第39話 初めての交渉
冬樺が立っている場所は土間、今でいう台所だった。
教科書や社会科見学で見た覚えのある、土造りの
壁は薄い板で、隙間が見える。これでは冬は寒いだろうなと、自分の体が冷えたような気がした。
「こちらへ」
奥から若い女性の声が聞こえた。
板一枚で区切られた奥の部屋に、声の主はいるらしい。
そちらに向かうと、少しだけ上がった部屋に敷いた
頭を白い布で覆い、袖が短い着物を着ている。
掘っ建て小屋のような家に、粗末な服。
彼女は姥火の、若い頃の姿なのかもしれないと思えた。
きりりとした一重瞼、肌は健康的に焼けてはいるが、子どものような柔らかそうな頬。
現代人の冬樺では美人だとは思えないが、彼女が生きていた当時では美人といわれる顔立ちなのだろう。
「おかけなさいな」
「失礼します」
誘われるまま、冬樺は茣蓙に上がった。スニーカーを履いたままなのは気にかかったけど、どういう事態になるのか予想がつかなかった。いざというとき、靴下で移動なんてことになると困る。
どうぞと目の前に置かれた湯呑。湯気が上がっているところを見ると、沸かしたてなのだろうが、これを飲んでいけないと、冬樺の頭が赤信号を発する。
座敷童子の花子が渡した飴と同じだろう。
「こちらどうぞ」
と改めて、油と三笠を差し出す。
「ありがとう」
彼女は微笑んで、受け取った。
「いただいても?」
「もちろんです。どうぞ」
包みを開けて、どら焼きを取り出した彼女は、それをしげしげと見つめたあと、「いただきます」と一口噛んだ。
「あまーい」
口元をほころばせながら、一口一口大切そうに食べていく。
いつの時代の人なのかわからないけれど、住まいや身なりからして、贅沢ができる身分でないのは明らかだった。
「こんなに甘くて美味しいものは、初めて。幸せな気持ちになる食べ物ですね」
「お口に合ってよかったです」
「あなたも、おひとついかが? お持たせだけど」
「あいにく、僕は甘い物が苦手な体質なので、よかったら全部食べてください」
「残念な体質なのね。では、ありがたく頂戴するわね」
一度頭上に掲げてから、別の場所に置き換えた。
ここでも残念がられるのか、内心苦笑する。
「さて、話があるということだったかと」
「はい。来月の新月前夜から日中にかけて、この地から離れて欲しいんです」
「離れる? どうして?」
「新月の日に、どうしても晴れて欲しいという願う男性がいます。山女と人との半妖なのですが。雨の可能性を少しでも下げるために、雨の日に出没する妖に、丸一日出かけてもらいたいんです」
「晴れにしたいのね。別にかまわないわよ。それじゃ、旅にでも行こうかしら」
「必要経費は、山男さまが支払ってくださるそうです」
「そうなの? 人様のお金で旅なんて、なんて贅沢なのかしら」
「取り急ぎ、こちらをどうぞ」
冬樺は白い封筒を差し出す。
封筒には所長が用意した現金が入っている。後からの精算だと、ごねる妖がいるだろう。現金を渡せば、たいてい動く。と言っていた。山室には許可を得て、所長が立て替えている。
「準備のよろしいこと。では、ありがたく頂戴するわね」
この封筒も頭上に掲げて、懐に入れた。
「交渉成立ということで、よろしいですか」
「ええ。念のために、二日前の夜に移動するわね」
「お気遣いありがとうございます」
「どこに行こうかしら。温泉にゆっくり浸かりたいわね」
「妖専用の宿なら、人に気兼ねしなくていいので、おすすめです」
「そうね。探してみるわ。空きがあるといいけど。ねえ、あなたも一緒にどう?」
「僕は、当日も含めて仕事があるので、動けません」
「それは残念。お勤めご苦労様」
「では、そろそろ、戻りたいのですが」
腰を浮かせた冬樺の手を、伸びてきた白い手が取った。
「ねえ、あなたの気遣いに関心したの。結婚してくださらない?」
「それは、本当にご勘弁を」
「つれない方ね」
冬樺が断ると、彼女の顔が間近に迫り、ふっと息を吹きかけられた。
思わず目をつむり――
開けたときには、山に戻っていた。
姥火の姿は消えていて、青白い炎が現れる前の状態に戻っていた。
「おーい。冬樺」
所長の声が聞こえて、少し呆然としていた冬樺は、我に返った。振り返ると、明かりが揺れて、近づいてきていた。冬樺も懐中電灯のスイッチを入れる。
「いたいた。姥火は出たかい?」
「はい。たった今」
「本当かい?!」
足音が早くなり、心配顔の所長が姿を見せた。
駐車場まで移動して、所長のクラウンに乗り込む。
緊張はしていなかったはずなのに、少しほっとした。
「どうだった姥火? 怖くなかったかい?」
「大丈夫でした。それより、会えるのか、うまく交渉できるのか。そっちの方が気がかりで」
「冬樺らしい、真面目さだな。で、どうだった」
「了承してくれました、二日前に移動してくれるそうです」
「なかなか人の良い妖だったな」
「飲み物を出されましたけどね。花子さまの件がありましたから、飲みませんでした」
「知識に救われたな」
「はい。知らなかったら、口をつけていたかもしれません」
「これで、一人目完了だな。先はまだまだだが、一歩前進だな。だが、妖も人と同じで一癖も二癖もある奴らだから、十分気をつけるように。無理だと思ったら、諦めるんだ。命を賭けるほどのことじゃないからね。雨になっても、パーティはできるんだから」
「はい。わかっています」
所長からの注意を肝に銘じるように、冬樺はしっかりと頷いた。
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