雪忘花

深海かや

プロローグ

「指先で触れた雪のつめたさは、まるで私の胸に降り積もる寂しさみたいでした」


 目を見ながらそう言うと、正面のソファに座る近藤と呼ばれる男性は「はあ」と間の抜けた声を漏らした。ぽかんと口を半開きにし、怪訝けげんそうな顔を浮かべている。


「というと?」

「雪のつめたさと寂しさは、同じ温度だということです」


 語尾を強めて言った。すると、近藤さんはついに顔をしかめた。私は伝わらなかったのだと思い、慌てて「確か、初めてそれに気付いたのは七歳の冬の終わりのことでした。今から十二年前のことですね」と付け足した。


「あの、新奈にいなさん。詩的な表現だと分かりにくいので、もう少し具体的に説明して頂けると助かります」


 近藤さんは、申し訳なそうに目尻を下げる。そこに深い皺が刻みこまれた。年は四十代くらいだろうか。浅黒い肌に丁寧に短く整えられた黒い髪。優しげな笑みを会話の節々に溢してくれる、人の良さそうな人だった。近藤さんとは電話で二回話しだけで会うのは今日が初めてだ。証言者の一人として呼ばれていた私は、部屋に通されるやいなや簡単な自己紹介のようなものは全て取っ払い、会って早々に“雪の妖精の子供”として村で過ごした十八年間の日々を尋ねられていた。


「すみません。東京に来てからまだ二日しか経っていないので、こっちに住んでいる人と話すことに慣れていないからだと思います。変ですよね、私。自分でも変な喋り方だなって思いました。最近まで村の人達としか話したことがなかったので少し緊張してるのかもしれません」


 ちいさく頭を下げる。それから、どこに視線を置いたらいいのか分からなくなって、意味もなくテーブルの上に置かれていたスノードームをみつめた。


 水色の台と密着しているガラスで出来た球体の中には小さな世界があって、その中には木造の小さな家がぽつんと一つ。それからその庭先で舞い落ちる雪を見つめる人が二人いた。みながら、まるで以前まであの村で暮らしていた私達のようだと思った。私達は、小さな村の中にある、更にちいさな世界だけが世界の全てだと思って生きてきた。


「ああ、それは娘が先日の私の誕生日にくれたものなんです。こうやって逆さにすると」と近藤さんは目尻を下げながら、それを手に取り小さな世界をひっくり返した。元の向きに直してから机の上に置かれると、その世界が雪で白く染まった。


「綺麗でしょ?」

「……ええ、そうですね」


 近藤さんに通されたその部屋は、中央にガラス製のテーブルがあり、私達はそのテーブルを挟むようにして向かい合わせでソファに腰掛けていた。部屋の奥にあるもう一つ机の上には乱雑に書類が置かれていたり、片隅に置かれた大きな観葉植物は窓から差し込んだ陽の光を弾いていたりと、私の住んでいた施設とは違ってどこか人間臭さがあって落ち着いた。新宿駅から徒歩五分。お世辞にも綺麗とは言えない雑居ビルの三階にこの部屋はあり、近藤さんは優秀なジャーナリストだと紹介されていた。


「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」


 問い掛けると、近藤さんはちいさく頷いた。


「どうして私の話を信じてくれるんですか?」


 近藤さんには、証言者として顔を合わせるまでに大まかな内容を電話で伝えていた。にわかには信じられないような、まるでおとぎ話のような話を。


「話というのは、どれのことです? あなたの住んでいた村では雪の妖精の言い伝えがあるということですか? それとも、雪が降る日にはあなた以外の村で生きる人達全員が記憶を失うということですか?あるいは──」

「全部です。私が近藤さんにお伝えした話、全てのことです」


 言葉を被せるようにしてそう言うと、「この仕事を長年続けているとね、分かるんです」とポケットから再び何かを取り出した。机の上に、長方形の細長い機械が置かれる。私が物珍しそうにみていたのが分かったのか、ICレコーダですよ、と近藤さんは言った。


「それは何をするものなんですか?携帯電話みたいなものですか?」


 村ではみたことがない。


「声を、録音するものです。今からあなたの証言を記録として取るものですよ」

「……記録として」


 言いかけて、突如不安な気持ちに駆られた。


「あの、本当に私の名前や友人の名前は記事には出ないんですよね?」

「勿論です。情報源は決して明かしません。ここで聞いた話は、あくまで記録として取るだけで、あなたやあなたの友人、村で生きる全ての方のお名前や年齢、容姿、など全て伏せて記事にしますので」


 本当に信じてもいいのだろうか。近藤さんのことをよく知らないということもあって、私はまだ心から信じ切るということが出来ていなかった。村を出たのは、二日前。呪いというような安易な言葉は使いたくないが、その言葉でしかあの村のことを表現することは出来ない。だが、そんな村には未だに私よりも年齢の低い子供達や友人だって住んでいる。だから、危害が及ぶようなことなど絶対にあってはならないと思っていた。


「さっきの話を続けてもいいですか?」


 問い掛けられ、戸惑いながらも小さく頷いた。


「この仕事を長く続けていると、いろんな話を見聞きします。巨大企業の陰謀や人の裏側、心の奥底で眠る人間の醜さや黒い部分。それから、にわかには信じられないような話まで。そういった話を当事者に取材し続けていると、分かるようになるんです。その人が本当に真実の話をしているかどうかということが。目の動きや瞳孔の開き方、あるいは口元の歪みや声のトーンまで。人は話しながらそれが真実か嘘かという情報を常に相手に与えています。今こうしてあなたと話している間、僕はずっとその情報を頂いていました。電話で話している時からそう思っていましたが、今日こうしてお会いしたことで確信しました。あなたは、何一つとして嘘はついていない」


 その通りだった。私は、何一つとして嘘はついていない。私の住んでいた村には、雪が降る日は雪の妖精が現れるという古くからの言い伝えがあり、その妖精の子供として私は十八年もの間生きてきた。いや、私だけじゃない。あの村で雪が降る日に生まれた子供達は皆この世で産声をあげた時から“雪の妖精の子供”や”妖精の忘れ物”と呼ばれ、私と同じように村の外れにある施設に預けられて生きてきたのだ。白く染まった雪原の中を走りぬけた先で、指先で触れた雪の冷たさを思い出した。降り積もったさみしさや、十八年耐え続けてきた孤独な日々も。何かが、胸の中から込み上げてくる。


「近藤さん、私が証言をすることで本当に皆が救われるんでしょうか?」


 村や施設で過ごした記憶が頭の中を駆け巡り次第に感情が高まってきたせいか、気付けば私は机の上に身を乗り出して、そう訴えかけていた。近藤さんはゆっくりと目を閉じて、それから瞼を持ち上げるのと同時に山間から昇る陽のような光を目に宿した。「ええ」と呟く。


「あなたの証言は多くの子供達を救うことになります。今を生きる子供達も、亡くなってしまった子供達すらもです。新奈さんがおっしゃるようにあの村は呪われているのかもしれません。そして、その村の中にある、あなたが物心ついた頃から過ごしてきた創設100年を超えるあの施設から生きて出た子供は、新奈さんをいれてたったの数十人。あの施設が行なった事は、まさに悪魔の所業です。こんな事が許されていいはずありません。僕はあなた方の身に起きた全ての出来事を記事にします。だから、力を貸して下さい」


 すぅっと、和紙に水が染みていくように胸の中に入り込んできたその言葉が、妙にかたちを保ったまま残った。私はその欠片を拾い上げてから、一度委ねてみようと思った。信じ切るにはまだ値しないけれど、私が証言をすることで一人でも多くの人が救われるなら、もう迷いはしない。初めから迷う必要などなかったのかもしれない。今日、ホテルの部屋を出た時には私は全てを証言するつもりでいたのだから。


「分かりました。どこから話せばいいでしょうか?」


 正面から目をみて言う。全てを終わらせてしまおう。


「お好きに話して頂いて大丈夫ですよ。疑問に思った所は、こちらから質問させて頂きますから」


 私達のような思いをする人を、もう二度と生まない為に。


 さぁ始めましょうか、と近藤さんはうっすらと笑みを浮かべる。持ち上げられた右手がICレコーダへと伸びて、乾いた電子音が鼓膜に触れる。私は何気なく、再びスノードームに視線を送った。ガラス製の球体の中には小さな世界があって、勢いは先程よりも弱まってはいるものの、今もはらはらと舞い落ちている。みながら、雪が降る日々を思い出す。同じような色の雪が降り積もる村での記憶。氷のようなつめたさを孕んだ日々だった。大きく息を吸い込んで肺の中に新鮮な空気を取り入れる。それから、ゆっくりと口を開いた。


「雪が降る日にだけ咲く花を、みたことがありますか?」


 私の放った声は、すぐさま部屋の壁に吸い込まれ溶けていった。その壁の向こうに、私は雪で覆われ白く染まった村をみた。

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雪忘花 深海かや @kaya_hukami

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