第32話 動揺
「‥‥‥か。と‥‥‥か」
三人の姿が見えなくなったことで、冬樺は自身の心の奥深くに潜ってしまっていた。名前らしきものを呼ばれてはっとし、意識を浮上させる。
声が聞こえた背後を振り返ると、
「岩倉さん?」
そこには全身ぼろぼろの夏樹が立っていた。木に手をつき、よろよろと歩いてくる。
顔の半分は血に
はあはあと激しい呼吸を繰り返している。
「だ、大丈夫ですか」
どうみても満身創痍で、大丈夫には見えないのに。言葉が出てこなくて、ありきたりな声掛けをしてしまった。
救急セットは用意していない。車に戻ればあるのかもしれないが、こんな状態で下山できるのだろうか。
「肩‥‥‥貸して」
消え入りそうな声。
そうか。支えが必要なんだ。
夏樹らしくない光景に気が動転してしまい、助けを求められるまでその必要性に気が回らなかった。
「そちらに行きます」
ゆっくりと近づいていく。
壮絶な顔で、夏樹が手を伸ばしてくる。その手を取ろうとして――
「冬樺!!!」
大声で制され、冬樺は動きを止めた。手を伸ばしたまま、固まる。
目の前にいた夏樹が、一瞬で姿を消した。
幹に所長の弓が二本突き刺さる。
がさがさと草をかきわける音が素早く遠ざかっていった。
「冬樺。騙されんな」
夏樹は違う場所にいた。怪我ひとつしていない、元気そうな姿で。
「あの‥‥‥怪我は?」
「さっきのは
「川獺?」
「冬樺が言うたんやで。川獺は化かすことが得意って」
「そうですけど‥‥‥今のあなたが川獺でない証拠はあるんですか?」
「呆然としとったくせに、急に冬樺節ぶちこんでくんなや。オレがあんな無様なやられ方するわけないやろ。オレ強いんやで」
「一つ目入道も相当強そうでしたけど」
「体でかいだけ、全然大したことなかったわ」
「とどめをさしたのは俺だけどな」
所長の返答が、どこかから響いてきた。
「矢の効果が出るまで弱らせたんは、オレや」
夏樹が言い返す。
「そうだな。よくやった」
「そういうことや。一つ目入道は退治した。鳥も所長が退治した。あとは佐和さんの野寺坊だけ」
「そうでしたか。お疲れ様でした」
「信じてくれたん」
「はい。一応」
「一応って、疑い深いな。それをさっきも発揮してほしかったな」
苦笑しながらも、夏樹は冗談めかした口調で言う。
夏樹たちのことを考えていたタイミングを突かれて騙された。とは口が裂けても言えない。
こぼしてしまえば、喜んでからかってくるだろう。「実はオレらのことめっちゃ好きなんやん」とか「ツンデレか」とか、にこにこしながら言うに違いない。肩に腕を回しながらとか。
べとべとするのもされるのも苦手だから、つけ込まれないようにしないと。
「川獺の化け方が秀逸だったんですよ」
なぞに川獺を褒める返事になってしまった。
「そんなにそっくりやったん? オレ一瞬しか見てないねん。ちょっと見たかったかも」
「友だちになったらどうですか? カマイタチと仲良くなれたんですから、川獺だって似たようなようなものでしょう」
「できるかもしれへんな。おーい川獺、オレと仲良うせえへん?」
歩きながら呼びかける夏樹。
「ちょっと、呼びかけないでくださいよ。本当に来たらどうするんです」
「友だちになるんやったら、来てもらわなあかんやん」
「また誰かに化けたらどうするんですか」
「妖力と霊力は見たら違うんやから、騙されへんよ。おーい、川獺」
「区別できるんですか」
「できるよ。なんかこう、ゆらめき方が違うっていうか」
夏樹が手でゆらめき方を表現しながら説明しようとする。
「妖力はこんな風に尖がってて、霊力は波みたいで」
ぜんぜんわからない。
「マジでわからへんの?」
冬樺を見て、体をのけぞらせた。
その途端、夏樹の姿がまた冬樺の視線から消えた。
もしかして騙されていたのかと身構えたが、
「いたたた」
足を滑らせただけらしく、夏樹は尻もちをついていた。
「何やってるんですか」
やれやれと助け起こすために近寄ろうとしたところに、
「人間めえ!!!」
山姥が白髪を振り乱して襲ってきた。ふりかざした右手には、包丁が握られている。
「やっば」
夏樹が焦った声を出すが、立ち上がらない。足でもくじいたのだろうか。
山姥の見た目は老婆だが、足は俊敏だった。冬樺が三歩ほど先にいる夏樹を助け起こしたところで、すぐに追いつかれそうだ。
「そうだ。珠」
冬樺は右手に握りしめていた小さな珠を、山姥に向かって投げつけた。
「ぐえっ」
小さな珠が額に命中した直後、銀色の光がほとばしった。
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