第9話
窓の向こうで空が少しずつ白んでいくその様が、やけに早く思った。あれから何時間が経ったのだろう。少し前に身体の向きを変えたものの、私は未だに床に背を預けたままだった。心の中はぐちゃぐちゃで、悲しいのか、怖いのか、悔しいのか、もう分からなくなっていた。どうして、私と沙羅がこんな目に。きっと、これは現実じゃない。現実の世界がこんなに悲しい訳がない。ねぇ神様、そうでしょう? これは夢だよね? そう胸の中で問いかけながら、氷のようにつめたくなった右手を持ち上げる。それが滲んでみえるのは、きっと私の目に涙の膜が張っているからだろう。
この世界は、現実じゃない。
再びそう呟いたその瞬間、私は白い部屋の中にいた。無機質な白い床。その上に横たわっていた。身体を起こそうとした時、床についた手が目に入る。細く、白い。それから周りを見渡す。静かだ。
「新奈! おい、新奈っ」
どこからか、声が聴こえた。それが誰のものなのか、呼ばれている名前が誰なのか、分からなかった。身体を揺すられている気もした。そう思いふと顔をあげると目の前には湊がいた。
「あれ、私、眠ってたみたい」
「眠ってた? お前はずっと起きてたぞ。いや、あれは眠ってたって言わないか、なんか凄い速さで瞬きしてて怖いくらいだった」
「そう。私は、白い部屋にいたの」
「白い部屋? 何言ってんだ? いや、そんなことよりさっき集会が開かれて沙羅が精神病棟に送られたって聞いた。何があった」
「白い部屋の中で、私はいつも椅子に座ってるんだけど」
「おい、さっきから何を言ってる」
「さっきは初めて床の上で横になっててね、それがつめたくて気持ち良かっ」
「新奈っ! しっかりしろっ!!」
身体を大きく揺すられて、それが私の心の何かのスイッチを押したようだった。ずっと、どう処理していいのかすら分からず、抑え込んでいた感情が爆発した。突如として両目から涙が溢れてきたのだ。止めることすら出来なくて、私はその頬を伝う涙を拭うことなく、湊の胸に頭を預け、声を上げて泣いた。
「何があったのか俺には分からないけど、辛い目にあったんだよな? でも、頼む。話してくれ。沙羅はもう、精神病棟に送られた。愛莉と同じようにまた戻ってこれるって保証はないから助け出すなら早い方がいい」
肩に手がかけられて一瞬だけ私はびくりと身体を揺らしてしまったが、一度離れた手がまるで蝶が羽を休める為に花弁に止まるように、ふわりと添えられた。何故かそれが妙に安心感があって、壊れかけていた私の心が少しずつ癒えていくのを感じた。私はそれからぽつりぽつりと、昨夜に起きた全ての出来事を話した。聞き終えたあと、湊はすっと立ち上がり、「お前はここにいろ」と呟いた。私はその腕を咄嗟に掴んでいた。
「……ちょっと待って、どこいくの」
「三島を殺す。お前を、お前たち二人をそんな目に合わせたあいつを、生きる方が辛いってくらいに痛めつけてやる」
湊がそう言う前から、私には分かっていた。湊の目がみたこともないくらいに血走っていたのだ。
「新奈、離せ」
私の目をみようともしない。湊の身体の震えが、その腕を掴む私にまで伝わってくる。思わず私はその腕の先へと目を向けると、拳がうっ血する程に握りしめられていた。腕を振り払われ、私は床に倒れ込んでしまったが、それでも部屋から出ていく湊の腕を必死に掴んだ。
「湊、やめて」
「離せってっ!! あいつを殺さないと、もう抑えられない」
「嫌。やめてよ。湊も痛い目に合うかも知れない」
「関係ねぇよ。刺し違えてでもあいつだけは絶対に殺す。俺がどうなるかなんて、そんなことどうでもいい」
吐き捨てられたその言葉に、私は力一杯に湊の背中を叩いた。湊の背中は硬かった。叩いたその瞬間から手のひらがじんじんと熱を持つ。
「なんなのよもう……皆して。殺すとか痛めつけるとか、なんでそんな暴力に傾くの? そんなことして何の意味があるの? 沙羅が連れていかれて、湊までどうにかなっちゃったら私は一人だよ……そんな訳分かんないこと考えるくらいだったら、どうやったら沙羅を助けられるか、どうやったら私を一人にしないように出来るかを考えてよ!! 湊は、湊は……私のお兄ちゃんなんでしょ?」
零れ落ちてくる涙を何度も手のひらで拭いながら、私に背を向ける湊にそう訴えかけた。それから頭を垂れて、続けた。
「お願い湊。もう、私も訳分かんなくて、これ以上はもう辛い思いしたくないの。だから……お願い」
もう、誰にも傷ついて欲しくない。その一心だった。
「あーーっくそぉっ!!」
湊の大きな声が鼓膜に触れて、壁を殴った音がそれに続いた。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出される。その息遣いが部屋の中を満たしていく。少ししてから、私の頭の上に大きな手のひらが添えられて、ゆっくりと撫でられた。
「新奈の言う通りだ。ごめん、俺が馬鹿だった。ほんとに……ごめん」
途端に弱々しくなる湊の声に、私は顔をあげた。湊の顔がぐしゃりと歪んでいた。私は持ち上げた右手を湊の頬にそっと添える。
「湊、沙羅を助けに行こう」
そう声をかけると、涙で滲んでいた湊の目がより強いひかりを宿した。
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