第2話

 私の中にもう一人の私がいる。いつからか、そう感じるようになった。みたこともない景色、みたこともない人、訪れた記憶すらない場所、それから私ではない誰かの感情、それら全てが心臓が脈を打つように、ある時から四六時中頭の中で流れている。まるで俯瞰的に誰かの人生を垣間見ているかのようだった。物凄くリアルで、私にはそれが幻覚だとは思えなかった。指先で触れた雪のつめたさや、風に揺られた葉が擦れる音、陽の光に目がくらみ、彼女が死を望めば私もそれを望んでいる。悲しみや苦しみといった感情は二等分にはならず、同じ分だけ私もそれを望んだ。肌に触れたい、唇を重ねたい、愛する人を自分だけのものにしたい、同じように自分にもそう思って欲しい、そんな誰かを愛する気持ちも同様だった。私は彼女を通して、その世界で彼女が感じとったもの全てを自分のことのように感じた。


 もしかしたら、その誰かが生きる世界は私が生きる世界とは全く異なるものかもしれない。そんな風に思い始めたのは、この数年のことだった。物心ついた頃から彼女は私の中にいた。私は、彼女が五感で感じていたもの全てを自分のことのようにずっと感じてきたけれど、自然発生した雪忘花と呼ばれる花によって人々が記憶を無くすなんて聴いたことがないし、嘘かもしれないがどうやら冬の帳村という村自体もこの世に存在しないようだった。それに同じ世界に二人の私がいるというよりは、別の世界で今この瞬間ももう一人の私が生きていて、私は彼女の人生を覗いているのかもしれない、という方が自分の中で腑に落ちた。


 私が生きる世界と、もう一人の私が生きる世界、その二つを重ね合わせるようにして五感全てで感じながら生きているものだから、おかしくなりかけた時期もあったけれど、私は至って正常だ。その世界で生きる彼女の名前は、大城新奈。彼女は私であり、私は彼女でもある。


「工藤瑠衣さん、おはようございます」


 目が覚めてから程なくして、白衣に身を包んだ看護師の女性がそう声をかけてくる。私はちらりとその女性に目を向けてから、ふいと背を向けた。身体を動かすと関節の至る所が痛かった。痣が出来てる。昨日、あの女性カウンセラーに掴みかかったせいだ。ベッドから窓の向こうへと目をやった。空から降り注ぐ夏のひかりが強くて、世界の全てを白く呑み込もうとしている。鼓膜に触れる蝉時雨せみしぐれが綺麗だった。


「今日の午後にもう一度カウンセリングを受けて頂きますね。その際は拘束衣は着用させて頂きます。また、昨日のような事をされては困るので」


 何かの電子機器を操作する音が、私の耳を癒やしていた蝉時雨に混じってひどく不快だった。


「無視ですか? 工藤瑠衣さん?」


 ベッドで横になっている私の背中越しではきっと、女性看護師が苛立ちを隠せずにいてその表情を何とかうまく取り繕おうとしているのだろう。


「私の名前は工藤瑠衣じゃありません。瑠奈です」


 その名を呼ばないで欲しい。私の名前は、工藤瑠衣であるのと同時に大城新奈だ。そんな風に片側だけで区切られて呼ばれてしまうことは、私の中の私の存在を否定されているみたいだ。私は、いや私達は、二人で一人なのだ。だから、私は自らの名前を瑠奈とすることに決めた。瑠衣の瑠に、新奈の奈で瑠奈。


「またそのお話ですか……それよりお薬の時間です。さぁ、今日こそは飲んで頂きますよ。」

「嫌です。飲みたくありません」

「工藤さん、もう子供みたいに駄々をこねるのはやめましょうよ。ご家族からの承認は既に頂いているんです。あとは、あなたが署名してその薬を呑むだけ」


 顔だけを向けると、女性看護師が金属製のトレイを手にしており、その上にはプラスチック製の容器が載せられていた。中には青い錠剤が二粒入っている。


「嫌です。飲みたくありません」

「工藤さん、お願いしますよ。お父さん様からも数日前にお電話を頂きました。ひどく心配していらっしゃる様子でしたよ」

「だから、嫌だって言ってるでしょ! その薬はのみたくないのっ!」


 力の限りにそう叫ぶと、看護師の女性は後退りした。サイドテーブルに置かれていた花瓶が倒れたのはそのすぐ後だった。割れた花瓶のガラス片と一緒になって、雪忘花が床に散らばった。惨めだと思った。大理石の床を侵食していくように、溢れた水が広がっていく。


「あぁ、私ったらなんてことを。申し訳ありません」


 女性看護師が割れたガラス片を慌てて掻き集めようとしていたので、「もう帰って下さい」と言い放った。あの薬も、雪忘花もみたくはなかった。雪忘花は、もう一人の私を今この瞬間も苦しめているものだし、それで作られたあの薬は私の記憶を消そうとするものだ。私の人生を全て。


──この世界は狂ってる。


 看護師が部屋から出ていき、扉が自動で施錠される音が鼓膜に触れる。それから部屋の中を見渡す。床は大理石で作られており、壁には有名な画家が描いたと言われる絵が飾られている。簡易ベッドであれば十台は搬入してもお釣りがくるだろうという広さの病室は私ひとりのものだ。私の父は、曽祖父から続く巨大製薬会社を引き継ぎ、その他にも二つの総合病院を経営している。私が今いるのはその内の一つの病院であり、この部屋は私の為だけに作られた。


──最愛の娘を療養させる為になら金は惜しまないよ。


 父が友人や知人との間で私の話になるとよく口にする言葉だが、私はそれに感謝はしていなかった。むしろ反吐が出そうだった。そんな父に言われるがままに、この病院に入院してしまった私自身にもだ。


 父の願いはただ一つ。私も元に戻すこと。正確に言えば、心が壊れる前の以前の私にリセットすることだ。今や世界中の人が知っている巨大製薬会社Sは父がCEOとして舵を取り、実の娘でもある私にも服用させようとしているとある薬を売りさばいている。水縹草と呼ばれるその花には動物の記憶を司る部分──海馬への影響をもたらす神経活動を活性化させることが研究によって判明したのは約百年程前のことだと聞いた。自然免疫を保持していたほとんどの人間にはその影響はなく、誰しもがその花の持つ効力というものを、それまでの間見落とされていたのだった。だが、それに目をつけたのが私の曽祖父だった。水縹草の遺伝子を人為的に組み換えることにより、人体にも影響を及ぼすものに作り変えたのだ。生きていれば、楽しいこともあるが、その分だけ辛いこともある。その心に負った傷によって自らの命を絶つものもいる。それならば、その記憶ごと消してしまえばいい。その思想の元で長年の研究がされ、やがて生まれた。水縹草の花弁と同じ色を持つ、水色の錠剤。それは濃度によって、記憶を消滅させる幅を調節することも出来るという代物だった。ただその日に起きた出来事を忘れたいのであれば一番濃度が低いものを、数週間、数ヶ月という期間の記憶を消したいのであれば更に濃度の高いものを。


『生きていれば、時として忘れてしまいたくなるような出来事に巡り会う。そんな記憶を消すお手伝いをさせて下さい。』


 そのキャッチコピーは、あらゆるメディアの媒体に広告として打ち出され、瞬く間に全世界に広まった。その薬が『雪解け』と名付けられた所以ゆえんは、それまで頭の中に保持していた記憶が雪のように溶けて消えるからだった。あらゆる国、ありとあらゆる企業がその薬を求め、やがては死刑制度を廃止しているある国が受刑者に対して雪解けの最高濃度のものを服用させることが決まった。その薬を飲まされた受刑者は、全ての記憶を失い、言わば赤子同然の状態になった。それまでの人間関係は勿論のこと、フォークやスプーンの持ち方も、使用していた言語ですら忘れてしまったのだ。その事実は、やがて精神医学に多用出来るという考えに至った。心が完全に壊れてしまった患者を赤子同然の状態に戻し、長期間のカウンセリングや治療によって、再び心のかたちをまっさらな元の状態に戻すというものだった。


 父は、その方法を用いて私の心をリセットしようとしている。物心ついた頃から私の中には新奈がいて、それが普通の人とは違うということすら気付いて無かった私は、当たり前のように話してしまっていた。


──新奈が泣いてたの。


──雪が降ると皆記憶を失って一人ぼっちになってる。


 そんなことを両親や友人、使用人など私が誰彼構わずに口にしたものだから、父はある時に適切な治療を受けさせるべきだと私をこの病院に入れた。地上十四階のこの建物は十二階と十三階がプライベートフロアになっており、一般病棟とは違って限られた人間しか出入り出来ない。看護師や医師、それからカウンセラーまで見知った顔ばかりだ。入退院を繰り返しながらもほとんどの人生をこの病院で過ごしてきた私は、いつの間にか今年で二十歳を迎えようとしていた。

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