第6話

 扉の開いた乾いた音が鼓膜に触れる。足先から順に、普段よりも幾分動きのゆったりとした沙羅が部屋の中へと入ってきた。今朝方泣き続けていたせいか、少しだけ目が腫れている。私は今すぐにでも抱きしめたい気持ちに駆られて、身体を起こし沙羅の元へと駆け寄った。


「沙羅、大丈夫だった? 何もされてない? 私、沙羅にとんでもないことをしちゃった。辛かったよね? 悲しかったよね? 沙羅……許して」


 沙羅の両腕に手を添えたまま、頭を下げた。そんな私の身体を腰を落としながら沙羅は抱きしめてくれた。それから、「なんで新奈が謝るの? 新奈のせいじゃないよ。私があのメモ帳を用意したいって言ったんでしょ? それに、この数日間ちょっと病んじゃったけど、医務室にいてあのメモ帳が手元にないだけですぅっと心が軽くなってきたんだよね。今朝の私は、きっとどうかしてたんだと思う。だから、ほら、顔をあげて」


 頬を包む込むように手を添えられて、私はその力に導かれるようにして顔をあげた。目の前に、沙羅の顔がある。笑っていた。柔らかな笑みだった。私は、今朝からずっと張り詰めていた糸がここにきてようやくぷつんと切れたようで、目元から涙が溢れ出てきた。


「よしっ、とりあえず新奈と沙羅は仲直りってことだし、じゃあ話すか」


 丸テーブルを前にして腰を下ろし、ずっと押し黙ってくれていた湊が口を開いた。沙羅が医務室に行っている間、私は職員さんに作業に出るように言われていた。当然ことのながら、ご飯を作っている間も洗濯物を干している間も私の心はずっと心此処にあらずという状態で、目を通してみたもの全てが瞬時に霧散して消えていくようだった。沙羅のことが何よりも心配だった。それと、今朝の湊が沙羅にとった対応にあまりにも違和感があり、頭の中はそれらで一杯だった。普段の湊は、時折おちゃらけているようなこともあるが、大抵の事にはたとえ不測の事態が起きようとも動じないような冷静さがある。でも、今朝の完全に錯乱し取り乱している沙羅に対する対応は、とても初めてそういう人をみたようにはみえなかった。まるで、同じような出来事を既に何度か経験しているかのようだった。それに、湊が放った言葉の中で私の胸の中にずっと引っかかっているものがある。


──今のお前の姿をみたら、きっと職員達は……いや、三島がお前のことを精神病棟送りにする。


 今朝、湊は沙羅にこう言った。三島さんの事は私も好きではない。いつも作り物のような笑みを浮かべ、目の奥には氷のようなつめたさを孕んだものがみえる。そんな三島さんのことが私は子供の頃から苦手だったが、精神病棟送りにするというようなことまでするとは到底考えられなかったのだ。


 沙羅への心配は勿論のこと、頭の中を埋め尽くす疑問で、もう破裂寸前になりそうな自分の心をどうにか処理したくて、休憩時間に湊に尋ねた。


「湊、今朝のあれどういうこと? 沙羅に対する対応、とても初めてだとは思えなかった。それに、三島さんのことだって……」


 そこまで言いかけて、湊は突然私の口を手で抑えてきた。「バカっ、お前声がでかいよ。今朝の事は元々全部話すつもりでいるから、夕方までは辛抱しろ。それに、話すならどのみち当事者である沙羅を交えてからの方が話が早い」


 そう言ってから湊は何食わぬ顔で数人の男子たちの方へと向かい、楽しげに笑いあっていた。


 今日の作業が終わると、湊がすれ違いざまに紙切れを手渡してきた。


『十分後。部屋に行くから鍵開けといて』


 紙にはそう書かれていた。私が頷くのを確認してから湊はふっと廊下の奥へと消えていった。この施設でのルールの一つに異性の部屋に行くことは禁じるというものがある。当然のことながら湊と二人で横並びになって女子寮にある私達の部屋に入ることは出来ない。湊が渡してきたメモにはそういった意味があるのだろうと推察した。けれど、たとえ一人でも誰にも見られずに私達の部屋に来ることなど出来るのだろうか。とも思った。女子寮の廊下は長く、等間隔に部屋の中へと通じる扉がある。私達の部屋の両側にも、別の女子達の部屋があるのだ。バレてしまうと何かしらの罰則を受けなければならないはずだ。そういえば、今朝も誰にも見られずにこれたのかな、湊は大丈夫だろうかと部屋の中で一人待っていると、「よっ」と何食わぬ顔で入ってきた。


 私はすぐに自分が普段使っている枕をベッドから抜き取り、「良かったら、これ座布団代わりに使って」と差し出した。


「いや、俺は地べたでいいよ。とりあえず沙羅を待とうか。俺の予想だと、もうじき部屋に戻されるはずだから」


 湊の予想通り、それから約十分後に沙羅は扉を開けて入ってきた。沙羅は今朝も湊が部屋の中にいる姿をみていた為か、戻ってきても未だに部屋の中にいる湊をみても驚いた素振りはなかった。


「じゃあ、始めようか」


 丸テーブルを囲むようにして座る私と沙羅の顔に順に視線を送り、湊はゆっくりと口を開いた。

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