第2話
一週間後、私は一人で村に戻ってきた。生まれ育った冬の帳村。意識を失っている時も入れたら二週間程離れていたことになる。雪原の上に木造の家がぽつぽつと立ち並び、この村を取り囲むようにして山が広がっている。生まれた時からずっと変わらない見慣れた景色だ。けれど、以前のような静けさはもう無かった。制服姿の警察官や、スーツを着ている男性、女性。それに山の中へと入っていく人たちは等しく真っ白なレインコートのようなもので全身を覆われた服を着ている。村に来るまでに何人ものそんな人達をみかけた。
民家沿いを抜け、雪原を歩き続け、村の離れにある大きな建物へと辿り着いた。扉を開けてから受付にいた女性に病室を訪ねた。階段を登りながら病院特有のねっとりとした空気を足に感じ、扉を開ける前に一度深呼吸をした。せっかくのおめでたい日にこんな沈んだ顔を百合亜さんには見せられない。そう思ったのだ。
「あら、新奈ちゃん。来てくれたのね」
扉を開いた私の顔を見るなり、ベッドで横になっていた百合亜さんはふっと頬を緩めた。陽だまりのような温かい笑みだった。
「少し前に眠ったところなのよ」
向けられた眼差しは、胸元で安らかな顔をしながら寝息を立てている赤ちゃんに向けられた。百合亜さんの子供が産まれたという事は、三日前に湊から聞いていた。けれど、出産という世界一尊い努めを果たしたばかりで、すぐに顔を出すのはよくないだろうという判断をして今日に至った。
「ほら、新奈ちゃんも座って」
促されるままにベッド脇にある椅子に腰をおろした。
「赤ちゃん、可愛いです。百合亜さんに似てる」
「そうね。世界で一番の宝物を、あの人から受け取ったわ」
緩やかに笑みを浮かべてから、気持ちの良さそう寝息を立てている赤ちゃんの頬に触れた。その向けられた眼差しは、愛に溢れる母親のそれだった。何だか私にまでそれが向けられているような気がして穏やかな気持ちになった。
「何かあった?」
百合亜さんがふいに顔をあげてから、問い掛けてくる。
「えっ?」
「新奈ちゃんのその顔。初めて会った時と同じ顔してる」
「そうですか?」
「湊くんから大体の事は聞いた。大変だったわね。私には想像も出来ないような辛い思いも沢山したんでしょう。でも、あなたが今悩んでいるのはそれじゃないんじゃないの?」
綺麗な瞳の中に映る私が、揺れているようにみえた。
「なんで、分かるんですか?」
「あなたのことが好きだから」
間髪入れずにそう答えられた。
「それは理由になってないです。どうして私が悩んでるって分かるんですか?」
「だから言ってるじゃない。あなたのことが好きだから」
「ちが」
「あなたのお母さんには負けるかもしれないけど、ほとんど同じくらいにあなたのことを想ってるからよ。娘みたいにね。だから、話してみて」
穏やかな、ひかりの中にいるみたいだった。私はこの人から出る空気感も、その言葉も温もりも、全てが好きだ。改めてそう思った。いつの間にか私は泣いていて、それから時折言葉を詰まらせながらもこの二週間で生まれた心の靄を百合亜さんに話した。
「馬鹿ね」
聞き終えた後、百合亜さんはただ一言そう口にした。私はあまりにも思いがけない言葉に、え、と声にもならないようなものを口から溢すので精一杯だった。
「あなたの選ぶ選択を、親であるあなたのお母さんが根っこから否定すると思う? いつだって子供が一番なの。私なんて親になったばかりのひよっこだけどね、それだけは分かるわ」
はっきりと、私の瞳の中心を捉えながら百合亜さんは言った。あの日、別の次元へと通じる扉が閉じたあと、お母さんが歌を歌うことは無くなり、僅かだが意思の疎通も行えるようになっていると湊やお父さんからは聞かされていたが、今日久しぶりに村にきて私は真っ先にお母さんの元へと向かい実際に会ったことで確信した。お母さんは少しずつ、少しずつだが心を取り戻しつつある。向こうの世界の私は十八年もの間、お母さんは一人で戦っていたと言っていた。きっと、そうなのだろう。扉が閉まったことで、その扉の一つを持っていたお母さんの肉体と心にもいい影響が出ているのかもしれない。私はそれが心から嬉しかった。泣き崩れてしまう程に嬉しかった。もっと触れたい。もっと話したい。これまで過ごすことの出来なかった親子の時間を、もっと、もっと。そう思った。
けれど、私は世界の広さを知りたいとも思っていた。生まれてからずっとこの村からほとんど出たことがない私は、世界の何も知らない。あのひかりを通してみたもの、景色。別の次元で生きる私の目を通してみたものだって、あれは広い世界の一部に過ぎない。けれど、あの瞬間ですら私の心は大きく揺れ動いたのだ。この広い世界を、もっと知りたい。もっと触れたい。この村じゃないどこかの世界を沙羅と一緒に見てみたい。私はあれ以来その想いが日に日に強くなっていた。だが、その選択を選ぶという事は、お母さんとは一緒に住めなくなる。二つを天秤にかけた時、私は選ぶことが出来なかった。いや、天秤にかけることすら罪な気がした。消化することの出来ないその想いを、自分ではどうすることも出来なかったのだ。
「新奈ちゃん、親が子に想う一番の願いって何だと思う?」
枕に頭を預けながら、百合亜さんが優しげな笑みを浮かべた。
「……分かりません」
俯きながらそう呟くと、頬に手が触れた。それから「そう。じゃあ、教えてあげる」と胸の中に声が降ってくる。
「愛する我が子が幸せになってくれる事なの。それがどんな選択であろうと、自分がどうなろうと、どんな感情を抱こうと、そんなものはね全部二の次なの。子供が進みたい道に、少しでも多くの幸せを感じられる道に、進んで欲しいのよ。その背中を自分の手で押してあげたいのよ」
なんで、この人の言葉はこんなにも私の心に染みてくるのだろう。目の中は涙でいっぱいで、耐えきれなくなったそれらは、ぽろぽろと溢れおちていった。
「もう、答えは出てるんでしょ? あなたはどうしたいの?」
百合亜さんの言う通りだった。自分の中でもう答えは出ている。二つを天秤にかけた時、大きく傾いたその答えから私は目を逸らしていた。だけど、と手のひらで頬を拭い、それから顔をあげた。
「わた、しは、私は沙羅と広い世界をみてみたい!」
涙ながらに抑え込んでいた感情を口にすると、目の前で眩い笑顔が咲いた。
「じゃあそれを、あなたの本当のお母さんに伝えてあげて? きっと、背中を押してくれるから」
私は嗚咽を漏らしながら、何度も頷いた。百合亜さんはそんな私の頭をずっと撫でてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます