【短編】恋をせずに結婚してしまったアラサー女の憂鬱

夏目くちびる

第1話

 大学生時代、酷い失恋を経験したカオリは恋愛に臆病となり、ついに30歳まで処女を貫いてしまった。



 しかし、無趣味と臆病のお陰か、やるべきこと以外に時間を割くこともなかったため、会社では若くしてそれなりの地位に立つことが出来ている。生活に余裕があるが、心はどこか寂しい。そんな人生を、彼女は半ば強制的に送っていた。



 そんなある日、仕事場の後輩であるサクラが退社。イマドキの若者であるサクラは大して会社でも社交的なワケではなく、おまけに送別会まで断る始末。



 まるで、何事もなかったかのように一人でデスクの荷物を纏めるサクラだったが、そんな彼を見兼ねたカオリは思わず声をかけていた。



「なぁ、サクラ」

「なんでしょうか、係長」

「今日、少し私に付き合わないか?」



 実は、サクラと仲のよかったカオリは何度か一緒に食事をしているのだった。きっと、どこか浮世離れした二人だから、何か感じるモノがあったのかもしれない。



「いいですよ」



 そんなワケで、二人は居酒屋へ。やがて、いつもよりも飲み過ぎてしまった二人は、いつもよりも深く切り込んだ話題に突入していき、ふとした時にサクラが呟いたのだった。



「係長って、なんかいつも飯奢ってくれますよね。なんでですか?」

「なんでって。まぁ、家に帰っても一人だからな。他の連中よりも気を使わなくて済むサクラを、思わず誘ってしまうんだよ」

「それって、ボクのこと好きってことですか?」



 ふと、黙ってしまうカオリ。店内の喧騒によって答えを考える時間を得ることが出来たにも関わらず、冷静になってみると彼を特別扱いしていることに気がついて、恋を恐れている自分が彼に惹かれていることに気がついてしまった。



「ひ、飛躍し過ぎだ」

「いいじゃないですか、最後の日なんですから」

「……まぁ、うん。好意はあるよ。キミを特別扱いしていたことも認める」

「じゃあ、結婚しません?」



 時間が止まる。カオリは、受け取った言葉の意味がよく分からなくて、目をパチクリさせてからサクラの顔を見ないまま聞き返した。



「……え?」

「ボク、恋愛が嫌いなんですよ。なんで、誰とも付き合うことはないだろうって思ってたんですけど。係長となら、なんか上手くやっていけると思って」

「い、いやいや。待ちなさい、サクラ。からかっているのなら、随分とタチの悪い冗談だよ」

「冗談なんかじゃありませんよ、係長。飲み会の誘いを断らないのなんて、係長だけですから」



 急に真剣な顔をして、尚も説明するサクラ。口説くワケではなく、あくまで説明なのが実に彼らしい。



「私は、結婚しなければ困るほど金が無いワケではないよ」

「そうですか、残念です」

「……でも、私にはそれ以外なにもないんだ。いいかもしれないな、キミなら」



 そんなワケで、二人は結婚することとなった。



 丁度、お代わりのハイボールを持ってきた店員が小さく「おめでとうございます」と呟いたのを聞いて、カオリは耳まで顔を赤くしていた。



 × × ×



 結婚してしまった。



 既に、同棲を始めてから一週間経っている。今日は引越し以来初めての休日だが、本当になんの趣味もない私だから、ただ早起きをしてリビングのソファに座り、まだ寝ているであろうサクラの部屋の扉をぼんやりと眺めることしか出来ない。



 私たちは、同じベッドで眠らない。帰ってくる時間もまちまちだから、夕飯を一緒に食べることも少ない。だから、結婚したって何か関係が変わったかと言われるとそんな実感はなく、少なくとも私は、これまで通りの生活を妙な安心感の中で送るのみとなっていた。



 不思議だ。



 こんなふうならば、なぜサクラは結婚したがったのだろう。別に子供が欲しいとか、そういうワケでもないのならしなくていいだろうに。



「おはようございます、カオリさん」

「お、おはよう」



 フリースのパジャマ姿で部屋から出てきたサクラは、朝の始まりに必ずシャワーを浴びる。目を覚ます、顔を洗う、ひげを剃る、頭をセットするの四つをこなすには、これが一番効率的だかららしい。



 浴びている最中に湯を沸かし、出てくると髪を乾かしながらインスタントのコーヒーを淹れて、テレビをつけてから今日は私服のジーパンと白シャツに着替えた。



 ところで、結婚したけどなにすればいいのだろうか。無趣味の私はなにかする気にもならず、健気に朝ごはんを作ってくれている彼の動向を観察するくらいしかすることがない。



 ひょっとして、なにをしてもいいのだろうか。言ってみれば、サクラは私の男になったワケだし。今までは怖くて出来なかったあんなことやこんなことも、今なら仕掛けてしまえるんじゃないだろうか。



「い、いやいや。そんなワケない」



 この世には、親しき仲にも礼儀ありという言葉がある。というか、サクラは恋愛嫌いであり、私ならば気を使わずに済むという理由で結婚したのだから、それっぽいことはむしろ嫌われる可能性すらある。



 ……あぁ、そうだよ。



 私は、男が怖いだけで恋愛に憧れてはいた。もっと言えば、必死に生きてきた自分を誰かに認めてもらいたかったのだ。



 だから、何も無く結婚というのは切ないと思う。でも、他に道がなかったことも分かっているから、何も文句などない。



 本当、勉強と仕事以外に何も知らない自分の脆さが憎たらしい。



「ごちそうさまでした」

「はい」



 特に恩を着せるようなマネもせず、サクラは私の皿と自分の皿を重ねると流し場へ持っていってさっさと洗い出した。家では割とだらし無い私と違い、サクラは仕事とプライベートにほとんど違いがないように思える。



 この隙の無さは、ハッキリ言って悲しい。性的な意味も含め、なんだか本当に私を女として見ていないような気がする。もちろん、家事を何でも押し付けられたら腹が立つんだろうけど、全部やってもらうというのもそれはそれで嫌な気分になるモノなのだと知った。



「そういうところがいいんじゃないですか」



 正直に打ち明けると、サクラは洗濯機のスイッチを押して言った。



「どういうこと?」

「当たり前だと思っている相手のために働くのは頭きますけどね。ちゃんと申し訳なく思ったり、感謝してくれたりする相手なら苦にならないです。ボクは、与えられて当然だと思ってるカス女が大嫌いなので」

「でも、結局は手伝えていないよ。私も何か役に立ちたい」

「カオリさんは……。まぁ、はい。じゃあ、自分の部屋の片付けをしてください」



 恥ずかしい。



 なんだか、お母さんに叱られているみたいだと思った。私には、昔から誰かのためにやることを探して、自分のことをすっかり忘れてしまうクセがある。



 このクセのせいで痛い目に遭い男嫌いになったのに、我ながら学ばない女だと思った。



「ふう」



 サクラは、家事を終えてからソファに座り登録しているサブスクサービスのドラマを見始めた。私は、紅茶の入ったカップを二つ持ってその隣に座る。いつもより近い距離に位置したが、彼は特に何も言わなかった。



 何も言わなかったから、私は少しだけ彼の肩にもたれ掛かってぼんやりとテレビ画面を眺めた。見たことのない海外ドラマだったし、途中だから話もサッパリだけど、こうしているだけでなんだか心が温かい。



 なるほど。



 サクラが私となら上手くやっていけると思った理由は、こういうことだったのかもしれない。



「違います」

「……え? 違うの?」



 サクラは、ドラマを一時停止して私の顔を見た。



「ボクがカオリさんと結婚したいと思った理由は、仕事を辞めてもあなたと一緒にいたかったからです。上手くやっていけると思った理由は、あなたになら何をされてもムカつかないと思ったからです」

「は、はひ?」

「勝手にボクを合理主義者に仕立て上げないでください。ボクは、あなたのことを世界で一番愛してますよ」



 なんだ?



 なんだなんだなんだなんだなんだ!?



 急にどうした、この人は。まるで意味が分からない。



 サクラは、仕事でも家でも徹底的なマイペースで、やるべきことから片付けているだけの合理主義者じゃなかったのか? 結婚だって、周囲の目の煩わしさから逃れるためにわざわざ歳上で経験のない私を選んで、手っ取り早く問題を解決しようと思っていたからではないのか?



「それは、カオリさんの妄想です。残念でしたね」



 急に、脳みそがパンクしたような感覚に陥る。血液が沸騰して、全身がボッと熱くなってくる。それなのに、もたれ掛かっているこの腕を離したくないと、私の本能が叫んでしまって。思わず、彼の腕を手繰り寄せるように胸に抱いてしまった。



「だ、だだだ、だって、会社でもずっとそうだったじゃないか」

「そりゃ、仕事中に能天気なことするワケないじゃないですか」

「恋愛嫌いなのに、女を好きになるだなんて矛盾しているだろう」

「しませんよ。大体、ぼっちに目をかけてくれる優しい上司なんてのは、どうしたって好きになってしまうモノです。ボクだって例外じゃありません」

「嘘だ。だって、私だぞ? 私なんて、ちっとも可愛げはないし、30だし、仕事以外に出来ることもない。それに、キミには強く当たった日だってあっただろう?」



 すると、サクラはため息をついて呆れたように呟く。



「それ、別にカオリさんを好きになる理由を否定する材料にちっともなってませんけどね」



 あうあうあう。



「なんか、勘違いしてると思うのでハッキリさせておきますけど。ボクは恋愛が嫌いなだけで、人を好きになることはあります。要するに、相手を思ってやきもきしたり、手に入れようとする過程の煩わしさが嫌なだけです」

「わ、私を思ってやきもきしてたの?」



 何を聞いているんだ、私は。



「そういう瞬間もありました。なので、気が付いたら好きになっていて、結婚を申し込んだら許してもらえた。これがボクとあなたのすべてです。ボクは、『手っ取り早い』だなんて失礼な理由であなたと一緒になりたかったワケじゃありません」



 そう言って、紅茶を飲むサクラのブレない姿が、彼が私とは違う理由で、言ってしまえばモテてしまうが故に恋愛嫌いになったことが分かった。



 謎の嫉妬心が湧いてくる。過ぎたことを気にするなんて、私のガラじゃないのに。



「ま、まったく。本当に困ったことを言う奴だな、キミは」

「しかし、嫌いだからといって感情を抑えつけるのなんて普通に無理ですよ。実際、男嫌いのカオリさんだってボクのこと好きになっちゃったじゃないですか」

「まぁ、そうだけど」

「そういうモノなんですよ。感情って、本当に厄介ですよね」



 しかし、冷静なサクラの口調とはまったく別。私の中には、少しばかりの閃きがあった。そして、思ってしまえば何故か急に顔が熱くなり、その熱が更に私の脳みそを空回りさせる。



「どうしたんですか?」



 だからだ。



 私が、こんな変なことを言ってしまったのは。



「い、イチャイチャはさせてくれないのかぁ!?」



 ……空気が死んだ。



 最後の「かぁ?」の部分なんて、記号で表せば『⤴』こんな感じの発音だ。おまけに声が裏返り、口から言葉とは別で心臓の音が漏れてるんじゃないかってくらいに舌が回らなかった。



「キミが、そ、そんなふうに素直に言うのならね! この際、私もぶっちゃけてしまおうと思うが! 私は凄くイチャイチャしたい! 甘えたいし、甘えられたいんだ! 外を手を繋いで歩いてみたいし、そのうちはこう、一緒に寝てみたいなぁ、だなんて。30にもなって未経験の私は思ってしまうんだよ!」



 あぁ、本当になに言ってんだろ。私。



「でも、それってサクラが嫌う恋愛なんじゃないかなって思ったら、ほら、こう。……な? ガッカリするだろ!? 好きな男を前に死ぬまでおあずけくらうというのは! みっともないというか、ハレンチというか。とにかく、こういう気持ちをなんと呼ぶのかは分からないけど! とにかく、私はサクラとイチャイチャしたいんだよ!」



 もう、全部言ってしまった。私の人生の中で、こんなに本当のことを言ったのは初めてだ。思い出したらきっと、死ぬほど恥ずかしくなって後悔するんだろうけど。



「ど、どうだ!? ダメか!? というか、引いたか!?」



 なんでだろう。



 存外、気持ちのいいモノだと思った。



「ふふ。いつもすまし顔で仕事してると思ったら、心の中ではそんなこと考えてたんですか?」

「い、いつもではないよ。たまーに……」

「怒ったフリをしないと本音を言えないなんて、本当に臆病で卑怯です。真剣な言葉は、冷静に言わないと損しますよ」

「で、でも……」

「そして、自分に自信のないコンプレックスを必死に隠そうとする姿は、心から愛おしいです。ボクは、そんなあなただから好きになりました」



 言葉が出てこない。



 そんな私を操るように、すべてを見透かして優しく笑うサクラは、小さく手を広げると胸の中へ誘った。その時、私は初めて、彼の体が私よりも遥かに大きいことを意識したような気がした。



「おいで」



 ……そうか。



 壁なんて、最初から無かった。



 全部、私が作っていたモノだったのだ。



「……うん」



 私は、物語のヒロインのように彼へ飛び込むことは出来なかった。



 まるで、プールサイドからまずは足を水につけ、転ばないように、沈まないように入水するように。ゆっくりと慎重にサクラの胸に触れてから、これが本当に許されていることなのかを確かめながら、この期に及んで、嫌われないように、嫌われないように、静かに体重を預ける。



「……っ」



 すると、彼はただ私を包んで、ゆっくりと抱き締めた。



 すべてを認めてくれるような温かさが、首と手のひらの僅かな素肌を通して伝わってくる。どうしてだろう。こうやって抱き締められていると、サクラが心から私を愛してくれているのが分かって、今までの不安や悩みだって、彼がいれば必ず乗り越えられると信じられてしまった。



 私が欲しかったモノは、こんな形をしていたのか。



「爺さんや婆さんになっても、手ぇ繋いで歩いてる人とかたまにいるじゃないですか」

「……うん」

たちも、あんな感じになれたらいいですね」

「えへへ、うん」



 こうして、私の恋は結婚から始まった。



 恋のゴールが結婚ならば、果たして私たちのゴールはなんなのだろう。そんなことを考えて、いつか私が抱き締めてあげられる日まで、私がサクラの胸で思いっ切り甘えようと思った。

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