第5話
「なんか見直しちゃったな」
消灯時間が過ぎ、二段ベッドの二階で横並びになっていた時、沙羅がぽつりと言った。
「何を見直したの?」
窓から差す月のひかりが微かに青白くて、それがいやに綺麗にみえた夜だった。沙羅が身体の向きを変えてから、私の服の中へと手を伸ばしてくる。お腹の辺りを手のひらで
「湊のことだよ。あいつってさ、いつも俯瞰で周りばっかりをみてる感じだからか分かんないけど、その中心にいるはずの自分をおざなりにしてるっていうか、笑ってる時も、私と言い合いしてる時も、心は別のどこかにある感じがして、前から何考えてるか分かんないなってずっと思ってたんだよね」
「うん。言ってたね」
闇の中、私は小さく頷いた。沙羅の手のひらと私の肌が触れ合うと、磁石のN極とS極が引き合うように吸い付いていく。ぞわりとぞわりと頭の先を引っ張られていくようなくすぐったさがあり、私の意識は沙羅と話すことに向けながらも、大半はその手のひらに向けられていた。お腹から背中へと滑るように動いていくところだった。
「でもさ、それはきっと、いつも自分よりも周りのことを考えてるからなんだよね。今回だってそうだと思わない? 湊の頭の中では、きっと私や新奈や自分だけじゃなくて施設内にいる子供達全員のことを考えて、施設が何を隠して、私達にどんな嘘をついているのか、どうやって逃げ出そうかって考えてる訳じゃん。それって凄くない? 私なんて自分ばっかりでさ、守れても新奈だけかなって考えてたくらいなのに」
「凄いと思う」
私はそう言った。それから、「でも、普通は皆そうなんじゃない?」と沙羅の瞳をみつめた。
「人なんてさ、自分の周りにいる数人の大切な人を守ることでも精一杯で、でもそれが当たり前で、皆がそうやって半径数メートルくらいの大切な人を守り合うことが出来ればそれでいいんだと思う。全員のことを思いやったり、助けたりすることは出来ない。でも、一人一人がせめて自分の周りだけでもそうやって目を向けてあげたら、思いやりとか人が幸せだと思う気持ちみたいなのが連鎖していくんじゃない?湊みたいに常に周りに目を配って、皆に意識を向けられる方が特殊なんだよ」
「そっか、そうだよね」
「でも、沙羅が言ったみたいに私もこの数日の湊は見直したのは事実かも。凄いと思った」
人として。そう付け加えようかどうか寸前まで迷って止めた。男性としてではなく、人として。あえて、そう付け加える必要はなくても、今の会話の流れなら付けるべきじゃないだろうかと思ったのだ。でも、そう思ったことすらおかしな話だと私は今になって気付いた。何か罪悪感のようなものがあるから、私はそんな風に言い訳じみた事をわざわざ付け足そうとしてしまうのじゃないだろうか。湊と私が付き合ったのは、たった一日だった。当時も、今も、私は湊を異性としてみてはいない。人として、好きなだけなのだ。でも、何故か、それを沙羅に言う気にはなれなかった。その決心がつかなかった。隠し事は良くない。私達の関係に傷をつけるかもしれない。だから、言わないと。いつか、いつか。そんな風に考えている内に今日を迎えていた。
「新奈、どうしたの? 考え事?」
沙羅はそう言ってから、私の背中に回していた手のひらにぐっと力を込めて、私の身体を抱き寄せた。首筋に顔を埋めてきて、鼻先で擦るようにしながら私の匂いを嗅いでくる。私はその間、ただでさえ甘い夜の匂いが何倍にも膨れ上がったその甘い膜のようなものに閉じ込められている気分だった。
「ねぇ新奈。キスして」
沙羅が吐息を溢すように言った。ごめん、今は。そう言おうと口を開くよりも沙羅が自分の唇を私の唇に重ねてくる方が早かった。真綿のように柔らかいその感触を脳が認識するのと同時に、身体の内側の奥深くが熱を持ち始めていく。私は、自然と目を閉じていた。静かに、ゆるやかに、溶けていきそうだった。
「ごめん沙羅、ちょっと待って」
かたちの残ったままでいる意識だけを必死に掻き集めて、私は咄嗟に身体を起こしていた。夜の纏う闇が満ちた部屋の中、窓から差す月のひかりだけが頼りで、沙羅の顔ははっきりとはみえなかった。けれど、沙羅がとてつもなく悲しげな表情を浮かべている気がした。
「何? どうしたの? え、私何か嫌なことした?」
「いや、ごめん。そうじゃなくて、あの、今日は、なんとなく一人で寝たい気分で」
自分の感情がよく分からなかった。どうして沙羅と唇を重ねただけで、こんなにも罪悪感が生まれるのか。湊とは何もない。でも、それを黙ったまま、そのことで私の心の中で罪悪感が芽生え始めた今、沙羅と一緒に想いを深め合うことが私には出来なかった。
「一人で寝たいって……一緒に寝てもいい?って私のベッドに来たの新奈じゃん。さっきもぼうっとしてたしさ、何か変だよ」
「そうだよね、私、変だよね。ごめん……今日は下で寝るね」
そう言ってベッドの枠組みに手をかけた時だった。「さっき、誰のこと考えてたの?」とつめたい声が部屋の中に転がった。
「誰って何? 別に、誰のことも考えてないよ」
「嘘だよね? それ」
「嘘なんてついてないんだけど、沙羅の方こそおかしいんじゃない?」
私は階段に足をかけ、ゆっくりと下りていく。ベッドの中に入り、掛け布団を引っ張りあげた時だった。沙羅が言った。
「新奈と湊ってさ、本当に友達なの?」
その言葉が鼓膜に触れた瞬間、胃と心臓を掴まれたかのような痛みが走った。私と湊が付き合ったのはたった一日だ。それに、友達なのも事実だ。私は、沙羅を裏切ってないない。だから真実を話せばいい。そう思ってはいるのに、口が動かなかった。
「前から思ってたんだよね、湊が新奈に向ける目。あれって友達に向けるそれじゃないよね? なんか特別っていうか、そんな感じするし」
「ちょっと待ってよ。私が湊と浮気してるとでも言いたいの? 沙羅の方こそどうかしてるんじゃない? 私が沙羅のことを裏切る訳ないじゃん!」
二段ベッドの上と下で言葉が交差する。言いながら、私は何を感情的になっているのだろうと思っていた。謝れ。謝れ。今ならまだ間に合うかもしれない。これじゃあまるで、まるで私が本当に沙羅を裏切ってるみたいだ。
「何むきになってんの? ふつうに違うよって言ったら良くない? そうやって感情的になられると余計に怪しくみえるんだけど。新奈と湊ってやっぱり」
「もういい加減にしてよっ!」
気付いた時には沙羅の言葉を遮り、声を張り上げていた。鼓動が早くなっていくのが分かる。手の震えが止まらない。それでも、私の口は私の意思とは無関係に動き続けた。
「私と湊に何かある訳ないでしょ? 湊は子供の頃から一緒で、それに……それに湊は男の子じゃん。私が女の子の事しか好きになれないって沙羅が一番良く分かってるでしょ?」
「それは分かってるよ。でも、もしかしたらそれが嘘かもしれないじゃん。男の子も女の子もどっちも好きになる人だっているんだし、新奈がそうじゃないって言いきれる?」
上から降ってくる言葉がつめたすぎて、私の心も次第に冷えていった。一体沙羅が何を言ってるのかもう分からなくなっていた。私が悪い。それは、分かってる。けれど、彼女である私に対して、私の性的嗜好を根幹から否定するような言葉を、まるで道ばたにゴミを投げ捨てるかのように放って欲しくなかった。
「ねぇ、答えてよ」
私が言えば良かったのだ。もっと早く。もっと早くに湊とは一日だけ付き合ったことがあるけど、その後に沙羅のことが好きになり、私は女の子の事しか愛せないと気付いたのだと、そう言えば良かったのだ。でも、少しは私の事を信じてくれてもいいのじゃないだろうか。私が沙羅を裏切ることなど、そんな事ある訳ない。もういい。感情のままに吐き出そう、そう思いベッドから立ち上がった。沙羅はベッドの背もたれに身体を預けていたようで、私と目が合うと「やっと話す気になった?」と問い掛けてくる。私は、ゆっくりと口を開いた。
「その薬は、飲みたくない」
だが、口から零れ落ちたのは意図してない言葉だった。思いのままに叫んでやろう、そう思っていたはずなのに。
「え、今なんて言った?」
沙羅が問い掛けてくる。私もそれを聞きたかった。
「その薬を、私は飲みたくないの!!」
瞬間、口の中で血の味が広がった。喉が切れたのかもしれない。それ程までに大きな声だった。自分で発した声だというのに、その私ですら聞いたことのない声だった。
「薬ってなに? 新奈、どうしたの? 大丈夫?」
沙羅が階段を駆け下りてくる。私がそれを聞きたかった。薬って何? 私は一体、何を言っているのだろう? 手の震えが先程よりも大きくなってる。自分の身体が、自分の身体ではないような、そんな気持ちに駆られた。とにかく今は真っ先にこの手の震えを抑えたくて、洗面所に駆け込んだ。背中に「新奈」と呼ぶ沙羅の声が聴こえたが、それどころでは無かった。力一杯に蛇口を捻り、滝のように流れ出た冷水に自分の両手を浸した。つめたい。外気にさらされ、冬の空気をめいいっぱいに吸い込んだその水が、指先から手のひらへと触れた場所から順に痛みを伴う。だが、そんなものに私の意識はほとんど向いてはいなかった。私は、一体どうしたのだろう。何が起きているのだろう。なに、これ。怖い。怖い。身体を屈めてから、両手にためた冷水を顔にかけた。何度も、何度も。しっかりしろ。大丈夫。大丈夫。私は、おかしくない。そう言い聞かせ、顔をあげたその時だった。
「いやゃぁぁぁぁぁ、いや、いやっ」
私は自分でも聞いたこともない声で叫び声をあげ、仰け反った拍子に壁に身体を打ち付けた。背中に強い衝撃と痛みと痛みが走る。
「新奈っ!新奈! ちょっと落ち着いて! どうしたの?」
「鏡っ、沙羅、そこの鏡に誰かいる」
私は必死に寸前まで自分が立っていた指を差す。沙羅は戸惑いながらもゆっくりと身体を起こし、鏡に目を向けた。私はその瞬間、反射的に目を逸らした。
「新奈、誰もいないよ?」
「えっ?」
「鏡の中にいたの、さっき、ちゃんとみて」
「みてるよ、だから鏡には私しか映ってなくて、ほら新奈もちゃんと見なよ。きっと何かの見間違いだって」
腰が抜けてしまったのか足に力が入らず、床にしゃがみ込んでいた私の腕を沙羅がゆっくりと引き上げ鏡の前に立たせようとする。私はその間もずっと顔を伏せていた。
「ほら新奈、ちゃんとみて。誰もいない」
諭すような、柔らかい声だった。先程までのつめたさを孕んだ声色を微塵も感じさせない。だから、私は顔をあげることが出来た。あげるべきじゃなかったと後悔したのは、そのすぐ後だった。
「いやゃぁぁ、沙羅、いるよ!そこにっ、そこ、ほら!」
「新奈、落ち着いて! 何がみえてるの。もう分かんないよ。いいから、とりあえず落ち着いて」
再びしゃがみ込み、身体をちいさくする私の身体を、沙羅が何度も揺すってくる。
「そこに、いるの。もう、なにこれ。分かんない、分かんないよ……怖い」
「だから何がいるの? そんな風に新奈に取り乱されたら私まで怖くなってくるから、もうやめてよ」
沙羅の声が確かに触れたが、私はもう言葉を返すことが出来なかった。自分の呼吸が荒くなっている。吸い込んだ酸素の量と、吐き出した息の割合がいつもと違う。息を吸い込もうとする度に、ひっ、と上ずった声が漏れた。それでも私は身体をちいさく丸めてうずくまり、なんとか状況を理解しようと努めていた。息の吸い方が分からなかった。いつからか流れ始めていた涙の止め方が分からなかった。あれが、何か分からなかった。鏡に映っていたのは女性だった。胸下程の長さの黒い髪に、上下真っ白の制服のようなものに身を包んでいた。私は灰色のニットに身を包んでいた為に、ひと目で鏡に映る女性が私ではないことを理解した。最初は、幽霊か何か良くないものを見てしまったのかもしれないとも思った。だが、そんな考えは女性の顔へと目を向けたその瞬間、音もなく崩れ落ちた。鏡に映る女性の顔は、私では無かった。けれど、その鏡に映る女性は間違いなく私だと感じた。
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