第9話

 突然の連絡だったのにも関わらず、深瀬は快く私の頼みを受け入れてくれた。


「何も聞かずに車を出して欲しいの」


 我ながら無茶苦茶な頼みだったとは思う。だが、深瀬は電話の向こうにいる相手が私だと分かると真っ先に私の身を案じ、それから声を詰まらせた。


「良かった……良かった。お嬢様がご無事で何よりです」


 潤んだ声でそう溢してから程なくして、どこに向かえば宜しいでしょうか、と芯のある声が電話口から漏れてきた。深瀬は相変わらずこと仕事においては切り替えが早い。湊に電話を代わり現住所を伝えてもらった。あの病院から最寄り駅はさすがにまずいだろうという湊の考えの元、私達はその二つ隣の駅へと徒歩で向かったが、駅に着いてもまだ時間があった為にひとまず身体を休めようと近くのモーテルに泊まることにした。外装は古い建物だったが、部屋の中は清潔にされており、寝心地は良かった。三時間ほど眠りについたところで、深瀬から連絡があった。窓の向こうでは空が白んでおり、世界が、今日も始まろうとしていた。


「本当だったんですね」


 モーテルから出たところで、湊が問いかけてくる。紺色の空が頭上に広がっているが、端の方はまだ暗い。どこからか虫の音が聴こえた。


「えっ何が?」

「瑠奈さんがお嬢様だってことです。研修に入ったばかりの時から医師や看護師達がずっとその話をしていて確かにあの病室は特殊なものだったので、もしかしたらそうなのかなとは思っていたんですけど」

「何? 私をみたらそうだと思えなかったの?」

「正直に言うとそうでした。ただの、若い綺麗な女の子って感じで。まさか本当にお嬢様だとは」


 申し訳なさそうに私に目配せをしてくるので、「皆私のことなんてそんな風に思ってないし、私もそう思われたくないから気にしないで」と言った。事実だ。私は、あの家族の一員であってそうではない。血の繋がりと戸籍だけが家族という証明をしてくれるが、幼少期から病院での入退院を繰り返し、家族からは心が壊れてしまった子という烙印を押されている。巨大製薬会社の社長一家の一人娘といえば聞こえはいいだろうが、実際の私は両親から腫れ物のように扱われている上に恥さらしだと思われている。現に父は最高濃度の水縹草の薬を使って、私の心を更地に戻そうとしていたくらいだ。


「彼の身なりや雰囲気、それから瑠奈さんに対する敬意をみて僕の考えは間違いだったって分かりました」


 湊が、モーテルの受付で私達の宿泊料金の精算をしている深瀬をみながら「それに」と言った。


「あなたは愛されてる」

「……うん。分かってる」


 風が吹き抜けていき、髪が流されていく。その風が吹く方角から支払いを終えた深瀬が出てきた。柔らかくも切れ長の大きな目に、鷲のように高い鼻。見るからに値が張りそうな黒いスーツに身を包み、ロマンスグレーの髪を綺麗に後ろに撫でつけている。その頭がふいに深々と下がり、それから再び私と向き合ったのと同時に、風を切り裂くようにぐんぐんと私の元へと歩いてくる。


「御身体に触れること、どうかお許し下さい」


 え、と呟いた時には、私は深瀬に身体を抱きしめられていた。


「お嬢様、ご無事で何よりです。深瀬はずっと旦那様に進言しておりました。あのような記憶と共に心まで消し去ってしまうような代物を、決してお嬢様には使ってはなりませんと。ですが、中々聞き入れて頂けずに今日を迎えてしまいました。本当に申し訳ありません」


 深瀬の顔をみなくても、その声色で分かった。どんな面持ちでその言葉を紡いでくれたのかということが。肩に手を添えて、ゆっくりと身体を引き剥がし向き合った。


「深瀬、大丈夫。私は絶対にあんな薬飲まないから。現にほら、私はここにいる」


 微笑みかけた。


「ええ、分かっています」


 深瀬も鏡を映したように笑みを溢した。柔らかな、お陽様のような温かみがある。


「私はこれからある場所にいく。全部終わったら、また連絡するから」

「いえ、それはなりません。運転は深瀬が致します。車はそちらに」と頑なに深瀬が拒んだ。だが、それは予め分かっていた事だった。だから、わざわざ駅の近くを選んだのだ。


「あなたにこれ以上の迷惑はかけられない。あの家で私の味方はあなただけなの。私が帰ろうと思った時にあなたがいなかったら私が困るでしょ? だから、あなたはその後ろにある駅から家に帰って。いい? 深瀬、これはお願いじゃないの。命令よ」


 言い切ると、深瀬はゆっくりと困惑していた表情を拭い去り「……分かりました」と乱れていた足並みを正した。


「絶対にまた連絡するから」

「はい、お待ちしております」

「深瀬、分かってるとは思うけど、この事をお父さんには」 


 言い終える前に、深瀬はふっと頬を緩め「分かっております」と言った。


「深瀬はいつだってお嬢様の味方です。この事は決して他言しません」

「ありがとう。深瀬、じゃあね」


 笑みを向けて、それから車に乗り込んだ。私は助手席に座り、湊が運転席に身体を入れ込んだ時だった。「湊様」と深瀬が呼び止めた。湊は車から半分身体を出した状態で聞き入る体制を取っている。


「お嬢様は特殊な環境でお育ちになったこともあり、少々わがままで天真爛漫な性格をお持ちです。その性格ゆえに、時として湊様のお気をわずらわせることがあるかもしれせん。お嬢様自身が無鉄砲に危険な場所に飛び込んでしまうことがあるかもしれません。その際は、この深瀬に代わってどうかお嬢様をお守り下さい。お願い致します」


 深々と頭を下げる深瀬をみて、湊は「任せて下さい」とふっと頬を緩めた。


「この少し変わったお嬢様を、必ず深瀬さんの所まで連れて帰りますから。どうか安心して下さい」


 その言葉を受け止めた深瀬は顔をあげ、目尻を下げた。それじゃあ、と車の扉は閉まり、直線上に続く長い道を走り出した。車内には車の走行音が満ちていて、その中に湊が声を放った。


「頼まれちゃいましたよ、あなたのことを」

「深瀬は心配性だから」


 笑みを溢しながらそう言うと、違うと思いますよ、と湊が言う。


「きっとあなたの事を我が子のように思ってるからでしょう。愛しているからですよ」


 その言葉が胸にはらりと落ちて、そうかもしれないと思った。親からの愛情なんてこれっぽっちも貰うことが無かった私が、人としての心を持ち得ることが出来たのは、家に帰る度に深瀬が無償の愛を注ぎ続けてくれたからだろう。


「帰らないと駄目ですね」


 ハンドルを握りながら湊が言う。


「うん。家には帰りたくないけど、深瀬の元には絶対に帰るよ。向こうの世界にいる皆を助けたら絶対」


 車は走り続けていく。私は窓に身体を預け、瞬間瞬間で移り変わる景色をぼんやりと眺めた。この先に何が待ち受けているのかは分からない。何しろ私達は誰もみたことがない別の次元の世界へと向かおうとしているのだ。けれど、私は私を助ける為になら、どんな場所にだって飛び込んでいく。水滴が窓を打った。少しずつ、まばらにそれが広がっていく。顔を上げると、ぷっくりと膨れ上がった雲が空から垂れ下がっていた。


「……雨だ」


 私の放った声は、窓ガラスを打ち付けるそれみたいに、すぐに溶けていった。

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