第8話
「ねぇ、戻ってきてからのことは私もなんとなく分かるんだけど、愛莉が精神病棟に送られた時って亮太は大丈夫だったの?」
私は、そう問い掛けながら当時のことを思い出していた。最愛の彼女が失踪したと知ったばかりの亮太は、皆から同情の目を向けられていた。それでも「俺は、大丈夫だから」と気丈に振る舞っていたことは覚えている。でも、沙羅や湊以外とそこまで関係が深くない私はそれ以上のことを知らない。
「亮太は、壊れたよ」
「えっ? どういうこと?」
とてもそんな風にはみえなかった。確かに愛莉が失踪してから数ヶ月の間は、無理して笑っているような、必死に悲しみを押し殺す感じがしていてとてもみていられるような状態ではなかった。でも、それからは以前の亮太に戻ってきた気がしたのだ。
「全部俺のせいだって、あいつはずっと泣き続けてた。そんな日々がつづいたある日、目が覚めた時にはもう愛莉と付き合っていたことすら覚えてなかった。愛莉と付き合うより前の記憶しかなかったんだ。それに、愛莉のことも、愛莉に付随する記憶も何もかもを覚えてなかった。もしかしたら自分の心を守ろうとして脳か何かの力が働いて記憶を消したのかもしれない」
言い終えて、でも、と言う。奥歯を噛み締めてから湊は続けた。愛莉が何事も無かったかのように施設から戻ってきてからというもの、少しずつ亮太の心の中に愛莉という人となりが、そして彼女に抱いていた想いが、かたちを持ち始めていた。あやふやな輪郭だが、それは確かに亮太の心に小さな変化を起こしていたのだ。そしてあの日、施設から二人が逃げ出した当日、亮太は冬の間毎日のように書き留めていた一冊のメモ帳の存在を思い出した。そのメモ帳を見せてくれないかと頼まれた湊は、元からいつかは渡さなければと思っていた為に、良かれと思ってずっと預かっていたそのメモ帳を亮太に手渡した。二人が施設から逃げ出したのは、そのすぐ後だったのだという。
「あの日、亮太に直接聞いた訳じゃないから本当のことは何も分からない。でも俺が思うに記憶を全て取り戻した亮太は、もう二度と愛莉をあんな目に合わせたくなくて施設から逃げ出したんじゃないかな」
湊は悔しげな表情を纏いながら両手を握りしめていた。それから、「俺のせいだよ」とぽつりと呟いた。
「あの日、廊下の窓からみえたんだ。愛莉の手を引きながら運動場を走り抜けていったあいつは、記憶を失うまで毎日のように愛莉との大切な思い出を書き留めていたあのメモ帳を、途中で落としてまで必死に逃げてた。何よりも大切だったはずなのに、それくらい追い込まれてたんだよ。俺がもっと段階を踏むべきだった……いきなりあのメモ帳を渡すんじゃなくて、ゆっくりゆっくりと記憶を思い出させるべきだった」
私はそれを聞きながら、胸に引っ掛かるものを感じた。
「……ちょっと、待って。メモ帳は? 亮太が落としたっていうそのメモ帳はどうなったの?」
湊は小さく首を横に振る。
「二人が施設から逃げ出したあの日、新奈は突然スイッチが切れたように倒れたから何も覚えてないだろうけど」と湊がそこまで言いかけてた瞬間、手を伸ばしていた。
「え、ちょっと待って。二人が施設から逃げ出したのって、やっぱり血液検査があった日だったって事?」
私の記憶では確かにそうだった。だが、沙羅さら聞かされた話だと、二人が施設から逃げ出したのも、私が倒れたのもその翌日だと聞かされていた。あの日は雪が降っていた。皆が記憶を失っている為に、私にはそれの確かめようが無かったのだ。今までは。
「当然だろ? 新奈もあの日は倒れたから記憶が混乱してるのか」
「いや、沙羅からそう聞かされたの。ってか職員さん達も皆そう言ってたし」
「いつもの時間のズレか……。たぶんそれは今から言う話と繋がりがあると思うから一旦置いとくか。俺はあの日、確かにみたんだ。後ろから追いかけてた職員の一人が亮太が落としたメモ帳を手にしてたのを」
背中に嫌なものが走った。冷たいもので身体を触れられているような悪寒がする。身体の内側から外側にかけてを這い上がるようにしてそれに襲われた私は、表情にも出していたようだった。湊が真っ直ぐにみつめてくる。
「分かったか? あのメモ帳には亮太が今まで書き留めていた雪が降る日に起きた出来事と共に、忘れないようにと亮太が書いた、雪が降る日にこの村で起きている真実が書かれてた。恐らく、亮太のポケットに入っていたメモ帳は施設の職員に取り上げられ、今は三島が持ってる」
「えっ? それじゃあ……」
全身の毛穴が
「あぁ、施設の職員は勿論のこと、三島も雪が降る日に皆が記憶を忘れてしまうことを知ってる。二人が施設から逃げ出したことも、新奈が倒れたことも、全部実際に起きた出来事の翌日にしてるのは、辻褄を合わせる為だろう。皆が記憶を失っているのに、その前日に逃げ出しましたじゃ誰も納得しない。だから、あえて翌日に逃げだした事にしたんだろうな。あいつらは、雪が降る日に記憶を無くす事を知ってて何もしないし、俺達にも黙ってるんだよ。それでやっと分かった。この施設は、たぶん俺達が思っているような場所じゃない」
「何かが、おかしい」と言ってから、湊はすぐに何かじゃないな、と自らの言葉を否定した。
「この施設は、狂ってるよ」
湊の放ったつめたさを孕んだその言葉が、頭の中で何度も反芻された。
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