第一章 誰も、私のことなんて覚えてない。

第1話

 雪が降る日、私はひとりになる。


 空から雪が舞い落ちると、私以外の村で生きる全ての人たちは当日の記憶を失ってしまう。


 それに初めて気付いた時の私はまだ七歳で、身体も小さくて、それから十年先の未来の自分がさみしさに殺されそうになるなんて考えてもみなかっただろう。雪はいつだって世界を白く染めながら孤独を引き連れてくるのに、それを理解してなかったのだ。私は、愚かだった。


「ねぇ、昨日私と話したこと覚えてる?」


 物心ついた頃から今に至るまで幾度いくどとなく口にしてきたその言葉を初めて口にした時、皆が口を揃えて「覚えてない」「知らない」と言うものだから、きっと私は誰かの機嫌を損ねてしまい嫌われているのかもしれない、いじめられているのかもしれないと思った。


 でも実際は違った。現実は、もっと残酷だった。嫌われている訳でも、いじめられている訳でもなく、私という存在そのものが誰の記憶にも残っていなかったのだ。それは、全部、全部、雪のせいだった。


「ねぇ、さっき運動場に出た時にさ水縹草みはなだそうでお花の輪っかを新しく作ったからこれあげる」


 物心ついた頃から、私は“雪の妖精の子供”や”妖精の忘れ物“と呼ばれる子供達が集められた施設で暮らしていた。元々は修道院だったこともあり、外装はもとより、内装にもその名残りが至る所に残っており、子供の頃の私にとってのその場所は自分の家であり、西洋の名残が残るその建物はお城のようにも感じでいた。その中にある共有スペースで、自分の髪の毛先をくるくると回し遊んでいた沙羅に、私は満面の笑みを向けてからそれを手渡した。


 水縹草は雪が降る日にだけ咲く花で、その花弁は作り物のように鮮やかな水色を放っている。私は雪が舞い落ちる中、摘み取ってきた水縹草みはなだそうを用いて震える指先で茎を編み込み、沙羅さらが喜んでくれる顔を思い浮かべながら頭に被れる程の大きさの、お姫様が被る王冠のような形のそれを作った。


「ありがとう新奈にいな。すっごく嬉しい」

「良かった。沙羅が喜んでくれるかなって思って頑張って作ったの」

「新奈が一人で作ったの?」

「うん」

「花びらがこっちに向いてる感じとか凄く可愛い」


 沙羅は毛先に向けていた目をそれに移すと同時に手に取って喜んでくれた。のせてみるね、と艶のある綺麗な黒い髪の上に私の作ったお花の輪っかがそっとのせられると、目の前に眩い笑顔が咲いた。


「でも、どうして私にくれたの?」

「え?」


 思ってもいない事を言われ、声にもならない声が出た。


「だって、私……昨日沙羅と約束したから」


 前日の休憩時間にも私達は施設の運動場に出て、水縹草を使ってお花の輪っかを作っていた。雪が降り、空も地面も世界の全てが少しずつ白に染まっていく中、嘘みたいに綺麗な水色の花を咲かせる水縹草がより色鮮やかみえた。私と沙羅と愛莉あいり、他の数人の女の子達と、どうしたら輪っかが綺麗にみえるかな、花びらのかたちはこっちの方がいいよ、などと言いあって、寒さを和らげる為に身体を寄せ合いながらようやく完成した輪っかを頭に乗せた時には、皆が自然と笑み溢した。


 でも、そこに鬼ごっこをしていた男の子達がやってきて、最初はからかうようなことを言われ、私たちが言い返したものだから次第にヒートアップしていき、しまいには沙羅が頭に乗せていた綺麗な輪っかを取り上げてしまったのだ。


 それから、「なんだこれ」と男の子達はそれを引き千切り、私達の前に投げ捨てて走り去っていった。地面に横たわり、見るも無惨なかたちとなってしまった水縹草からは、茎の引きちぎられた嫌な音が未だに聞こえ続けている気がした。何度も、何度も、まるで叫び声をあげているかのように。私の鼓膜にそれがこびりついているのだと思って耳を塞ごうとした時、沙羅の悲痛な声が聞こえた。引きちぎられた輪っかを手に取り立ち尽くした沙羅は、空に向かって声をあげて泣いていた。


「沙羅、泣かないで」


 咄嗟に駆け寄っていた。周りにいた女の子達も心配そうな面持ちで沙羅をなぐさめる。大丈夫だよ、泣かないで、職員さんに言いつけてやろ? 皆が口々に言う。それでも沙羅が泣き止むことはなくて、大粒の涙が頬を伝い続けていた。ひらいた手のひらから引き千切られた花の輪っかであったものが、音もなく地面に落ちた。それと同時に、沙羅は崩れるように地面にしゃがみ込んだ。ちいさな背中が、小動物のようにまるくなって微かに震えてる。私は顔を覆い隠すようにして泣き続ける沙羅の背中をさすりながら意を決した。


「私が明日になったらまた新しいの作ってあげる」


 そう言うと、沙羅は顔を覆っていた両手をゆっくりと降ろした。


「ほんと?」

「うん。雨が降っても、雪が降っても、壊れた時は何回だって私が作ってあげる。ほら、約束」


 沙羅の前に小指を空の方へと突き上げた手を差し出した。その指に、沙羅のそれが結ばれる。


「新奈、ありがとう」そう言って、沙羅は口元の両端を持ち上げた。寸前まで泣いていたせいか、目尻から弾き出された涙がゆっくりと頬を伝っていく。その涙の通った道すらも白く染めようとしたのか、空から舞い落ちた雪が次々と触れては消えた。その儚さを、私はまだきれいだと思っていた。私は、まだ自分の置かれた状況を理解していなかったのだ。幼かったことも理由のひとつではあるけど、愚かだったのだと思う。


「ごめん新奈、そんな約束したっけ? それに男の子達が壊したって言うけど、昨日は運動場に出てないよ?」


 私が前日に起きた出来事を懸命に伝えると、目を丸くしたまま、沙羅はそう言った。きっと何かの冗談だと思った私は、曖昧に笑ってその場を流した。だが、それからというものおかしなことが次々に起きた。十二月も中旬になり、いよいよ冬が深まり雪が降り積もった。運動場は雪に覆われ、周りを取り囲む針葉樹林はかたちを残したまま同じように雪に染められて、白い三角形の建物みたいなものが施設の周りに立ち並んでいるようにみえた。大人も、子供も、皆が「雪の妖精が雪を積もらせてくれたんだ」と目を輝かせながらそれをみつめていた。


 私が住む冬の帳村ふゆのとばりむらには遥か大昔から伝わる言い伝えがあり、雪が降る日には妖精が現れ身の回りに悪戯をするが、その者にはいずれ幸福が訪れるのだと、物心ついた頃からそう聞かされていた。だから私は、雪を積もらせてくれたのもきっとその妖精のおかげなのだと、信じていた。それは、私だけではなく、村で生きるすべての人達がその言い伝えを信じていた。雪は妖精が降らせるもの。これは、この村で生きる人達の言わば常識のようなものだった。


 私も妖精に感謝はしていたけれど、その前日も、前々日も、今の皆と同じように喜んでいた為に、そんな風にまるで初めてみたように喜ぶことは出来なかった。翌日、昼食の後に施設の職員さんから貰ったお菓子を皆で美味しいねと言いながら食べたのに、誰もそのことを覚えていない。


 言葉の授業は、前日も、前々日も、同じ内容で皆が初めて聞くような顔をして授業を受けている。何かが、おかしい。でもその理由が分からない。私は、突然知らない世界の中に放り込まれたかのような気持ちに駆られた。白くつめたいその世界の中で生きる私と、皆が生きている世界の間には、何かみえない膜のようなもので隔てられている。そんな気がしたが、私はその世界から出るすべを知らない。訳が分からなかった。ただ凍りついていく胸の中で、私は叫び声をあげた。さみしい。こわい。誰か、助けてよ。ちいさな身体の中に抱えきれない程の不安とさみしさを背負った私は、毎日のように施設中を駆け回り、皆に尋ねた。


 ねぇ、昨日私と話したこと覚えてる? 沙羅、昨日ね、すごく面白いことあったんだけど、誰も覚えてみたいなの。私と話したこと覚えてる人いる? 先生、昨日も一昨日も授業が同じなのはどうしてですか? 皆、雪の妖精がノートに書いたって言うんですけど、私これに自分で書いたの覚えてるんです。沙羅、私と遊んだこと覚えてる? ねぇ、覚えてるって言って! 私、皆に何か嫌われることした? どうして、ねぇどうして。お願いだから、もう一人にしないで……。謝るから。何か皆にしたなら謝るから。知らないとか、覚えてないとか、言わないでよ。ひどいよ、皆。誰か……助けて。 


 一ヶ月、二ヶ月と、そんな日々を過ごす内に、私はあることに気付いた。皆が記憶を失う時には、いつも決まって窓の向こうで雪が降っていたのだ。雪だ。きっと、雪のせいだ。雪が降ると、翌日にはその日に起きた出来事を皆忘れてしまっている。誰も、私のことを覚えてない。話した内容も、私と過ごした時間も、何もかも。あれだけ毎日のようにさみしさを訴えかけていたという事実すらも翌日には手のひらに舞い落ちた雪のように溶けて消え、自分の身体の輪郭が徐々にあやふやになっていくような気がした。どうして皆が雪が降ると記憶を失ってしまうのか、どうして私だけが当日に起きた出来事を覚えているのか、それは分からなかった。でも、ひとつだけ確かなことがある。それは、雪が降る日に私はひとりになるということだ。


 私は、ひとりだった。独りぼっちだった。私のことを皆が嫌いになって、いじめられていた訳ではないのだという安心感や嬉しさのようなものは、すぐにその胸に降り積もったさみしさの下に埋もれた。


 それからというもの、雪が降る度に泣いた。窓の向こうで白いちいさな塊が空から舞い落ちているのがみえただけで身体の震えが止まらなくなり、立てた両膝の間に顔を埋めて、それが治まるまで耐えた。二月の終わりには、私は笑うことすら出来なくなっていた。冬の間、毎日雪が降っていた訳ではなかったから、皆が私と過ごした時間を覚えてくれる日もあった。けれど、いつか降るんじゃないか、降れば私はまた忘れられる。そんなことを冬が訪れる度に考えている内に、三年が過ぎ、五年、十年と何度も季節は巡り、いつしか私は自分の胸の中に降り積もるものがさみしさではなく孤独だと知り、雪が降る度に死にたいと思うようになっていた。


 それから十年が経っても、私は氷のようなつめたさを孕んだ地獄の中にいた。肉体だけが月日の流れと共にかたちを変えていったけれど、心はずっとあの頃から止まったままで、十年という歳月を過ごしたと言うよりは、同じ一年を十回繰り返してきたようだった。一体いつになったらこの地獄から抜け出せるのだろう。私は、一刻も早く氷のような冷たさを孕んだこの地獄から抜け出したい。そんなことを考えていると、ふいに雪のにおいがしたから目を向けた。音もなく、はらはらと舞い落ちる雪は、その年の初雪で、私にとっては十八回目の冬が訪れたことを知らせた。

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