第6話

 人の想像力というものは私達が普段目にしている空よりも広く、海よりも深いものだと、いつか読んだ本に書いてあった。私が昨夜みた女性も、時折みる白い部屋や螺旋階段も私の脳が生み出した空想の産物なのだろうか。


 もしそうなのだとしたら、私は想像で生み出したものと現実の境目が分からない。それ程までに現実味が溢れていた。特にあの白い部屋でみたもの、感じたもの、私の五感全てがあの白い部屋にいたその瞬間は現実だと訴えかけていた。あれら全てがもし私の空想の産物なのだとしたら、今、目にしているものだって、沙羅や湊だって、私はどうやって現実だと証明することが出来るのだろう。この世界ですら丸ごと私が作り出したもので、私はみている気になっているだけで、沙羅や湊という人物を脳内で作り出しているだけで、それを私が認識しなくなってしまったら、私がそれまで認識していた世界の全ては塵のように砕けてしまうのではないだろうか。そんな風に考え始めたら、おかしくなりそうだった。


「新奈お姉ちゃん、沙羅お姉ちゃんが呼んでるよ」


 小さな女の子の声が鼓膜に触れる。この声だって、私が聞こえると認識しなかったら。とそこまで考えて頭を振った。目を向けると、陽菜乃ちゃんが飲み物が配置されているテーブルの方へと指を指していた。そこにはオレンジ色の液体が入ったグラスを手に持ったままこちらをみている沙羅がいた。陽菜乃ちゃんには、教えてくれてありがとう、と笑みを向けてから沙羅の元へと向かった。


「沙羅、陽菜乃ちゃんに呼ばれてるって聞いたから」

「うん。もうすぐ約束の時間になるよ。ずっと、ぼんやりしてるけど本当に大丈夫? 言っとくけど新奈が失敗するって事は、私達三人全員が失敗するのと同じだからね」


 沙羅は私の目をみることもなく、ローストビーフや七面鳥の香草焼き、フライドポテトやオニオンリングなど、クリスマスにふさわしい料理がバイキング形式で並ぶテーブルに視線を送りながらそう言った。職員さんや子供達が大きなトングを用いて、自分の好きな料理を好きな分だけ手にしている小皿に盛り付けている。食堂の中は、真夏の陽射しのように賑やかだった。沙羅は、昨夜からずっとこんな調子だった。私があの鏡の中に映る女性をみてから取り乱したものだから、表面上は停戦しているが、沙羅の胸の中では未だに私と湊の関係についての疑問がくすぶったままなのだろう。どこか棘のある、つめたい言い方をずっとされてる。


「ごめんね、沙羅の言った通りだと思う。ちょっとぼんやりしてたかも気をつけるね」


 私は今の自分に出来る精一杯の笑みを向けるが、「うん」とだけぽつりと呟いて沙羅の目がこちらに向くことはなかった。私は受け止められなかった視線を逃がすように装飾の施された壁に目をやった。中央にはかたちの様々な赤い風船で作られた『Merry Christmas』という文字があり、その周りは色とりどりのリボンやリースできらびやかな装飾がされていて、その一帯だけ微かにひかりを纏っているように感じる。その手前には大きなツリーがあり、昨日丸一日かけて女性だけでそれらの装飾をしたことが遠い昔のように感じた。ふと壁の端に掛けられた時計に目をやると、時刻は十九時五十三分だった。湊は数分前に食堂から出ており既に西館に向かっている。計画では十九時五十五分に、私と沙羅は職員前の女子トイレに向かうことになっている。あと二分。


「沙羅、昨日のことなんだけど……」


 謝ろう。とにかく今は誠意をみせて、それから本当のことを打ち明けよう。何一つ隠す事もなく。


「新奈、今はその話をするのはやめよ? お互いに集中出来なくなるでしょ?」

「うん、でもやっぱり」

「ねぇ、やめよ?って言ったよね」


 沙羅は一切話し合う気はないようだった。心の窓口のようなものを、何かの硬い金属で溶接し遮断されてしまったかのような、そんな感じだった。


「時間だ。新奈、行くよ」


 沙羅がぽつりと呟いたから、私も壁に掛けられた時計に視線を送る。ちょうど、短針と長針が十九時五十五分を指し示したばかりだった。丸皿やプレートを手にしながら喜々とする子供達の間をすり抜けるようにして食堂から出ていく沙羅の後を私は追いかけていく。女子トイレに入るや否や沙羅がポケットから何かを取り出した。どうやら腕時計のようだった。


「それ、どうしたの?」

「湊がさ、今まで施設で暮らしてきた間に薪小屋の近くとかでみつけた腕時計をずっと隠し持ってたんだって。聞いてなかったんだ?」


 沙羅が、銀色の盤面に水色のベルトのそれをくるくると手で回しながら言った。彼氏なのに。口にはしてないが、そう言われているみたいな言い方だった。私は返す言葉を見つけ出すことが出来なくて、ただ黙って頷いた。


「私は、今日絶対に自分の親の居場所をみつける。もう一分一秒ですら、こんなとこに居たくないんだ」


 最後は沙羅が吐き捨てるようにそう言って、私達は一言も発することなくその時がくるまで待った。空調が空気を吸い込むような、吐き出しているような、よく分からない音だけが女子トイレの中を満たしており、その間も秒針がひとつずつ針を進めていく。


「もうすぐ時間だ。カウントするよ」


 沙羅が言った。


「十、九、八、七……」


 秒針が針を進めていく度に、沙羅が口にする。


「三、二、一。鳴るよ」


 その声と共に、けたたましい警報音が鳴り響いた。湊が火災報知器を鳴らしたのだろう。沙羅は時計の画面を即座にストップウォッチのに切り替えた。私は横目に凄まじい勢いで一番右端の数字が刻まれていくのをみていた。職員達の「はい、皆焦らずに移動してねー。訓練を思い出してね」という子供達に呼びかける声が聴こえたのは、そのすぐ後だった。子供達の泣きわめく声、笑い声が、それに続き、何人もの足音が不規則なリズムを刻みながら遠くなっていく。


「おっけ。一分経った。もし職員がいたら連れ出すけど、居なかったらまた呼びにくるから」

「分かった。沙羅、気をつけてね」

「うん、新奈も」


 沙羅が今日初めてちゃんと目をみてくれた。風のようにすっと女子トイレから出ていき、それから少ししてから沙羅の声が再び聴こえた。


「あっちです。たぶん西館に。二、三人だと思うんですけど小さな子供達の声が聴こえてきて。急いで下さい」


 どうやら湊の言っていた通り数人の職員がまだ職員室に残っていたようだった。耳を澄ませる。足音からして二、三人だろうか。いや、もっといるのかもしれない。私はそれが遠くなっていくまで息を潜め、それから職員室へと向かった。扉を開け、中に入ると長方形のテーブルが二列になって部屋の奥へと続いており、テーブルには書類やファイルが幾つも立てかけられている。念の為に警戒はしていたが、職員は誰も居なかった。


 湊には、私達が何か知らない情報があるかも知れないから片っ端からファイルや書類をみてくれと言われていた。一番手前のテーブルから手にかけようとした時だった。肩に手が触れて、咄嗟に振り返った。そこには湊がいて、私と目が合うとふっと頬を緩めた。


「ちょっとっ、声かけてよ。心臓止まるかと思った」


 私は声を落としながらも、湊の胸の辺りを軽く小突いた。


「悪い悪い。別に驚かせるつもりじゃなかったんだ。じゃあ俺は三島の部屋に行くから、新奈はそっちを頼む」


 冗談を言い合えるような空気ではなかった。もしこれがバレたらどんな目に合わせられるか分からない。湊が部屋の奥へと向かっていくのをみてから、私も目の前の机に立てかけられているファイルに手をかけた。最初のファイルには村で配られている案内表や定期通信のようなよく分からないお便りばかりだった。次のファイルには今年度数学aカリキュラムと大きく印字されたそれに私は次々とページを捲りながら目を通していく。数学の公式や、授業内容など、特段目を通す必要のなさそうなものばかりだった。それでも、何も知らずに私達は十七年もの間生きてきたのだ。どこに必要な情報があるかは見なければ分からない。だから、ページを捲るしかないと、指先に力を込めていた時だった。


「新奈っ!!」  


 職員室の一番奥にある三島の部屋から湊の声が聴こえて私は急いで向かった。湊の放ったその声色からただ事ではない予感がしたのだ。部屋に入ると、湊は机の上に置かれた黒いファイルを目にしながら呆然としているようにみえた。


「湊、どうしたの?」


 そう呼びかけると、湊はゆっくりと持ち上げた右手を使ってそのファイルを私にみえるようにと向きを変えた。微かにその指先が震えているようにみえたけれど、私はその理由を尋ねないままに言われた通りファイルに目を落とした。


 私の顔写真、名前、年齢、と続く情報の下には概要という欄があり、『齢四歳にして血液中に強い抗体反応あり、よって大城新菜をαアルファとする』という文言が書かれていた。一体これが何を意味としているのか私には理解出来ず、読み飛ばすことにした。更に読み進めていくと、私が最も求めていた情報が書いてあった。家族構成という欄があったのだ。


「父親の名前は、大城隆二おおしろりゅうじ。お母さんの名前は、大城佳代おおしろかよか」


 一人ずつ、私は名前という情報からその存在を確かめるように声に出して読み上げていった。だが、父親、母親、と続き、更にその下にある続柄という文字の隣にあるそれに目を向けた瞬間、私は言葉を失った。全身の力が一気に抜け落ち、冬枯れし始めた枝から枯れ葉が舞い落ちるように、私はゆっくりと地面にしゃがみ込んでいた。


「ねぇ湊……嘘だよね? これ、ここに書いてあることって嘘だよね」


 私は目の中にたっぷりと水を溜めながら、そう訴えかけた。私は何故泣きそうになっているのだろう。自分でもその理由が分からなかった。そんな私をみながら、湊は「いや」と呟いた。それから「住所も同じだったよ」と続けた。私は目の前で突如知らされた真実を必死に受け入れようと、少しでも涙を溢さないようにしようと、天井を見上げた。


「俺と新奈は、双子の兄弟だ」


 湊がその言葉を放ったその瞬間、私の頬をつぅっと涙が伝った。

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