第3話
二月に入った頃には記憶がぐっと下がり、冬が最後の力を振り絞るかのように雪が降る日が続いた。空から舞い落ちてくる白い真綿のようなそれが、一週間、二週間、と続き、冬の帳村は今年も雪に閉ざされた。全てが白く染まったその世界で、村の人たちは「今年の雪の妖精は元気だな」などと笑いながら話していた。雪の妖精なんていない。皆、雪忘花のせいで記憶を失っていただけ。あの日、この村の夜空へと伸びた直線上の大きなひかりはその事実を村一帯に広めるきっかけの一つになったはずだが、この村の人たちは決してそれを口にしない。知らないのか、知ったうえで知らないふりをしているのか、それは分からない。まあどちらにしても、この村の人たちにとってのその真実は決して受け入れられるものではないし、他人である私には関係のないことだ。自分の人生は、自分の為にある。信仰も同じだ。信じたいものを、各々が信じればいい。生きたいように生きればいい。その道が途切れるまでは、その人の人生はその人のものだ。
「お母さん、寒くない?」
車椅子を押しながら、私は目の前に座る母に呼びかけた。鼠色の薄暗い空がずっと続いていたが、顔を上げれば澄み切った青い空が広がっている。二週間ぶりに晴れたのだ。久しぶりに気持ちのいい天気だからと、私は家の庭先に母を連れ出していた。施設に警察の捜査の手が伸びてから程なくして、お母さんが入所していたあの精神病棟も幾つもの事件に関与しているとして、閉鎖された。入所していたほとんどの患者は隣町の病院へと移送されたが、母の事は父が引き取ると決めた。私達が今いるのは新しい家だった。村にはもう人が住んでいない空き家が幾つもある為に、父が貯金をはたいてそれを購入していた。私達の、家族の、家だ。
「ねぇ、お母さん」
母は、ぼんやりと空を見上げていた。私は車椅子に添えていた手にぐっと力を込めた。
「私、いくよ」
息を吐くと白い靄が青を染めていく。百合亜さんの元を訪ねてから約二ヶ月が過ぎ、私は決意を固めた。村から出る。沙羅と一緒に広い世界をみてみたい。それを、百合亜さんや湊、両親にも伝えていた。本当はすぐにでも行動に移したかったけれど、三島に撃たれた沙羅の傷は背中から入り込んだ銃弾が鎖骨の少し下の辺りから抜けており、療養が必要だった。そんな沙羅が昨日退院し、私達はいよいよ村を出ることを決めた。本当はその前に沙羅の両親にも会わせてあげたかったが、以前湊が職員室で盗んだ情報を元に沙羅の両親が住んでいた家を訪れてみたが既に空き家になっていた。隣に住んでいる人によると、家を離れたのはもう十年も前のことらしい。
──大丈夫。私は、悲しんでなんかないよ。二人が選択して歩み始めた人生だし、今更私がのこのこ出ていったらその生活を壊しかねないでしょ? 私には、新奈がいる。それでいい。それだけで、十分なの。
やっと沙羅もご両親に会えると思っていたのに、と心配する私に、沙羅は口元の両端を持ち上げながらそう言った。悲しくないはずがない。けれど、沙羅がそうやって前に進もうとしているのだ。隣にいる私が泣いてどうすると、目の奥に力を込めながら一度頷き、それから沙羅の手を握った。
母はまだぼんやりと空をみつめている。私の決意を聞いても何も言わなかった。言葉を話すことは、まだ出来ないのだ。
「お母さん、今までにも何度も伝えてきたけど、私今日行くことに決めたよ。村から出ていく」
周り込んで目を見て言った。それから膝の上に置かれていた母の手のひらの上に自分のそれを重ねた。
「行ってくるね。お母さんと離れる事になるのは寂しいけど」とそこまで口にした時、空へと向けられていた母の視線がゆっくりと降りてきた。穏やかな色を纏うその瞳が私に向けられる。そして、持ち上げられた手のひらが私の頬に添えられた。
「行っても、いいの?」
言葉を交わさずとも、その想いは伝わった。
「私のこと、送り出してくれるの?」
母が小さく頷いたその瞬間、涙が溢れた。濁流のように溢れかえったその感情を目の淵から流していた時、抱きしめられた。背中に回された手が柔らかくて、温かくて、より涙が溢れてきた。
「お母さんっ、お母さん」
私は嗚咽を漏らしていたけれど、向かい合った身体が小刻みに震えていたことから母も泣いているのだと気付いた。愛を、感じた。私はその瞬間、確かに母親という素晴らしき存在から向けられた愛を感じた。涙で滲んだ先にみえた空が、言葉に表せないほどにひかり輝いてみえた。
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