第6話

 父に促されるままに走り続け、辿り着いた先は村の外れにある一軒の古民家だった。家の周りは木々に覆われており、すぐそこまで迫っている森に呑み込まれかけている。屋根は雪で覆われている為に分からないが、玄関や壁の木材はひどく傷んでおり、人が住んでいるような気配を一切感じさせないような家だった。


「ここなら安全だ」


 そう言いながら父が引き戸を開けると、軋んだ音が鼓膜に触れる。家の中はかろうじで家としての形を保っているようなひどい有り様だった。柱は腐っており、畳や天井にはカビが浮いている。父はその家の中へと土足で入っていき、畳の上に置かれているテーブルの前にどかっと腰を下ろした。


「家自体はボロ家だけど、居心地はいいだろ?」


 父はそう言いながらふっと頬を緩めた。四角い眼鏡が微かにずれ、それを指で押し上げながら、なんだ座らないのか。座布団か何かいるよな。それにしても寒いな。せめて暖房か何かあればいいんだけど」とぶつぶつと呟き、手を擦り合わせている。


 私は、そんな父を立ち尽くしたままぼんやりとみつめた。目まぐるしく移り変わっていく状況に私は頭で理解していくことで精一杯で、頭の中に尋ねなければならない疑問が次々に浮かぶ。お母さんは大丈夫なの? お母さんは何であの病院にいるの? 私と湊をどうして施設に預けたの? ねぇ、どうして? どうして? けれど、今はそれよりもと私は隣に立つ沙羅と向き合って身体を抱き締めた。


「沙羅、ごめんね。あの日助けられなくて、本当にごめん。怖かったよね」


 そう声を掛けると、沙羅は抑えていた感情を今になって爆発させたかのように私の胸の中に飛び込んできて、わっと声をあげて泣いた。あの病棟で何をされていたのかは分からない。でも、移り変わっていく状況の台風の目の中にいた私と湊よりも、突然その暴風雨の中に巻き込まれてしまった沙羅の方が混乱していたはずだ。けれど、ここにくるまでの道中、沙羅は誰に尋ねることもしなかったのだ。きっと、感情を押し殺して我慢していたのだろう。


「新奈、会えて嬉しいよぉ。私、もう二度と会えないかもって思って、そしたらほんとにおかしくなりそうで」

「ごめんね。沙羅……ごめんね」


 私の胸の中で泣き続ける沙羅の頭を何度も撫でた。指通りの良かったその髪が、微かに軋んでいる気がした。


「お父さん、なんだよな? ほんとに」


 沙羅の泣き声だけが満ちていたその空間の中で口火を切ったのは湊だった。机を前にして腰を下ろしていた父は一度頷いてから、ゆっくりと瞼を降ろし、「あぁ、俺はお前と新奈の父親だ。お前たちには本当に申し訳なかったと思ってる」と苦悶の表情を浮かべた。


「えっちょっと待ってよ、湊と新奈の? 二人は、あれ? え、どういうこと」


 途端に沙羅が困惑した表情を浮かべ、答えを求めるようにみつめてきたので私は小さく頷いた。それから、あの日三島の部屋でその事実を知ったことを伝えると、「なんなのそれ、もう訳わかんない」と天を仰いでいた。


「ひとつ聞きたいことがある。もしかしてお前達は、雪が降っても記憶を失わないのか?」


 私と湊、それから沙羅に視線を配らせながらお父さんが言う。私と湊が小さく頷くと、お父さんは「そうか。やっぱり俺の子だな」と頬を緩めた。


「私は、ちゃんと記憶を失くしちゃうんですけど」と間を埋めるようにして沙羅が言うと、「沙羅ちゃんだね? 娘がいつもお世話になっています」と父は小さく頭を下げた。私は少し前から父が口にする言葉ひとつひとつが意味がわからなかった。記憶を無くさないのは私と湊だけでなく自分もそうなのだというような口ぶりだし、私と父が出会ったのは十七年ぶりで、それも数十分前のことで、私と沙羅が付き合っていることは話していない。


「ねぇ私と沙羅が付き合ってるってお父さんに言ったっけ?」

「いや、お前からは聞いてないが、そんな事はあとでいい。それよりも」とポケットから何かを取り出そうと手を入れた時、それまでずっと口を閉ざしていた湊が少しばかり荒い口調で「おい」と呼びかける。


「ここは安全って言ったけどな俺たちには時間がない」


 湊はくるぶしのあたりまでズボンを捲りあげ、発信機をみせる。


「だから、それまでにあんたに聞きたいことが幾つかあるから答えてもらうぞ」

「あぁ、元々そのつもりだ。お前たちが疑問に思っていることには全て答える。だがな、その前にそいつをなんとかしよう。湊、ちょっとついてきてくれるか近くに車を止めてあるんだ」


 湊は父と共に家から出ていき、再び戻ってきた時には長方形の用具入れのようなものを手にして戻ってきた。家に戻ってくるなり「ちょっとみせてみろ」と発信機を用具入れから取り出した虫眼鏡のようなものでみながら、父は何かをぶつぶつと呟いていた。それから「何が起きるか分からないからと思って工具を用意しといて良かったよ。備えあれば憂いなしとはこの事だな」と言いながら、次いで手にした工具を用いて基盤へと繋がるカバーを外し、それから配線を引きずり出して「なるほどな、見た目の割には作りはシンプルだ。大したことないな」と湊の足首に付けられた発信機をいとも簡単そうに外したのだ。全員が驚きを隠せずにいる中、何でもないような顔をして、私のものを外し、最後に沙羅のそれを外した。足首から外れたことで、その重み以上の何かが軽くなった気がした。


「逃げてきたって事は、お前たちも知ったんだな」


 工具を直していたお父さんがぽつりと呟いた。どこからとも、何を知ったのか、とも明言はしていない。けれど、その言葉の意味がこの数日の間に私達が目にしてきた出来事から容易に想像出来た。私は衝撃のあまりに言葉を失い、一言も発することが出来なかった。

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