら、歩くより時間がかかるでしょう」
「うん、そうやなあ」
「何かのイベントで使用したものを見たんでしょう」
「そうやったんかなあ。あ、弟出てきてしもたわ。ほんなら、霧のあんちゃん頑張ってなあ」
ぴょこぴょことカマ吉が進んだ先に、ひとまわり小さいカマイタチが廊下で戸惑っているのが見えた。カマ吉の姿を見てたっと駆け寄り、仲が良さそうに、廊下の角を曲がって行った。
冬樺は部屋に戻って金庫に入れていた財布を手に、土産物屋に戻ってきて、母へのお菓子を買い、部屋に戻ると食事の準備が始まっていた。
*
宿の料理は幽世の火を使っていない確認を取り、冬樺は安心して食事に口をつけた。
すぐに就寝し、朝食も食べ終えて、受付に行くと、番頭の煌輝が待っていた。
「お寛ぎいただけましたか」
「はい」
と答える。風呂は正直ゆっくりできなかったけれど、和室は安心できたし、二食とも部屋食だったのはありがたかった。
「タクシーはこの吉野から出ることはできませんが、吉野内でしたらどこでも行けますので、何でも言いつけてくださいませ。すでに玄関で待っていますので、ご案内いたします」
つれられて旅館の玄関に向かうと、
「‥‥‥牛」
待っていたのは、牛車だった。
昨夜カマ吉が言っていた通り、車輪のついた箱が牛に取り付けられて、車寄せに停まっていた。
まさかと思いながら、他の場所を見てみる。牛車以外の物は何も止まっていない。
煌輝を見ると、牛車の前で佇んで、冬樺を見ていた。
「いや、待ってください。これだと恐ろしく時間が――」
「ご心配にはお呼びません。彼女は安全運転ですので」
そりゃ安全運転でしょうよ。ゆっくりなんだから。いや、却って危ないか。牛がのろのろと道路を進んでいれば。今彼女って言ったか。雌の牛なのか。それはどうでもいい情報だ。
とパニックになっていると、
「
顔を出したのは平安衣装の女性だった。顔は白く、眉毛は本来の位置より高く、そして丸い。
呆気に取られていると、煌輝に背中を押された。
箱の後ろから乗り込むと、平安衣装の女性との間にも簾が掛かっていた。
「行ってらっしゃいませ。またのお越しをお待ちしております」
外から声が聞こえた。
「丹生川上神社への参拝かな。では参らむ」
牛が動き始めた。ゆっくりと、牛の速度で。
これでは祈祷の時間に間に合わないなと諦めた時、違和感を覚えた。前に進んだはずなのに、ふわっとした感覚。浮遊感というのだろうか。体にかかる重力がいつもと違うと感じた。
小窓がついていたので外の景色に目をやると、
「はあ?! 浮いてる?」
体を移動させて、窓にかじりつくようにして見る。
高い山がはるか下にあり、山と山の間に街がある。奈良盆地がよく見渡せた。
見たことがある風景だなと考えると、すぐに思い当たった。航空写真とよく似ていた。
「あなたは妖ですね」
「我は
「ああ。わかりました」
納得した。タクシーと言っていたから、当然人が運転する送迎車だと思い込んでいたけれど、わかりやすく現代語で煌輝は言っただけなのだろう。
朧車のタクシーだったのか。想像外の事態に、冬樺は思わずふふっと笑みをこぼした。
昨夜タクシーで3社を巡る移動時間を調べたところ、下社から中社までは約一時間、中社から上社までは約30分かかると出た。
移動して祈祷を受けて移動して。今日は時間もかかるし、疲れそうだと思っていた。空を飛んで移動するなら、相当早く着くはずだ。祈祷の予約時間より早く着くかもしれない。
「ほどなく丹生川上神社下社に至りき」
女性が言うと、降下するのが体に感じられた。
地面に着く時の衝撃に備えた方がいいかと身構えたが、何の衝撃もなく着地していた。
「ここに待てり。行きておはせよ」
ここで待っている。いってらっしゃいかなと脳内変換して、冬樺は車から降りた。
神社に向かいながら、振り返る。駐車場に止まっているあれは、どう見ても、牛車だった。趣はあるけれど、周囲からはどう見えているのだろうかと気になった。
祈祷を受け、お守りを買って駐車場に戻ってくると、牛車はそこに停まっていた。
現代に牛車がいる状況がおかしくて、つい笑ってしまう。
夏樹に話せば羨ましがるだろうなと、ふと考えた。
「帰らせおはしませ。では参らむ」
再び朧車タクシーは浮上し、次の神社に向かった。
いったん受け入れると、冬樺の中の常識を捻じ曲げてくる妖の世界は、以外に楽しいんじゃないかと、思う余裕が生まれていた。
途中で昼休憩を挟んで、3社すべてを回って祈祷を受け、止雨祈願を終えた。夕方になると思っていたが、まだ2時過ぎ。朧車タクシーのお陰で、早く終わった。
「これで終わりです。ありがとうございました。駅まで送ってもらってもいいですか?」
「
朧車タクシーは
平安衣装の女性に礼を告げると、
「健やかにいてたまへ」
と返ってきた。
彼女は顔が真っ白なので、表情がわからなかったけれど、帰り際は、口元が少し綻んでいるように見えた。
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