第7話
「まず、新奈に聞きたいことがあるんだけど、俺と新奈以外の村の人たちが雪が降る日に記憶を無くすって事を、沙羅以外の他の誰かに話したか?」
湊があまりにも自然に、まるで淀みなく流れ続けている川の流れのように、私が想像すらしていなかったことを
「誰かに、話した?」
湊は、何事もなかったかのように再び問い掛けてくる。私は理解が追いついていなかった。あり得ない。だって、雪が降る日に記憶を無くさないのは私だけで、そのせいで十七年間ずっと胸の中に降り積もる孤独の重みに耐えてきたのだ。
「……ちょっと、待ってよ。なんで湊がそれを知ってるの? それに俺と新奈以外って何……? 湊も、記憶を失わないの?」
そう問い掛けてから、ちらりと沙羅に送った。沙羅も大きく目を開いており、湊が言った言葉に衝撃を隠せない様子だった。
「新奈が自分で言ったじゃん。雪が降る日に皆が私のことを忘れるの。って泣きながら」
覚えていない。私の頭の中には沙羅への想いや思い出だけが表面を満たしていて、その下には十七年間で降り積もった孤独がある。その中を、どれだけ手探りで探してみても私の中にはそんな記憶は無かった。
「覚えてないのか……まあ、とりあえず誰にも話してないならそれでいい」
「えっ、ちょっと待って湊。勝手に話を進めないでよ。いつなの? 私が湊にそれを伝えたのはいつのこと? っていうか、何で今までそれを私達に言わなかったの?」
「新奈、それは後で説明するから。次にいかせて」
遠回しにはぐらかせているようで、だんだん腹が立ってきた。いや、それよりも、どうして雪が降る日に記憶を無くすことを知ってて、私だけがそれを無くさないことも知ってて、何で教えてくれたかったのだ。どうして。ねぇ、どうして? どれだけ辛い気持ちで私が孤独に耐えてきたのかも知らないで。
「今朝もそうやって言ってたよね? 後で、後でって。はぐらかされてるみたいでそれ嫌なんだけど、今話してよ」
湊は口を閉ざしたまま、ゆっくりと目を伏せた。再び瞼が開くと、壁に掛けられた時計をちらりとみた。
「新奈、もう時間がない。今が十七時過ぎで十九時から夕食ってことは、もうあと一時間もない。それまでに沙羅に記憶を無くさずに心を守る方法を教えてやらないと、また今朝みたいなことになるぞ? 次は、もう助けてやれないかもしれない。そうなったら今度こそ沙羅は精神病棟送りだ。お前は、それでもいいの?」
深い悲しみとつめたさが混在しているかのような瞳を向けられて、口を閉ざすしかなかった。隣に座る沙羅に目を向ける。私と湊のやり取りをずっと黙ったまま聞いてくれていた沙羅は、私の顔をみて、小さく頷いた。今は、とりあえず話を聞こうよ。そう言われてるみたいだった。
「分かった、もう何も言わない。ちょっと感情的になっちゃってたのかも。湊、ごめん」
小さく頭を下げる。
「じゃあ、まずは心を守る方法を教える」
湊は、ポケットに仕舞い込んでいた沙羅の書いたメモ帳を取り出した。今朝方、職員にみられたらまずいからこれは俺が預かっておくよ、と言って湊が持っていたのだ。一枚ずつページを捲り、私が言葉を失う程の衝撃を受けたところを広げた。
「沙羅、雪が降る日に起きた出来事に対して自分が抱いた感情は、もう二度と書くな」
普段は何かあれば湊と言い合いをしているような沙羅が、今は縋るような面持ちで湊をみている。湊は沙羅に分かりやすく伝わるようにと、一つずつ指を指していく。
「雪が降っても忘れない為に当日に起きた出来事を書くまでならまだいい。たとえば、今日の作業は早く終わったみたいな、内容な。でも、感情と深く結びついているような、雪が降る降らない関係なく数カ月後でも覚えているような記憶は駄目だ。お前の場合、新奈のことは日記に書くな。新奈を愛しているお前は、どんな些細な出来事でもその記憶には感情が入り込んでしまってる。分かるか? そこに感情を織り交ぜちゃ駄目なんだ。沙羅は、俺や新奈と違って雪が降ると当日に起きた出来事全てを忘れてしまうから、そこに文章として当時の感情まで書いてしまうと心と脳が混乱してしまうんだ。この時は辛いって書いてるのに、今の自分はどうしてその感情を抱いていたのか思い出せない。もどかしくて、どうにかして思い出そうとする内に、心が壊れていくんだ。最終的には、その文章に書かれた日付けの中にいる自分と、今を生きている自分との境い目が分からなくなる。簡単に言ってしまえば、過去の自分と今を生きている自分の心のどっちが本当の自分なのか分からなくなっちゃうんだ」
湊の放った言葉が腑に落ちたようで、沙羅は頷きながら「この数日間の私は、本当にそんな感じだった」と呟く。今朝の沙羅の取り乱し方は、今までにみたことがなかった。私の知っている沙羅とは違う。あの日記を書いている時の沙羅もきっと……とそこまで思いかけて、書かれた文章が脳内にありありと浮かびぞわりと鳥肌が立った。人が壊れる瞬間というものを、一瞬だけ垣間見てしまった気がした。もう二度と、沙羅をそんな目に合わせたくない。
「ねぇ、ほんとに大丈夫なの? 当時に抱いた感情を書き込まれれば、沙羅はほんとに今のままでいられるの?」
気付けば、そう口にしていた。湊はそんな私をみながら、ふっと頬を緩ませた。
「あぁ、それは亮太が証明してくれてるから大丈夫だ」
亮太。湊が口にしたその言葉で、真っ先に頭に思い浮かんだのは、愛莉の手を引いて運動場を駆け抜けていく姿だった。亮太は湊のルームメイトで、その亮太までもが記憶を失わないのかと私達が驚きを隠せないでいると、湊は最初から全てを話してくれた。湊自身は私と同じように雪が降っても記憶を失わなかったが、十四歳の時にルームメイトである亮太がこの村で生きる人達と同じように記憶を失ってしまうことを不憫に思い、全てを打ち明けたのだと言う。雪が降る日には、皆が記憶を忘れてしまうこと。雪が降る日には妖精が現れる、なんて言い伝えは
亮太自身も最初は半信半疑だったようだが、湊が言うならとその話を信じてくれたらしい。
「三年だった。あいつは、三年間ずっと今の沙羅と同じように雪が降ると当日にあった出来事を書いてたよ。しかも、その間一度も亮太の心が壊れることは無かった」
湊は、そう言ってから窓の向こうに視線を向けた。だが、部屋の小窓に向けるにはあまりにも遠くをみるような目をしており、瞳にはうっすらと悲しみの色が混じっているように私にはみえた。沙羅と違っていたのは、亮太がメモ帳に書き込むのは当日にあった出来事だけで、その当時に抱いた感情は決して書き込まなかったそうだ。あいつは、もしかしたら本能的にそれが駄目なことだって分かっていたのかもな、と湊は言う。
そんな日々が二年程続き、状況が大きく変わったのは亮太に彼女が出来てからだそうだ。
「名前は、
私と沙羅は、タイミングを合わせたように頷いた。小さな世界だ。村の中ですら暇つぶしやある種の娯楽のように扱われる噂話は一瞬で広まる。それよりも遥かに小さな世界である施設内で起きた出来事など、当日には全員に知れ渡るほどに話は一瞬にして広まるのだ。亮太と愛莉が付き合ったという話も、皆が知っている周知の事実だった。
「ある日の夜、もう消灯時刻も近くて横になってたら、突然亮太に頭を下げられた。びっくりしたよ。亮太にあそこまで必死に頭を下げられたことなんて今まで無かったからさ」
湊は、当時の光景を今この瞬間も目にしているかのように笑った。
「で、亮太がそこまでするなんて一体どんな頼みだって思って話を聞いてみたら、愛莉にも雪が降る日に記憶を無くさない方法を教えてもいいかってことだった」
「あんまり……良くないことだよね」
沙羅が確かめるようにそう問い掛けると、湊は「あぁ」と一言だけ呟いた。
「雪が降る日には妖精が現れるって言い伝えを皆が信じているのに、その全てが覆るような事実を広めるのは良くないって考えてた。だから、亮太にはこのことは誰にも言うなって強く念を押してたし」
聞きながら、私と全く同じ考えだと思っていた。生まれた時から皆が信仰し、ましてやそれを信じたままに寿命を迎える人達だってこの村には大勢いるのに、その全てを壊しかねない事実を広めるのは危険過ぎる。
「でも、俺はいいよって言ったんだ。亮太と愛莉は本当にお互いのことを想い合っていたし、亮太だけは雪が降る日に起きた出来事を覚えてるのに愛莉は忘れてしまうなんて辛すぎだろ」
そう、辛すぎる。私も十七年間誰の記憶にも残らない孤独に押し潰されそうになっていたが、何よりも辛かったのは沙羅に忘れられることだった。まるで、息絶えることも出来ずに深い水の底へとおちていくような、そんな日々だった。
「最初の内は二人とも凄く幸せそうだった。亮太なんて泣きながら俺の身体を抱きしめてきたんだよ。愛莉がやっと昨日話した内容を覚えててくれたんだ。ありがとう、ありがとう、と何度も言ってさ」
そこまで言って、湊は一度口を閉ざした。眉間に皺を寄せ、悔しそうな、悲しそうな、そんな感情が入り混じった表情のままに息を整えてから、続けた。
「それから三週間が経って、愛莉の様子がおかしくなった。突然泣き叫んだり、ふとした瞬間に笑い続けたりして、とにかくメモ帳を手放さくなったんだ。俺と亮太はその異変に気付いて、何とかして愛莉を助けようとした。真っ先にメモ帳を取り上げて中を見た時、俺も泣き崩れたよ」
そこに書かれていたのは、沙羅が書いていたように当日の起きた出来事と共に当時の抱いた感情だったそうだ。それは数時間、数分、と刻みこまれていき、日に日に今の自分と日記に書き込まれている自分との区別がつかなくなってしまった悲痛な叫びだったそうだ。湊は、俺のせいだって思った、と蚊の泣くような声で呟いている。私にはその気持ちが痛い程に分かった。私が、その罪悪感に胸の中をずたずたに引き裂かれたのは、まだ数時間前の話だ。未だにその胸の奥にある傷に触れようとすると、強い痛みに襲われ、息が苦しくなる。
「そこから先は、お前らも知ってるだろ?」
問い掛けるようにして、湊は私と沙羅を順にみる。私達は、二人とも頷いた。愛莉は今から一年程前に、お昼時で食堂に集まっていた私達の前で、突然職員さんに名を呼ばれ、部屋から出ていった。私達はそれから一年近くも愛莉に会えなくなる事になるなど思いもしなかった為に、当たり前のように扉の奥に消えていくその姿を見送った。
数日が経ってから、「愛莉は村の中にある精神病棟に入院することになりました。今は心の療養が必要なようですが、必ずまた皆の前に元気な姿をみせてくれるはずですので、皆で祈ってあげましょう」と作り物の笑顔を貼り付けたままに三島さんが言った。でも、施設の外に出ていた子が風の噂で聞いた。妖精たちの庭に住んでいた子は、精神病棟から抜け出し行方不明になっていると。その為に、愛莉が無事かどうかすら分からないと。その噂話は一瞬にして施設中に広まり、皆が心配する気持ちと悲しみから職員さん達に問い掛けた。だが、私達に追い打ちをかけるようにして、三島さんがそれは事実です、と朝食を食べ終えてから皆の前で言った。嘘であってくれたら良かったのに、きっとこの施設で住む子供達は皆そう思ったはずだ。もう愛莉に二度と会うことは出来ないかもしれない。私も含め皆がその事実をゆっくりゆっくりとと時間を掛けながら受け入れようとしていた時だった。愛莉が戻ってきたのだ。まるで何事もなかったかのように、けろっとした顔をして、三島さんに連れられて食堂の中へと入ってきた愛莉が、皆ただいま、と笑みを溢したのは、今から三週間程前のことだった。
「噂はあくまで噂だったようです。愛莉はこうして僕たちの元へと帰っきてくれました」
三島さんの放ったその一言が合図かのように、皆が一斉に愛莉に駆け寄った。泣いている子、愛莉の元気そうな姿に安堵する子、心からの笑みを溢す子、訳も分からずに不思議そうに遠くからみつめる小さな子たち。皆がそれぞれの感情を露わにする中、共通の疑問は一つだった。今までどこで、何をしてたの? 誰が先に問い掛けたのかは分からない。けれど何人もの子供達が一斉にその問いを投げかけると、愛莉は言った。「ごめん。私、何も覚えてないの」と。おかしいとは思った。不思議だとも思った。雪が降る日に記憶を無くすならまだしも、一年もの間丸々記憶を失っているなんて聞いたこともなかった。でも、それ以上に愛莉が戻ってきてくれた、その事実が、その喜びが何よりも勝ったのだ。
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