第7話

「てめぇ、知ってたのか」


 父の隣で腰を下ろしていた湊が、その胸元を抉るように掴んだのは、そのすぐ後だった。沙羅が途端に、やめなって、と声をあげる。


「沙羅は黙ってろ。これは、俺たちの問題だ。てめぇは知ってて、何もかも知ったうえで俺と新奈をあの施設に送りやがったのか? 答えろよっ!」


 湊は強い口調で声を荒げてはいたが、顔に纏う表情はひどく悲しそうにみえた。


「知らなかったんだ」

「本当なのか? じゃあなんでさっき、逃げたって事は知ってたんだななんて全てを分かりきっているような事を言ったんだよ」

「それを知ったのは、つい最近だ。ある人に教えて貰ったんだ。誓ってもいい。お前たち二人をあの施設に預けた当時は、あの場所がどれだけ闇深い場所だってことを知らなかったんだ」


 胸元にかけられていた手がゆっくりと降りていく。父は「すまなかった」と深く頭を下げた。


「仮に知らなかっとしても預けるべきじゃ無かった。どんな言葉を並べたところで言い訳にしかならないことは分かってる。だから、謝らせてくれ。お前たちの人生を壊したのは俺だ。母さんじゃない。全部の責任は俺にある……んだ。本当にすまなかった」


 私は、湊と違って怒りは沸かなかった。でも、その分だけ悲しくて、何故自分達のことを捨てたのだという疑問だけが胸の中で膨れ上がっていった。


「……どうして」


 父の両腕を掴みながら言った。


「ねぇどうしてなの? 私達をあの施設に捨てた理由をちゃんと分かるようにして説明してよ!」


 掴んだ腕を何度も揺さぶる。感情のままにそう言って吐き出すと、自然と涙が零れ落ちてきた。親という存在は、あの施設で暮らす私達にとっては幻想のようなもので、居ないことが当たり前で、それを求めてはならないものだと思っていた。


「実の親に捨てられた子供の気持ちを考えたことある?」


 だから、だからこそ実際に目の前に突如として現れた自分の父親だと名乗る人に、どう接すればいいのか分からなかった。疑問をぶつけることしか出来なかった。私が感情のままに取り乱していたものだから沙羅に強く身体を抱き締められ、私は深々と再び頭を下げた自分の父親が言葉には言い表せない程の悲しみを纏っているその面持ちをぼんやりとみつめた。


「母さんの心が壊れてしまったのは、お前たち二人が生まれて間もなくすぐだった」


 それから父は、ぽつりとぽつりと言葉を零すように、当時のことを話してくれた。私達を妊娠していることが分かった時、お母さんは目に涙を浮かべながら喜んでくれていたのだと言う。けれど、物心ついた頃から今の私達と同じように雪が降っても記憶を失わなかった父は咄嗟に出産日が雪が降る季節に被るかもしれないからと、母が安定期に入ったタイミングで村を出ようと提案した。だが、母はそれを頑なに拒み続けた。生まれた時からこの村の外から出たことがないのだ。妊娠中や出産と、ただでさえ心身共に負担が掛かるのだから、そんな風に環境を変えたくないと強く訴えかけきた。一番大切なのは、母体であり、お母さんの意思だ。そう思った先で導き出した答えが、母の下した決断に従うことだった。


「あれは間違いだった。俺はあの時、無理矢理にでも母さんを連れて村を出るべきだったんだ」


 父は奥歯を噛みしめるようにして顔を歪ませる。私はそれをみながら痛い程に感情が伝わってきて、思わず胸に手を添えて、ぎゅっと力を込めた。


 父の予感は当たった。私達が生まれた当日は雪が降り、その翌日におくるみに包まれた私達二人をみたお母さんは「この子たち、誰? 誰の子?」と呟いた。そうなる事を何よりも恐れていたお父さんは必死に説明したのだと言う。この子たち二人は、お前の子だ。俺たち二人の子だ、と。それからお腹にいた時に名前をどうするかと相談し合った事、日々大きくなるお腹をみて幸せのあまりに泣いてしまいお母さんに笑われた事、そして昨日二人は生まれた事。自分のみてきた記憶全てを、まだ身体を安静にしていなければならない為にベッドで横になっていたお母さんに告げた。それから、目をみつめながら手を取った。


──お前だって分かっているだろう。この村では雪が降ると、何かが起きてる。目が覚めた時にはその前日のことすら覚えていないなんて、こんなおかしな話はないだろ? きっと俺達の理解を超えた何かの力が働いてるんだ。そのせいでお前は混乱してるだけなんだよ。この子達は正真正銘お前の子だ。目をみてくれよ! 頼む」


  必死に説得したが、母はそれを受け入れることが出来なかった。


──違う。その二人は、私の子供じゃない。


──私が自分の生んだ子供を分からないっていうの? 自分の子供と他人の子供かどうかなんて区別がつくわ。だって、私はお腹の中いた赤ちゃん達の母親なのよっ!


──お腹にいた子はどこなの? きっと、雪の妖精に持っていかれたんだわ。


──返してっ! 私の子供を返してよっ!


 それ以来、母は連日のようにそうやって泣き叫び、数時間も無意味に紙を破り続ける事もあれば、壁に向かってグラスや食器を投げ付けるようになったそうだ。温厚だった性格が、まるで人が変わってしまったかのように暴力的になり、部屋の中を散々散らかしたあとにいつも決まって呟くのが「私の子供はどこにいるの」という言葉だった。


「俺は何としてでも母さんにお前たち二人を自分の子供として認識して欲しかった。だから」と絞り出すようにして父は続けた。


「母さんが寝静まってから、お前たち二人が生まれるまで趣味で毎日書き続けていた日記に、俺は母さんの字を真似て書き始めることにしたんだ。お前たち二人のことを自分がどれだけ愛しているかということを。それも、書いたことすら覚えていないであろう雪が降った日にだけ」

「え、それって……」


 それまで口を閉ざしただ黙ってお父さんの話を聞いていた私は、そこで初めて頬を伝う涙を拭いながら口を開いた。涙は、もうずいぶん前から自然と零れ落ちていた。父は、私の顔をみて目を丸くした。それから、「知ってたのか……」とぽつりと呟き、私は小さく頷いた。


「そうだ。当時の俺はあまりにも無知で、一番やっていけないことを最愛の妻にしてしまった。母さんが完全に壊れてしまうまでにそう時間は掛からなかったよ」


 父は眉間に皺を寄せながら続けた。


「いいか、人間の意識と感情は原因と結果がイコールで結ばれて初めて成立する。何もない無の空間からは人の幸せは生まれないし、悲しみも生まれない。その逆も然りだ。だけどな、仮に記憶の海の中から原因を辿ることが出来なくても、たとえば当日に抱いた感情という名の結果を日記に書き留めていて、これは数ヶ月前の出来事だから、数年前の出来事だからと、潜在意識が処理出来れば話は別だ。人間の行動は、大半は潜在意識で動いてる。道を歩く時は右足を動かして次は左足と意識をしなくても歩けるし、食事をしながら人と話している時はいつの間にか自然と顎を動かしているだろう? そして俺達が生きてくうえでは必要不可欠な呼吸もそうだ。毎秒単位で息を吸い込んで吐き出そうと意識的にしている人はいないはずだ。いつだって人は無意識に呼吸をしている。あれは、全て潜在意識という意識がその人が歩んできた人生の記憶と結びつき、無意識に身体を動かしているから可能なんだ。だが、それゆえに日記に書き留めていた感情がたった数日前だった時、ましてや前日だった時は意識せずとも潜在意識がこれはいつの感情だろうと無意識に思い出そうとする。それは、無の空間から自分の抱いた感情を探そうと闇の中で悶え苦しむことに繋がる。原因と結果がイコールで結ばれることもなければ、その事実を受け入れることが出来ない潜在意識はそれを処理することも出来ない。記憶を無くすことがない俺には分からないが、それはきっと地獄のような苦しみだろう。この村で心が壊れていく人間の大半の原因はそれだよ」


 私は、聞きながら少し前の沙羅の姿を思い出していた。人が壊れてしまう一種の境界線のようなものは、いとも簡単に踏み越えることが出来てしまう。私はあの日、それを知った。


「分かったか? 俺のせいなんだ。俺がお前たちから母さんを奪ったんだよ」


 私と湊に順に視線を配らせてから程なくして、お父さんの頬を涙が伝った。


「そこまでは……分かった。俺だってそれで壊れていく人を見たことがあるから。当時の状況は見てなくても分かるよ。それで、俺たちを捨てた理由はどうしてなんだよ」


 湊が立ち上がり、見下ろすようにしてお父さんをみつめている。両の拳が力強く握りしめられており、いつお父さんに殴りかかってもおかしくないような様子だった。私はもしものことがあれば止めないとと少しだけ腰を浮かせた。


 「お前たちに手をあげるようになったからだ」


 その言葉が鼓膜に触れたその瞬間、まるで鋭利な刃物に貫かれたのようだった。湊の胸の内も私と同じだったのか、ゆっくりと拳が開かれていく。それから持ち上げられた右手が額へと伸びていき、そっと触れている。


「そうだ湊。お前のその額にある傷は母さんがつけたものだよ。もうその頃の母さんは、俺の知ってる母さんじゃなかった。お前たちに手を上げた姿をみて、もう無理だと思ったよ。だから、俺はお前たち二人を施設に、母さんは病院に預けて村から出ることにした」


「えっ?」


 予想もしていなかった発言に、私達三人は予め口裏を合わせていたかのように、同じタイミングで、同じ言葉を発した。


「お父さんは、村に住んでなかったの?」


 恐らく三人共通の疑問を私が問い掛けた。


「研究の為にも来る必要があったし母さんの見舞いの為だけには戻ってきていたが、俺はずっと東京に住んでたんだ」

「……東京」

「そうだ。村に戻って来たのは十日程前だったかな」

「よく分からないんだけど、ずっと東京に住んでたのに何しに戻ってきたの?」


 私はそう問い掛けながら、一つの答えを求めていた。お前たちを迎えに来たんだよ、そう言われたらどれだけ嬉しかっただろう。だが、父は深く息を吸い込んでから佇まいを直し、私達の瞳の中心を捉えるようにして順に視線を配らせた。それからこう言った。


「俺は、全てを終わらせにきた」

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