第3話

「では腕を胸の前で折り畳むようにして下さい」


 カウンセリングは午後からと聞いていたが、お昼を食べ終えてから程なくして、三人の職員が部屋に訪ねてきた。二人がかりで拘束衣を着用させられる。服の上からつなぎのようなそれを着て、ファスナーを身体の中心に沿って引き上げられ、胴部や肩にかけてをバックルで固定される。これを着させられるのは何度目だろうか。誰も私の話を信じてはくれない。どうにかして新奈や他の人たちを助けてあげて欲しい。その気持ちが大きく波を打つと、結果いつもこうなってしまう。窓から差すひかりが綺麗だった。病院の前にあるイチョウの葉が、陽のひかりを受け止めて、それから至る所に散らしてる。


「東條くん、窓の向こうをみていても何の意味もないだろう。こういうのは見て覚えていくんだ。拘束衣を着ける時は、出来るだけ患者さんの身体を傷つけないように、負担にならないように」と私の腕をそっと持っていた看護師が、ドアの前で一人ぽつんと立つ男性看護師に声をかけていた。私は何気なくその看護師に目を向けた。どうやら新人のようだった。どこか落ち着かない様子で、そわそわとしている。だが、その澄み切った瞳があまりにも綺麗で、視線が結びつきつけられてからまるで何かの磁力が働いているかのように引離すことが出来なかった。


「では、カウンセリングルームに行きましょうか」


 看護師に身体を支えられ、ベッドから立たされる。その間も私はずっと彼をみていた。どこかで、会ったことがある。間違いなく私は、彼と。そう思っていたのは彼も同じようだった。すれ違いざま、彼と私が触れ合える程の距離に達した時、彼は大きく目を見開いていた。


 廊下を渡り、エレベーターを昇る。院内の最上階にあるカウンセリングルームに通される。足を踏み入れると、すぐに視界が白く染まった。


「こんにちは、工藤瑠衣さん。今日の調子はどう?」


 いつもの、女性カウンセラーだった。うっすらと笑みを浮かべながら、白い部屋の中で白いテーブルを前にして、白い椅子に座ってる。


「私は、瑠奈です」


 そう言うと、女性の顔が曇ったのが分かった。表面上はうまく取り繕って偽りの笑みを浮かべているが、それは本物ではない。


「じゃあ、瑠奈さん。今日はどんな夢をみましたか?」

「いつもの夢です。私は薄い膜の中にいて、女の人の歌が聴こえる。毎日、毎日、同じ夢をみます」

「あなたがよく冬の帳村という村みたいに?」

「はい。正確に言えばそちらは夢ではないですけど。意識を向けたら、その世界を覗くことが出来るんです」


 言いながら首を一度回し、それでも物足りなくてもう一度回した。肩がつりそうだった。きっと拘束衣をつけられているせいだ。


「あるといいわね」


 女性がふぅっと息を吐いた。


「ありますよ。冬の帳村は」

「そう」

「みんな逃げてる」

「言ってたわね」

「だからこんな所で私は呑気にカウンセリングを受けてる場合じゃないんです」

「大丈夫よ。あなたが捕まらないと望めばその通りになるから」


 言葉の意図を汲み取るまでに僅かに時間が掛かった。少しの間をあけてから「どういう意味ですか?」と理解したうえで問い掛けた。女性は一度目を伏せてから、意を決したように再び目を開き瞳の中心に光を宿した。


「水縹草。そう呼ばれる花によって、苦しめられている人がいる。それはあなたで、しかもあなたは実在しない冬の帳村と呼ばれる村で十七歳の少女として生き続けている。今、この瞬間も。そう言ったわよね?」

「……はい。でも、あの花のことを向こうの私達は雪忘花と呼んでいるみたいです。それを、つい数時間前に知りました」

「雪……忘花?」

「はい」

「そう。もう何年になるの? あなたはここに来てからずっとその話をしてる。このままずっと自分の作り上げた世界で生き続けるつもりなの? その世界はきっと居心地がいいでしょう。あなたが想いのままに世界を想像出来るんですもの。でもね、その世界に長くいればいる程あなたは自分の手で大切な身体も大切な心も壊しているのよ? お願い、瑠衣さん。私に力にならせて」


 耳鳴りがする。この部屋が静かすぎるせいだ。私は耳元に手を当てた。


「耳を塞ごうとしても駄目。いい加減現実を受け入れるの。二日後、私はあなたのお父様にカウンセリングの進捗を知らせなければならない。きっと、その時に最終決断が下されるわ。そしたら、今のあなたはもうあなたじゃなくなってしまうのよ。それでもいいの?」

「……私じゃ、なくなる」

「そう。私だってこんな選択は選びたくないの。でもね治療の余地なしと判断したら医師として私はあなたのお父様に進言しなければならない。その義務があるの。皮肉にもあなたが雪忘花と呼んでいるその水縹草の薬を使うことになる。強制投与よ。あなたは眠らされて、その間に水縹草の最高濃度のものを体内に投与される。そしたら目が覚めた時にはもう、今のあなたはいない。あなたが現実を受け止めてくれたら、私はその選択を選ぶ必要がなくなるの。だから」

「見殺しにするんですか」


 何気なく放った私の言葉が、女性の琴線に触れたようだった。女性が両手を机に叩きつけた。「私が何もしなかったって言うの? 誠心誠意尽くしてきた。この五年間ずっと、生まれてからずっと、私はあなたの為を思って」


 それまで必死に押し殺してきたであろう感情が爆発したかのようだった。微かに身体が震え、目の中には水が張ってるのがみえた。だが、私は何を勘違いしているのだと思っていた。


「違います。私が言っているのは冬の帳村の施設で生きる人たちのことですよ。今の私を消すと言う事は、その子どもたちを見殺しにするのと同じです。あなたは、何を勘違いしてるかしらないけど私は」


 言い終える前に、乾いた音が室内に響き渡った。左の頬がじんじんと熱を持ち、遅れて痛みがやってくる。手を添えたかったが、それは叶わない。私は拘束衣をつけられている。


「もういい加減にして」


 女性の目の淵から涙が伝った。


「私はいつまで待てばいいの? いつになったらあなたはまともになってくれるの? このままじゃ、あなたは本当に……ほんとうに」


 女性が噛みしめるように言葉を紡ぐ。私はそれをみながら「もうやめようよ、お医者さんごっこは」と呟いた。女性が「えっ」と顔をあげる。真っ直ぐに目を見て言う。


「ねぇ、お母さん」

「ここではそう呼ばないで」


 女性が頬を伝う涙を手のひらで乱雑に拭う。


「なんで? だってお母さんだよ? お医者さんと患者っていう前に、私とお母さんは親子でしょ?」


 言いながら、ずっと抑え込んでいたものがふつふつと湧き上がってきた。


「どうして信じてくれないの? どうして助けてあげないのっ? 今、この瞬間だって新奈達は施設の人たちから逃げてるのっ。信じてよ……だって、だってあなたは私のお母さんでしょっ」


 感情が高まったせいで涙が頬を伝った。


「こんなことをしてる暇なんかないのっ! いいから、私を出してよっ。ここから出してっ!」


 力の限りに泣き叫ぶと、椅子から転げ落ちてしまった。その瞬間、女性が──母がテーブルの裏にある赤いボタンに手をかけているのがみえた。すぐさま雪崩れのように職員が部屋の中に入ってきて、私はあっという間に身体を押さえつけられた。


「離してっ! 離してっ!」


 肩を押さえつけてきた職員の手を力の限りに噛みついた。


「お母さんっ! お母さんっ、私の目を見てよ!」


 身体を振り払いながら、私は見上げるようにして母をみた。だが、母は手のひらで頬を拭いながら「連れていって」と職員に命じた。なんで。なんで。どうして信じてくれないの? 私は嘘なんかついてない。私は。私は。


「おいっ、何を突っ立ってみてる! お前も手伝え!」


 男性二人がかりでも私も暴れまわるせいか、一人の職員がドアの傍に立っていた職員に声をかけた。あの新人だった。言われるがままに、私の身体を抑えつけてくる。母がドアの方へと向かっていくのがみえた。


「何すんのよっ! ちょっと離してよ。お母さんっ、お母さんっ冬の帳村は実在するの。私の中に新奈がいる。ずっと孤独で、今は大変な目にあってる。だから……だから」と叫んだその瞬間、肩にかけられていた力がふっと緩んだ。途端に男性職員が「おい、何してる」と新人職員を怒鳴りつける声が聴こえた。その瞬間、左肩に鋭い痛みが走った。咄嗟に誰かが私の肩に注射針を刺したようだった。意識が遠くなっていく中、最後にみえたのはその新人職員が涙を流している姿だった。

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