第8話
消灯時間がいつもより一時間早くなるという通達が入ったのは、夕食を食べ終えてからの事だった。なんでも施設内全ての電気系統の点検をする為らしい。普段なら廊下の辺りからも聴こえてくる子供達の声が、まだ夜の九時だというのに、静まり返っている。部屋の中には闇が満ち、私は二段ベッドの下で、沙羅は上のベッドで横になっている。
「計画、うまくいって良かったね」
「うん。沙羅のご両親の住所も湊が書き留めてるから、そのメモは明日渡すって言ってたよ」
三島の部屋に入り込み出生届や名簿を盗み見た湊は、沙羅と私と自分の両親が住んでいる住所を予めに用意していた紙に書き入れてくれていた。
「そっか。じゃあ私、やっとお母さんとお父さんと会えるんだね」
沙羅はどこかよそよそしい物言いだった。たぶん長年の関係から推測するに、沙羅の胸の内ではとうに怒りは収まっているが、大方この二日の間で少しだけヒビが入ってしまった空気感をどうやって修復しようか探っている段階なのだろう。私自身もそうだった。どうやって謝ろうか、どう切り出そうか、そんなことを考えている内に夜になってしまったのだ。それに、私と湊が兄弟だったという事実だって、恐らく沙羅は知らない。少なくとも私はそれを口にはしていないし、湊のことだから沙羅にその事実を伝えるなら私からの方がいいだろう、と空気を読んであえて伝えていないだろうと思う。
「沙羅、ちょっと話してもいいかな?」
もう、隠し事はやめよう。私にとって誰よりも大切なのは沙羅なのだ。意を決してベッドから身体を起こした。闇の中、沙羅と目が合う。
「あのね、沙羅。まず第一に分かって欲しいのは、私にとって誰よりも大切なのは沙羅なの。私は、沙羅の為ならなんでも出来るし、なにを失ってもいい」
「うん……ありがとう。私も、私も同じ気持ちで新奈のこと」
沙羅が最後に何を言っていたのか、言おうとしていたのか分からない。部屋の扉が凄まじい勢いで開いたことで、それが遮られてしまった。闇に慣れていた目が突如として向けられる直線上に伸びる強い光で目が眩む。私は目を細めながらも必死それにに目を向けていた。その光が突如方向を変え、ベッドの上にいる沙羅を照らした。あまりにも突然の出来事に、恐怖と驚きで言葉を発することが出来なかった。
「上だ」
「よし、とりあえず部屋の外に連れ出すぞ」
何やらぶつぶつと呟きながら、部屋の中へと入ってきたのは上下真っ白な服に身を包んだ職員だった。二人がかりで沙羅を二階から一階へと降ろしている。その間、沙羅は両足をじたばたとさせながら何かを叫んでいた。沙羅がどこかに連れていかれるかもしれない。そう思ったその瞬間、やっと私は身体を動かすことが出来た。身体を抑え込まれた沙羅の左肩のあたりに一人の職員が何やら注射をしようとしていた為に、私はその職員に全身全霊の力を込めて体当たりした。部屋の中に注射針が転がる。それと同時に、もう二人の職員も部屋の中へと流れ込んでる。
「なにするの。沙羅をどこに連れてくつもりですか」
私は両腕を背中に回され二人がかりで身体を抑え込まれた。ぎりぎりと骨が軋む音が鼓膜に触れる。私の腕を押さえつける手はそれ程までに力が強かった。沙羅も私と同じように身体を抑え込まれており、一人の職員が床に転がった注射器を手にとったところだった。
「いやゃぁぁ、なに、それ! 離して! やめて!」
沙羅は身体を抑えられながらも必死に足をはだつかせ抵抗している。
「沙羅に何するつもりっ、離してよ!」
私は力の限りに叫んだが、その注射針が沙羅の左肩へと吸い込まれるようにしてぷすりと刺さり、沙羅はくたびれた人形のようにだらりと倒れた。身体に白い毛布を被せられ、そのまま沙羅は部屋の外へと連れ出された。「すぐに車に乗せて運ぶように」と聞き覚えのある声が廊下から漏れてきて、入れ替わるようにして入ってきたのは三島だった。
「なんですか……これ。沙羅が何をしたって言うんですか?」
私が涙ながらにそう訴えかけると、顔の半分に黒い影を纏ったままに、三島があの目を私に向ける。鋭利な刃物のようなつめたい眼差し。私の心臓はそれで抉り出されそうだった。
「あの子供じみた陳腐な嘘で、私を騙せるとでも思いました?」
分かっていた。心の奥底では、どこか三島に全てを見抜かれているような、そんな気がしていたのだ。でも、私はそれに見て見ぬふりをした。三島は私の前で腰を落とし、床に抑え込まれいる私の首筋に手をかけた。
「どんな処罰を与えるべきか、あれからずっと考えていましたよ」
指先にかけられている力が少しずつ強くなるのが分かった。ただでさえ身体を押さえつけられている上に気道が少しずつ狭められていく。
「どうせなら肉体的にも精神的にも強い痛みを伴うものがいい。だから僕は、恐らく君が最も大切に思っているであろう佐藤沙羅を精神病棟に送ることに決めました。彼女には以前から精神に異常をきたしている節があった。ちょうど良かったかもしれない」
息が、出来ない。苦しくて、何も出来ない自分が悔しくて、涙が出てきた。
「君がまだ子供だった頃、私が言ったことを覚えていますか?確か……あれは十年以上前」
「三島さん」
私の身体を押さえている職員の声が、暗闇の中に溶けていく。
「私は君のことを特別だと言いました。それは今でも変わっていません」
「三島さん」
もう、どれくらい息が出来ていないのか分からない。視界が、暗くなっていく。
「私が君に何かをする事はないが、君が私を怒らせるということは、イコール君の周りにいる人たちが辛い目に合うということをよく覚えおくように。だから、君は今までと同じようにおかしなことは考えず、この施設で幸せに暮らしていればいいんです。そうすれば、私だってこんな事はしない。したくないんです」
「三島さんっ!」
三島の声を遮るような大きな声が鼓膜に触れて、首元にかけられていた手の力が一気に緩められた。私は今この瞬間にこの世に産み落とされたかのように大きく息を吸い込み、何度も咳をした。口元の端から唾液が漏れ出て、それと同時に両目の淵から涙が溢れ出していた。
「何考えてるんですか? あれ以上やってたら……この子は死んでましたよ。この子は
「そうでしたね。つい、感情的になってしまったのかもしれません。その子を離してあげて下さい。少なくとももう暴れることはないだろうから」
三島のその一言により、後に回されていた腕が解かれ、抑え込まれていた身体の力がふっと緩められた。私は床に這いつくばるようにして、首元に手を当てたまま何度も咳こんでいた。まだ、息が苦しかった。初めて、死を近くに感じた。気道が締まり、息を吸い込むことも吐き出すことも出来ないあの感覚。次第に遠くなっていく意識。思い出しくもないのに、私の脳内ではその場面が壊れたテープみたいに何度も巻き戻される。
「三島さん、いきましょうか」
私の身体を抑えていた職員が扉に手をかけながら、そう声を掛ける。三島は「ええ」と言って部屋から出ようとしたが、廊下に足をかけた所でくるり向きを変え、私の方へと歩いてきた。床に倒れ込む私の耳元に呟いて、今度こそ三島は職員達と共に出ていった。ドアの下の隙間から廊下の明かりが小さく漏れている。私は身体を震わせながら、それをぼんやりとみつめていた。三島はついさっきわざわざ引き返してまで私の耳元に口を近付け、こう言った。
「あまり大人を舐めないように。君を殺すことは確かに惜しいが、君を殺すことなど私からしてみれば運動場を這いつくばってる蟻を殺す事と然程変わらないんです。意味が分かりますか? 私は、人を殺すことに
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