第六章 雪に、沈む。

第1話

 瞼をうっすらと開けると、ぐしゃりと顔を歪ませている沙羅の顔がみえた。その更に奥には傷んだ木材と天井がみえる。意識がまだはっきりとしなかった。霧のようなものを通して世界をみているかのようで頭がぼんやりとする。


 状況を呑み込もうとしていると、身体を揺すられた。「新奈っ、新奈っ良かっ……た」私の胸に顔を埋めながら、沙羅が嗚咽を漏らしている。続けて、湊や父の声が鼓膜に触れて、そうか私はこちらの世界に戻ってきたのか、と理解した。夢をみていた。一瞬だけそう思いかけて、いやと思い直す。あれは夢じゃない。現実だ。私ではない私の、人生をみていたのだ。ついさっきまで私がみていたものはきっと彼女の目を通したもので、触れたもの、感じたことも彼女というフィルターを通して私の身体や心が認識したものだろう。全てが、リアルだった。今みているものと、ついさっきまでみていたものに差異はない。きっと、そうだ。考えれば考える程にそうとしか思えなかった。私は、別の世界にいた。


 大丈夫か、と声をかけながら父が私の身体を起こしてくれる。視界が広がっていく。傷んだ木材。古びた壁。それに床。沙羅も、湊も、涙を流している。父はそれを寸前でせき止めているようだった。頭を抑えていた私は痙攣を起こしながら倒れ、一度呼吸も脈拍も止まったのだと、父が目に涙を浮かべながら話してくれた。


「新奈っ、もう二度と一人にしないで。私、もう新奈が戻ってこないかと思った」


 沙羅が私の胸に飛び込んできて、私は「ごめんね。心配かけたね」と頭を撫でた。指先で涙で張り付いた髪を避け、沙羅の頬に手を添える。それから唇を重ねた。


「私も、会いたかった」


 ゆっくりと引き剥がしながら瞳をみつめ、そう呟くと、沙羅の両目の淵から涙が溢れた。肩に手を添えて目を見たまま言った。


「沙羅、話があるの」


 次いで湊、それから父へと視線を滑らせる。


「湊にも、それからお父さんにもね。今から私がみたものを全て話す」


 私は順を追って事細かに伝えた。今までに何度もみてきた白い部屋や螺旋階段、それから白衣を着た女性や鏡に映る私。そして、世界はもう一つあること。私がこれまでみてきたものは幻覚でも妄想でもなく、別の世界で生きる私がみていたものだったということ。雪忘花のことや巨大製薬会社、別の世界で生きる私は今この瞬間も私達のことを救おうとしてくれていること。全てを話し終えるまでにどれだけの時間が経ったのだろう。窓の向こうはずっと薄暗くて時間の経過を推し量ることが出来なかった。はらはらと舞い落ちてきた雪の勢いが少しだけ増している気がした。静かだった。全員の息遣いが聴こえる程に。この部屋にいる私以外の全員が、今聞いた話を必死に理解してくれようとしているのだと思う。


「……俺が、もう一人」


 静寂を破ったのは湊だった。だが、目は虚ろで、目線を下に向けてはいるが腐った床に目をやっているようには見えなかった。


「そう。湊は、あっ向こうの世界の湊はね、私のことをずっと助けてくれてたよ。看護師さんをやってるみたい」

「そう、なのか」

「うん。今も私の隣で車を運転してくれてる」


 話している内に意識がはっきりしていき、私はもう一人の私の世界を垣間見ることが出来るようになってることに気付いた。彼女の思考が、感情が、五感全てで感じたものが、意識を向けただけで私の中になだれ込んでくる。不思議な感じだ。以前の私とは違う気がした。雪に怯え、死にたいとすら思っていた自分が馬鹿みたいだ。私には彼女がいる。それが、何よりも心強かった。


「お父さん、聞きたいことがあるの」


 あぐらをかいたまま、両手をつき何やら天井を眺めている父に言った。私の話を聞き終えてからずっとそんな調子だった。返事はない。お父さんも目が虚ろだ。


「ねぇ、お父さん」


 先程よりも少しだけ声量をあげて再び声をかける。「悪い。なんだ」と父はやっと聞く体制を取ってくれた。


「世界がもう一つあるなんて信じれない気持ちも分かるけど」

「いや、信じるよ」


 全てを言い終える前に食い入るように父は言った。


「母さんが、今のお前と同じようなことを言っていた。あれは今みたいに心が完全に壊れてしまう前だった」


──天使の歌が聴こえる。それが頭から離れないの。


──私の子供はこんな子供じゃない。そもそも顔が違う。


──私はちいさな女の子を手を引いた。年は五歳で花がらのワンピースを着せると、とっても喜んでくれたの。嬉しかった。そんな感情が込み上げてきてようやく分かったの。この子は、この世界の私の子なんだって。


「あいつはおかしかった。少なくともお前達が生まれてからのあいつは、もう俺の知ってる母さんじゃなかった。だから、どんな言葉もまた幻覚をみてる。また妄言を吐いてる。そんな風に片付けて俺はあいつに背を向けた。だけど」とそこで父は言葉を詰まらせ、それから嗚咽を漏らしながら「あいつは幻覚なんかみてなかったんだよな。今なら分かるよ。どうしてあの時、信じて、やれなかったんだろぉ」と口元を手で抑えた。


 湊も沙羅も目を潤ませながら父をみつめている。湿り気を帯びた空気で満ちた部屋の中で、それを縫うように私は声を放った。


「お父さん聞きたかったことはね、私と湊って本当に双子だった?」


 向こうの世界の私が疑問に思っていたことを、代わりに私が問い掛けた。瞬間、潮が引いていくように父の顔つきが変わった。


「どういう意味だ」

「私達は元々四つ子だったんじゃないの」


 父が目を見開き、その反応から私は悟った。


「じゃあ本当だったんだね」

「新奈、待ちなさい。誰からそのことを聞いた」

「向こうの世界の私がある仮説を立ててたの」と彼女が生まれる前の記憶がある事や、その時に亡くなった子が白い螺旋階段を通りひかりの先に向かったことを伝えた。それから扉のことも。


「つまり、母さんのお腹の中で二人の子が亡くなったのと同時期に、向こうの世界にいる新奈と湊くんの兄弟が亡くなった事で扉が繋がったって事か」

「って、向こうの私は言ってたけど、私は違うと思う」


 彼女の世界にいた時からずっと思っていた事だった。右手を持ち上げ、あの穴の写真をみせてと父に携帯を求めた。電子音が鼓膜に触れてから程なくして、液晶画面にあの穴が映し出される。黒よりも更に深い色の穴の周りにはおびただしい数の雪忘花が咲いている。何度みても異様な雰囲気だ。


「私は写真でしかみたことがないけど、お父さんはこれをみて別の世界のものだって感じたんでしょ?」


 父が、小さく頷いた。


「私は写真ですらそう感じる。だから、思ったの。この穴自体がこちらと向こうの世界を繋げている扉なんじゃないかって。そして向こうの世界にいる私は、偶然なのか必然なのかそれは分からないけど、亡くなった人が次元を移動する瞬間に干渉してしまった。だから二つの世界を認識出来るようになり、この世界で生きる私も同じように」 


 緩やかに話していると三人から向けられる視線に違和感を感じて一瞬口淀み、「なってしまった」と後から付け足した。それから全員の顔に視線を滑らせ問い掛ける。


「何?」

「ねぇ、あなた本当に新奈?」


 沙羅が言ってる意味がわからなかった。


「俺も同じ事を思ってた。目覚める前の新奈と今とじゃ少し違う」


 湊まで何を言うのだ。


「私は私だよ」


 全員の目を見て訴えかけると、「じゃあ誕生日を教えて」と沙羅が私の手を取りながら問いかけてくる。


「私の?」

「うん」

「十二月の二十七日」

「じゃあ私は?」

「十二月の二十九日」

「私と新奈が初めてキスをした場所はどこ?」

「いつもの部屋。凜花さんは確かその時に寝てて、二人で一つの布団に入ってキスした」


 そこまで答えると、煮えきらないような様子で「……当たってる。やっぱり新奈だよね」と沙羅がぽつりと呟いた。


「何なの? 私は私じゃんか。何がおかしいの?」と全員の目をみて問い掛けると、今度は湊が口を開いた。


「何か自信に溢れてるっていうか、俺が知ってる新奈よりも活力に溢れてるっていうのかな。それに前より知的な感じもするし」


 眉の上の辺りを指先で掻きながらそう言って、湊も何やら煮えきらないような様子だった。自分が認識している私と、他者からみた私とでは、確かにその変化に気づく度合いというものは違うのかもしれない。湊が言うように、確かに目が覚める前と後では生きる活力というものが溢れている気がした。それはまるで私の体内を流れていた血液の中に、彼女のそれも流れているかのようで、意識や思考といったものも絶え間なく体内を駆け巡っている。けれど、私は私で、彼女は彼女なのだ。それぞれが別の世界で生きてはいるが、どちらも私だ。まるで霊か何かにのり移られたかのような言い方はされたくない。私達は、二人で一つだ。

 

「もうやめよう」


 胸の中に生まれた靄と向き合っていると、家の中に手を合わせて打ち鳴らした乾いた音が響いた。父だった。


「仮に今の新奈が別の世界から来た新奈だったとしても俺達にはそれを確かめる方法がない。そんな不毛な言い合いを続けるよりも、どうやってその扉を閉じるのかを考えよう」


 まさに鶴の一声だった。父のその言葉に全員が納得し、口を閉ざした。父の言う通りだ。あの穴を塞がなければならない。あれさえなければ雪忘花はこの世界には存在しえないのだから。私達はその考えに至っただけだったが、父はそれから何故雪忘花だけはこの世界から消し去られなければならないのかということを話してくれた。


──全てを、終わらせにきた。


 その言葉の持つ本当の意味には、私達が約十八年もの間暮らしてきたあの施設も含まれていた。


「今から話すことは、篠原貴一というある男の研究日誌に書かれていたことだ」


 父は眉間に皺を寄せながらそう言った。

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