第2話
村の言い伝えによると、あの穴が突如として森の奥深くに現れたのは今から百二十年程前だという。それと共に雪が降る日には不思議な事が起きるという噂は一瞬にして広まった。ちいさな村だ。その噂が広まる速度はウイルスよりも早かったのだという。そして祖父母がこの村に暮らし、自身はとある製薬会社を経営していた篠原貴一という人物の元へとこの話が伝わった。
──雪の妖精が現れるようになった。
──全てを呑み込む穴が生まれた。
人によっては笑い飛ばしてしまうようなそれらの話は、篠原にとっては大変興味深いものだった。それ以前から神という存在を崇め、スピリチュアル系の話には目がなかった篠原は、実際に村へと足を運び穴を目にする。そして、周りに咲き乱れる水色の花弁を持つある花に心を奪われてしまった。雪が降る日にだけ花を咲かせるという特性を持つそんな花は見たことも聞いたことがない。この花は、特別だ。何かある。自らの信仰とは別に、研究者としての血が篠原を駆り立てた。けれど、村の人間達が水縹草と呼ぶその花は村から持ち出そうとすると、次第に枯れていき、やがては灰になってしまった。
篠原は冬の帳村に研究施設を持つことにした。修道院として使われていた空き家が村の中心から少し離れた場所にあり、資産を投じて改築し拠点を設けた。研究を始めてからすぐに分かった。この花は、何かおかしい。DNAの構造から配列まで、この世界にあるどの花とも違う。研究者としての熱意が再び燃え上がった瞬間だったそうだ。そして、知った。水縹草が空気中に飛散させる花粉には人間の記憶を司る海馬の神経活動をレム睡眠中に飛躍的に活性化させるということを。水縹草は一度に飛散させる花粉の量もさることながら、その効力も強かった。雪に付着させることで受粉させるその花の花粉は、空気中を漂い、人間の呼吸器を通り脳に影響を及ぼす。
人は一生の内で覚えておきたい記憶というものは、どれくらいあるだろうか。勿論、脳は時間の経過と睡眠という一種のデータの処理を行うことにより、精神の均衡を保っている。そうでなければ膨大なデータを処理することが出来ずに脳はパンクしてしまうのだ。だが、心に強烈な印象をもたらすような記憶はどれだけのデータの処理が行われても消えることはない。傷というかたちで心に残された記憶が並大抵のことじゃ消えない。だが、もしそんな記憶を一瞬にして消すことが可能なら。篠原はそう考えた。
水縹草の成分を結晶化し、薬剤にする事には数年で成功した。だが、市場に流す為にはその解毒薬がいる。もし誤って投与し、記憶を消す必要がない誰かのそれを消してしまったら。そのリスクを考える必要があった。けれど、そこで研究は行き詰まってしまった。水縹草の構造は他の花とのどれとも違う。海馬にある神経活動を活性化させることが分かっても、その理由がわからなかった。だが、十年という歳月が流れた時、村の中でおかしな発言をしている子をみかけた。ママが僕のことを忘れちゃう。皆、僕のことを覚えてないんだ。雪が降る中、顔を赤く染めながら、その男の子は泣きながら歩いていた。篠原はなにか予感めいたものを感じ、ママに君のことを思い出させてあげるよ、と研究施設へと連れて帰った。血液検査をした結果、篠原は目を見開いた。その子の身体の中に流れる血液には、水縹草に対する抗体反応があったのだ。つまり、この子は雪が降っても記憶を無くさない、と篠原はその事実に驚きを隠せなかった。
その男の子のから抽出した血清中には確かに抗体があり、これは免疫血清と成り得るかもしれない。すなわち、水縹草による記憶の消滅に抗体を持たない人々にそれを注射すれば免疫血清が代わりに肉体で作用し、記憶を無くさずに済む。そう考えたが、またしても壁が立ちはだかった。それを無限に培養することは叶わなかったのだ。男の子から得られた血清中の抗体反応は、ある一定期間を過ぎるとまるで木々に生い茂っていた葉が一瞬にして枯れ落ちてしまうかのように、自然消滅してしまったのだ。だが、ホストであるその男の子の身体から再び抜き出した血液には確かに抗体反応がまだ存在していた。こんな事はあり得ない。何か、何か人知を超えた特別な力が働いているのかもしれない。篠原は頭を抱えた。
だが、その事実が分かったのとほとんど同じ時期に、この村で生まれてきた子供達の中には優劣はあるが抗体反応を持つ子供が複数いることが分かった。篠原の精神は壊れかけていた。資産のほとんどを研究に投じ、会社の舵は代理の人間に任せていた為に経営は傾きかけていた。こんな所で終わる訳にはいかない。何としても研究を成功させるんだ。もっと。もっと、もっと新鮮な血液がいる。
その思想の元に誕生したのが、妖精たちの庭だった。以前から雪が降る日に生まれ、親からは生んだことすら忘れられてしまい行き場を無くした子ども達がこの村にはいた。その子ども達を集めればいい。あの男の子以来、血液中に抗体反応がある子どもは弱いが何人か見つけていた。一固体としての抗体反応が弱く仮に水縹草の影響を受けていたとしても、抗体遺伝子内のDNAの塩基配列を組み換えてやれば、強い抗体反応を持つものを作り出すことが出来る。彼らの血液さえあれば、水縹草を用いた薬は世に出せる。篠原は、そう考えた。
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