第七章 それぞれの行く先
第1話
薄く開いた瞼の隙間から、ひかりがみえた。ゆっくりと開けるとまずは白い天井がみえ、それから持ち上げた右手がみえた。細く、白い。私の腕。
「新奈っ、やっと起きてくれた」
声のする方に目をやると、そこには沙羅がいた。白いベッドに身体を預けたまま目を潤ませながら私をみている。どうやら私もその隣にあるベッドで眠りにおちていたようだった。ここがどこになのか、何故私は眠りについていたのか、それは分からない。けれど沙羅が今こうして目の前にいてくれる事実が、一瞬にして私の頬を濡らした。
「良かっ、た、沙羅無事だったんだね。ほんとに良かった」
「うん。おかえり、新奈」
目に涙を浮かべながら微笑みあった。それから沙羅が話してくれた。あの日、穴から放れた眩いひかりは辺りを照らしながら直線上に空へと伸びたあと吸い込まれるように消えていき、最後は穴自体も消え、それと同時に村一帯に群生していた雪忘花は一つ残らず塵になったそうだ。ひかりが消えた頃には私は意識を失い雪原の上に倒れていたらしく、それから一週間も眠り続けていたのだと聞いた。そして、沙羅や父の身体に残されていた銃創をきっかけに、二人の証言から施設内にいた子供達は全員隣町にある警察署で保護されたこと。安全を確保する為に私達が今いる場所も、隣町にある病院だということを教えてくれた。沙羅自身も二日程は意識を失っており、それら全ては湊から聞かされたようだった。
「皆、新奈が目を覚ますのをずっと待ってたよ」
沙羅の言う、皆と指す言葉の意味が分かってから私は涙が止まらなかった。窓から差し込む陽の光で溺れそうになるくらいにひかりで満ちた私達の病室には、私が意識を戻したと知って文字通り皆が訪ねてくれた。点滴スタンドに手を添えながらまず父が入ってきて、それから湊へと続いた。皆が無事だった事が、生きていてくれた事があまりにも嬉しくて感極まっていた私だったが、後から病室に足を踏み入れた女性の顔をみて私は決壊した。
「新奈、遅くなって本当にごめんね。約束、守れなかったけど、ちゃんと迎えに来たよ」
枝毛一つない綺麗な髪が胸元まで流れた可憐な女性。それは、凛花さんだった。私の泣き顔をみて、凛花さんもつられたようで一瞬にして顔を崩した。大粒の涙をぼろぼろと溢しながら「こんな目にあわせて、ごめん。ごめん」とベッドで横になっていた私の胸に顔を埋めながら何度も呟いた。私はその度に首を横に振り、溢れおちてくる涙を拭った。違う。違う。私は、これっぽっちも凛花さんを責めていない。約束の日に迎えに来てくれなかった事は確かに悲しかったけれど、それよりも、それよりも、生きていてくれた事が何よりも嬉しかった。
「りん、かさん。生きて、る」
嗚咽を漏らしながらも、なんとか絞り出した。だけど、声は上ずっていた。
「ちゃんと生きて、る」
「うん」
「私、あの日からずっと凛花さんが逃げ切れたか、分かんなくて、それで心配で」
「うん。新奈、心配かけてごめんね。新奈も生きていてくれてありがとう」
凛花さんの放ったその言葉に、声を上げて泣いた。まるで生まれたての赤子のように、人目もはばからず、私は泣き続けた。どれくらいの間そうしていたのか分からない。いつしか私と凛花さんのすすり泣く声に混じって、その病室にいた皆が目を拭い、鼻を啜っていた。しばらくして、凛花さんが湿り気を帯びたその空気の中に声を放った。
「新奈。どうして私があの施設から逃げたのか全部話すよ。もう、他の皆には話したから」
私は何気なく隣のベッドにいる沙羅をみると、沙羅は小さく頷いた。それから凛花さんは全てを話してくれた。全てを知るきっかけになったのは、あの施設で働いていた一人の男性職員だったのだという。恰幅のいい、目の優しい男性だった。私は名前を聞いただけでは分からなかったが、その男性の特徴を聴いている内に、思い浮かべることが出来た。
──彼にはこの施設を辞めてもらったんです。もう二度と私達の前に姿を見せることはないでしょう。その節は不快な気持ちにさせてしまい申し訳ありません
いつだったか礼拝堂に来ていた女性に向けて、三島がそう言っていた男性だ。
「あの人は、きっと私のことを好きになってくれたのだと思う」
その男性職員は他の職員や大人達と言葉を交わすことは少なかったが、子供達──特に凛花さんのことはよく気にかけていた。凛花さん自身も施設の中で同年代の子供達とはうまく馴染むことが出来ず、私と沙羅といる時以外は一人で過ごす事も少なくなかった。そんな凛花さんを笑顔にしてくれていたのは、その男性職員だった。
だが、それから時が経ちいよいよ十九歳の誕生日を半年後に控えたある日、廊下を歩い ていた凛花さんを突然呼び止めたのだった。
「誕生日を迎えるまでに、この施設から逃げ出すんだ」
凛花さんはその男性が言っている意味が当然理解出来ず、むしろそんな訳の分からないことを口にする男性自体に恐怖を感じたのだという。だが、連日のように同じことを言われ続けた後に、まだ日が登っていない早朝の時間に「この場所から逃げなければならない理由を教える」と連れて行かれたのは礼拝堂の地下にある血液の栽培場だった。何かの液体で満たされたカプセルの中には見覚えのある子供達がいて、その身体からは細長いチューブが無数に繋がれていた。
「一週間後、僕は君を連れ出す。それまでにここから逃げ出す準備を終えるから」
男性は身体の震えを抑えることが出来なくなっていた凛花さんのそれを包みながら言った。だが、その三日後、朝礼の時間に集会が開かれ、三島が言った。
「武藤くんは本人からの希望もあり、辞めて頂くことになりました。寂しいですが皆で武藤くんの門出を祝いましょう」
凛花さんは悔しげな面持ちで続けた。
「あれはすぐに嘘だと分かった。あの施設の真実を知った私は、三島の言うことなんて信じられなかったし、あれだけ気にかけてくれていた彼が今更私のことを置いていくのだとも思えなかった。それに」と凛花さんは手のひらで頬を伝う涙を乱雑に拭った。
──いいかい? この事は誰にも言ったら駄目だよ。知れば、まだ危害が加えられる時期でもない他の子供達まで巻き込んでしまうかもしれない。この施設は、本当に狂ってるんだ。神に憧れ、自らを神の使いだとすら思ってる人間がこの施設を動かしてる。その上の人間達も同じようなものだ。もしかしたら僕だって、バレたらどんな目に合うか分からない。だから……もしも僕の身に何か起きた時は君一人で逃げるんだ。いいね?
彼の言葉は奇しくも現実となり、凛花さんは一人で逃げる決意を固めた。幸いにも、それまでに逃げ出す手順は聞かされていた。施設の周りを取り囲んでいる金属製の柵に食塩を揉み込み、トイレ用の洗浄液をかけることで化学反応を起こしその金属を腐食させる。だが、一日や二日でその効力は得られない。だから凛花さんは一ヶ月、毎日、その作業を繰り返した。結果、金属は黒ずみ、腐食した。だが凛花さんはその労力を費やして作った施設からの出口を使うことは無かった。
「どうして、あれを使わなかったんですか?」
疑問に思った私は問い掛けずにいられなかった。そんな私の手を取って、凛花さんは沙羅と私に交互に視線を配らせた。それから「あんた達がまだ施設に残されてたから」と言った。
「あんた達は私にとっては本当の妹みたいな存在だった。だから決行する前日まで連れて行くかどうか迷ったよ。でもね、あの施設の悪魔の所業をみてしまった以上二人をそんな危険な目には合わせられないと思った。幸い二人にはまだ二年の猶予があったし、捕まればどんな目に合わせられるか分からない。だから、あの出口は私の愛する二人のいざという時の為に、私自身は一か八かで柵を登って逃げてやろうって考えた」
ふっと、沙羅をみると枕に頭をのせながら涙を流していた。私も、もう随分前から泣いていた。私達は凛花さんに愛されていた。そんな事は分かっていたけれど、それが身に沁みて分かったのだ。
──新奈ごめんね。本当にごめん。今はもう、この選択肢しか思いつかなかったの。私は自分と沙羅と新奈、三人全員が助かる道を選ぶにはこうするしかなかった。
あの日、施設から出ていく前に凛花さんが私に言った言葉の意味が今になってようやく分かった。
「一年だった」
凛花さんが窓の向こうに広がる、澄んだ空をみながら言った。触れてしまっただけで割れてしまいそうな程に綺麗な青空が広がっている。
「施設から逃げ出してから、いろんな街で暮らした。家もなければ、お金もない。何もない私は、広い世界に出た時に更にちっぽけな存在だと感じた。でも、そんな私に沢山の人達が優しくしてくれた。家を与え、食べ物を与え、それだけ与えても私に見返りを求めることもなくて、無償の愛っていうのかな。それを沢山貰った。でも、そんな日々を過ごしている時もいつも頭の中にはあんた達がいて。あの施設を絶対に潰してやるっていつも考えてた」
「凛花さん、そこから先は僕が」
ずっと黙って聞いていた父が唐突に口を開いた。凛花さんは「お願いします」とふっと頬を緩めながら頭を下げた。
「凛花さんはひとり単独でいろんなつてを使いながらあの施設を探っている内に、一つの巨大製薬会社がバックにいる事に気付いた。それだけの大きな力を相手にするには一人では無理だ。そう考えた先で一人のジャーナリストを頼った。彼は、これまでに幾つもの賞を受賞している凄腕のジャーナリストで、近藤という名の男だ。彼の経歴を知ってか知らずか、偶然にも近藤さんの元にはあの施設の創設者である篠原喜一の研究日誌が数カ月程前に遺族により届けられていてな、独自であの施設を調べていた。そこから派生してあの花にも辿りついていたんだ。雪が降る日にだけ花を咲かせる雪忘花。俺がその花の研究をしているという事を人づてにでも聞いたのだろう。その点はさすがジャーナリストだった。ある日、突然電話がかかってきたんだ。そこから先はお前達にも話しただろう」
父はぐるりと私達を見回す。確かにそんなことを言っていた。電話がかかってきて、近藤さんが同席の元に女性と会った。それが凛花さんだったという事だろう。
「俺たちは三人で協力しながらありとあらゆる情報、証拠を集めた。警察は最初相手にすらしてくれなかったからな。何しろバックには巨大製薬会社がついてる。何かの力でも働いたんだろう。警察の力を頼ることが出来ないならと、俺たちは自らの手でこの件を終わらせることを決めた。ようやく準備が整ったタイミングでこの村に戻ってきたんだ。だけど、まさかこんな事になるとは思いもしなかった。あの民家から外へと飛び出して三島に銃で撃たれた時は死を覚悟したよ。凛花さんがいなければ俺は今頃」とうっすらと笑みを浮かべながらお父さんが言った。
「凛花さんが助けてくれたの?」
「うん。私はその時車を回してたから新奈のお父さんから電話を貰って急いで向かった。そしたら湊の額に銃口を押し付けようとしてたから車で轢いてやったの。これまでの私の恨みも、私以外の子供達の恨みも、それで晴れる訳ないんだけどね、思いっきりアクセル踏み込んでやった」
「そう、なんだ」
言いながら、私は三島の最後の姿を思い出していた。指先から順に塵のように砕け散り、穴へと吸い込まれていった。あまりにもあっけない姿だった。勿論同情する気はないが、いい気分にもなれない。神の使いだと自らを公言していた最後の姿があんな最後だなんてあんまりだ。
「とにかく」と一瞬静寂が満ちていた部屋の中にお父さんが声を放った。
「穴も雪忘花もこの世から消え去った。もう、全て終わった。終わったんだよ」
父が頬を緩め、写し鏡のように部屋の中にいる全員が笑みを浮かべていった。けれど、私は笑えなかった。全て、終わった。いろんな事がありすぎて、全てを呑み込んだうえでそう思うにはまだ時間が掛かりそうだった。
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