4
衝撃が来ると思った。自分にとどめを刺す一撃が。
だが、それは訪れなかった。
止めた? なぜ? 腑に落ちないサイファーの耳に、激しく咳き込む声が届いた。
まさか、と眉をひそめる。〈レーヴァティン〉から放出されていた強烈な熱が、いつの間にか消え失せていた。
咳き込む声は、時おり何かを吐き出すようにくぐもる。それが荒い呼吸に変わったとき、サイファーは口を開いた。
「おいお前、何をやっている」
相手はぜえぜえと喘いでいて、サイファーの問いには答えない。
「なぜやめた。ラグナ」
「ラグナじゃねえ」
苦しそうに息をしながら、ようやく返事をした。
「俺はエヴァンだ」
予想が当たって、サイファーは舌打ちする。
どういう原理が働いたのか知らないが、ラグナはサイファーではなく、自分自身を殴り飛ばしたのだ。その衝撃で、人格が入れ替わったらしい。
「どういうつもりだ、え? 元に戻れよラグナ」
「嫌だ、クソッタレ」
ぶっと唾を吐く音。吐いたのは血かもしれないが。
「これが俺だ。二度とラグナって呼ぶな!」
どうやら本当にエヴァン・ファブレルに戻ったらしい。サイファーは忌々しげに唸り、よろめきながら立ち上がった。
「お前はラグナ・ラルスだ。違う名を名乗り、違う人格になったとしても、何も変わらないぞ」
「それでも俺はエヴァンだ。ラグナには戻らない」
ラグナ――エヴァンの気配が動く。
「俺は三ヶ月前に目を覚ました。起こしてくれたのはヴォルフと先生。サウンドベルのアパートで生活して、亀を一匹飼ってて、人のいいご近所さんと生意気なガキンチョに囲まれて暮らしてる。ヴォルフの店を手伝って、嫌味で乱暴でドSな鬼畜眼鏡とコンビ組んで、メメントを退治する〈
エヴァンの熱反応が高くなった。だが〈レーヴァティン〉には程遠い、中程度の熱反応だ。〈イフリート〉が起動したのである。
サイファーもまた〈ハイドラ〉を起動させた。ラグナとの決着がついていないというのに、しゃしゃり出てきた〝エヴァン〟が憎らしい。
「そうかよ。なら、ケリをつけようぜ。エヴァン」
エヴァンが〈イフリート〉を構えて仕掛けてきた。スピードも攻撃も、ラグナの時に比べて遥かに劣化している。加えて、人格を戻す際に自分自身に与えた一撃が、相当に効いているらしい。感じ取る気配は隙だらけだ。
これでは、満たされない。
戦いは、サイファーに分が傾きつつあった。双方体力の限界に近い状態だが、戦うことへの執着が強いサイファーの方が優勢だ。
サイファーは、エヴァンの胴に隙が生まれた瞬間、〈ハイドラ〉を叩き込んだ。エヴァンが苦しげに呻き、たたらを踏んでよろめく。その熱反応が、ふっと掻き消えた。
どうやら高低差のある所で足を取られ、下に落ちたようだ。
這い上がって来るかと思い、しばらく様子を見た。だが一向に気配は近づいてこない。
さては打ち所が悪くて死んだのだろうか。そんな終わり方は本意ではない。サイファーは、エヴァンが落ちたであろう付近まで移動した。
異変に気づいたのは、そのときだ。周囲の空気が、急激に冷え込んできたのだ。肌を刺すような冷たい風が吹きつけ、地面が凍りついていく。
(なんだ……?)
あたりの熱反応を探ろうとするも、極地の如き冷気が、サイファーの感知能力を狂わせる。
突如、周辺に吹雪が発生した。熱感知能力に依存した彼の感覚は、たちまち外界から遮断された。
サイファーは皮肉な笑い声を上げた。そういえば、あいつには相棒がいたのだ。小賢しそうな仲間が。
まとわりつく濃い冷気の向こうに、ほんのわずか気配を感じ取った。サイファーはそちらに身体を向け、〈ハイドラ〉を構えようと態勢を変える。
だが、一歩遅かった。
冷気の中から熱い塊が現れる。避ける暇はなかった。
迫り来る攻撃が届くまでの時間、サイファーにはその間が長く感じられた。それだけ猶予があるのなら避けられようものを、自分でも分からない何かに圧倒され、動くことができなかった。
(まだ、足りねえ)
灼熱の拳が勢いを増す。
(まだ、暴れ足りねえ)
〈イフリート〉の殴打がサイファーの顔に、胴体に、顎に繰り出された。打撃を受けるたび、サイファーは後方に押されていく。三発目の拳を受けたとき、足元ががくんと崩れた。
身体が宙に浮く。波の音と潮の香りがサイファーを包み込んだ。
絶壁から落下するサイファーの腕を、エヴァンはすんでのところで捕らえた。腹這いになったエヴァンのハンドワイヤーで支えられ、宙ぶらりんに
なっているサイファーを見下ろす。
「お前、何をやっている」
感情の汲み取れない口調で、サイファーは言った。
「おい、どういうつもりだ。情けをかける気か、え?」
「うるせーよバーカ! 文句言う気力があったら、さっさと上がって来い! 重いんだよテメーは!」
なぜサイファーを助けたのか、エヴァンは自分でもよく分からなかった。考えるより先に、身体が動いていたのである。
「聞いてんのかよ! こっちも疲れてんだ、早くしろ!」
戦いのダメージはまだ回復せず、ハンドワイヤーだけでは、サイファーの長身を支えきれない。
サイファーは、瞼の閉ざされた顔を上げ、口の端を歪めて笑う。
「どうしようもない馬鹿だ、お前は」
ハンドワイヤーが掴んでいたサイファーの腕が、〈ハイドラ〉に変形して発砲した。エヴァンは条件反射で、サイファーからハンドワイヤーを離してしまった。その反動で尻餅をつく。
「サイファー!」
慌てて断崖絶壁から半身を乗り出した。真下の海は荒れていて、白波が絶壁に打ち寄せている。青黒い水面の中に、憎たらしい長身の姿がないか、目を凝らして捜したが、どこにも見当たらなかった。
呆然となるエヴァンの背後から、足音が近づいてくる。振り返ると、壊れた〈ブリゼバルトゥ〉を片手に、レジーニが立っていた。
相棒が駆けつけたのは、エヴァンがサイファーに叩きのめされ、段差から転げ落ちたときだ。
サイファーの熱感知能力を狂わせるため、レジーニはブースターを装着した〈ブリゼバルトゥ〉のエネルギーを、最大限に引き出したのだ。
彼のサポートのおかげで勝つことが出来たが、代償として〈ブリゼバルトゥ〉はオーバーヒートし、破損してしまった。
「片付いたようだな」
と、レジーニ。
「ああ、うん……」
「浮かない顔だな。十年振りに再会したかつての仲間を倒したわけだから、まあ無理もないだろうけど」
「よく分からねえんだよ、自分でも」
「そうか」
レジーニは軽く頷くだけで、深く追求しなかった。
「アルフォンセを迎えに行ってやれ。彼女も自分の戦いに決着をつけようとしている」
アルフォンセがいるはずの部屋は、鍵がかかっておらず、中に彼女の姿はなかった。コンピューター画面は立ち上がったままになっていた。
部屋の中に、身を隠せるような場所はない。一体どこへ行ってしまったのか。室内を見渡すエヴァンの視界に、窓の外の波止場が映る。
〈スペル〉と爆薬が積まれているはずのクルーザーに、アルフォンセが乗っていた。こちらに気づいて手を振っている。
「アル! なんであんな危ない所に!」
エヴァンは部屋を飛び出し、波止場に急いだ。後からレジーニも続く。
アルフォンセは、波に揺られてぎしぎしと軋むクルーザーの甲板に立っていた。
「アル、早く降りて! 爆薬が積んであるんだぞ!」
エヴァンは手を伸ばして脱出を促したのだが、アルフォンセは首を振って拒んだ。
「駄目、まだ終わってないの」
「え?」
「〈スペル〉のシステムを完全に破壊するには、本体の補助システムまで停止させないといけないの。それは遠隔操作じゃできないのよ」
「わ、分かった。俺もそっちに行く」
エヴァンはクルーザーに飛び乗り、アルフォンセとともに船内に降りた。
内装の豪華な船室には、不釣合いな機械の塊が中央に据えられていた。機械の塊には無数のコードがつながっており、そのうちの数本が、横に置かれた時限式ダイナマイトの束と接続されている。
「あともう少しなの」
アルフォンセは〈スペル〉の前に膝をついた。〈スペル〉の操作盤に触れ、エヴァンには理解できない作業を始める。
レジーニも船内に降りてきた。相棒はひと目で状況を理解したようだ。
エヴァンとレジーニが見守る中、アルフォンセは急いで作業を進めた。麗しい顔立ちに険しい表情を浮かべ、一心不乱に〈スペル〉と向き合っている。
しばらくして、険しかったアルフォンセの顔に、安堵の色が浮かんだ。
「終わりました」
「システムは?」
「大丈夫、全部壊れたわ」
一件落着かと思われたが、安心するのも束の間、レジーニが不穏な声を上げた。
「まずい、時限装置が動き出した」
「マジかよ!」
見れば時限装置のデジタル数値が、三十秒からのカウントダウンを開始している。
「逃げるぞ!」
レジーニが先に立ち、エヴァンはアルフォンセの手を引き、急いでクルーザーから脱出した。波止場に降り、全速力でできる限り離れる。
海を揺るがす凄まじい爆発音が、波止場中に響き渡った。エヴァンは爆風からアルフォンセを守るため、とっさに彼女を背後から抱きしめた。
爆発したクルーザーは、破片を撒き散らしながら炎上した。積まれていた〈スペル〉も巻き込んで。
アルフォンセはエヴァンの腕の中で、炎に包まれたクルーザーをじっと見つめた。父親の形見とも言える装置を、自らの手で葬ったのだ。彼女がどんな想いでいるのか、エヴァンには推し量ることができなかった。
平和を願って造られた装置は、クルーザーとともに、やがて海に沈むだろう。
「やれやれ、今日はタダ働きか」
はあ、と大袈裟にため息をつくレジーニが、そんな嫌味を口にした。雰囲気を台無しにされたエヴァンは、小さく舌打ちする。
「そういうことを言うなよ。第一、助けに来てくれなんて誰が言った?」
「ああ、たしかにお前は、僕には頼らないと豪語していたな。ところがどうだよ。結局僕まで出張るはめになったじゃないか。僕が動かなかったら、お前は負けていたかもしれないし、図書館内にいる人々も助からなかったかもな」
「はあ?」
「レジーニさんの取り計らいで、図書館に仕掛けられた爆発物は除去されたの」
と、アルフォンセ。彼女を見下ろすと、自分の言葉を肯定するように、こっくりと頷いた。
「そうなんだ。あ、ありがと」
「なんでお前から礼を言われなきゃならないんだ、気色悪い」
言い捨て、レジーニが歩き出す。エヴァンとアルフォンセも、彼に続いて歩き始めた。
「まったくお前はトラブルしか持ち込まないな。余計な事にすぐ首を突っ込んで、人の話も聞かずに暴走する。もう少し頭を冷やして考えたらどうなんだ。その行動がどんな結果を招くのか。ああ、考える頭はなかったんだっけな」
「最後のはどう考えても悪口だけど、今日は言い返せないから謝っとくわ。ごめんな」
「そのせいで、見ろ。僕のブリゼが台無しじゃないか。クロセストを修理できる
「なんとなく理不尽さを感じるんだけど」
「正当なペナルティだ。数々の暴走、僕に対する不逞な言動、ブリゼのオーバーヒート。枚挙に
「ええ? そ、そうだな」
前方にレジーニの電動車が見えてきた。
「『死をもって謝罪』?」
「違う」
レジーニはエヴァンを一瞥し、運転席に乗り込む。
「『次で挽回』だろうが」
図書館の人々の無事を確認し、ヴォルフへの報告を済ませたエヴァンが、アルフォンセと共にアパートに戻って来られた頃には、陽もすっかり暮れていた。
アパート前まで来ると、突然マリーが玄関から飛び出してきた。帰ってくる様子を、部屋の窓から見ていたのだろう。
駆け寄ってくる少女のいじらしい姿に、エヴァンは思わず胸を打たれて両手を広げた。
しかしマリーは、エヴァンの腹に渾身のパンチを食らわせ、アルフォンセに抱きついた。
少女とはいえ不意打ちであり、また絶妙なところに拳がめり込んだため、予想以上のダメージを受けたエヴァンは、世の理不尽さを嘆きつつ、その場に崩れたのだった。
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