4
気がつくと、エヴァンはアパートの前にいた。どこをどう歩いてきたものか、さっぱり記憶にはないが。
屋上から落とされたエヴァンだが、幸いにも落下地点が植え込みだったため、たいした怪我も負わずにすんだ。
外傷はなかったものの、その代わりひどく気分が悪い。身体中が熱を帯びていて、頭の中がぼんやりする。周りの音が遠くに聞こえる。
重い足をゆっくりと運び、エレベーターに乗った。すべての動作が、自分のしていることだとは思えないほどに、エヴァンの意識は遠かった。
エレベーターが十二階に到着する。壁を伝って歩き、自室を目指す。途中で、アルフォンセの部屋の前を通った。
ドアの向こうにいるであろう、彼女の姿を思い浮かべる。
「エヴァン」
名前を呼ばれた。彼女だろうか。
声のした方に顔を向けると、小柄な少女が立っていた。
「ど、どうしたの? すごく顔色が悪いわよ?」
「……マリー……」
少女の名を呟く。そこまでが限界だった。エヴァンの意識は完全に離れた。
「エヴァン!」
突然倒れた青年に駆け寄ったマリーは、彼の側に膝をついた。
エヴァンの顔色は真っ青だった。額はびっしりと脂汗をかき、呼吸が荒い。
マリーはどうすればいいのか分からず、うろたえた。
(どうしよう、どうしたらいいんだろう)
悪い病気にかかってしまったのだろうか。いつもの馬鹿みたいに元気で明るい面影はどこにもない。こんなに弱った姿を見るのは初めてだ。
何かしなくてはいけないが、何をしてやればいいのか思いつかない。祖父母は私用で出かけていて不在だ。部屋に戻って救急車を呼ぶべきだろうか。でも目を離している間に、エヴァンの身に何かが起きてしまったらどうしよう。
パニックになったマリーの両目に、みるみる涙が溢れてきた。
そのとき、すぐそばのドアが開いた。
「マリー?」
ドアから顔を出したのは、アルフォンセだった。マリーは涙あふれる目でアルフォンセを見上げた。
「エ、エヴァンが……」
状況を察したアルフォンセが廊下に出る。倒れて動かないエヴァンを見ると、息を呑んだ。
「な、何があったの?」
しゃがみこんだアルフォンセは、エヴァンの容態を調べ始めた。
「分かんない……すごく具合が悪そうで、急に倒れたの」
マリーは震える手で、アルフォンセの腕を掴んだ。
「ねえ、エヴァンどうしちゃったの? 病気なの? ど、どうしたらいいの? おじいちゃんもおばあちゃんもいないの」
不安で胸が潰れそうだ。
アルフォンセがマリーの手を取り、頭を優しくなでてくれた。
「大丈夫、私が診てみるわ。だから心配しないで」
「本当? アルが助けてくれるの?」
「ええ、やれるだけやってみる。だから、彼を部屋に運ぶのを手伝ってくれる?」
アルフォンセの真っ直ぐな瞳に、マリーの不安は少しだけ和らいだ。両目に溜まった涙を、手の甲で拭い、うん、と頷く。
それからアルフォンセと協力して、エヴァンを彼女の部屋に運び込んだ。成人男性を運ぶのは大変だったが、どうにかベッドに寝かせることに成功した。
「ありがとうマリー。あとは私にまかせて」
「あ、あの、あたしにできること、ある?」
そう申し出ると、アルフォンセは柔らかく微笑んだ。
「ううん、大丈夫。心配でしょうけど、具合が良くなったら教えるから、お部屋に戻ってて。もう時間も遅いわ」
「……うん」
手伝いたいというのは本心だ。だが、自分には何もできそうにない、とも分かっていた。マリーはアルフォンセに送ってもらい、素直に自室に戻った。
部屋に戻ったマリーは、お気に入りの猫のぬいぐるみを抱きかかえ、ベッドの上にうずくまった。
ベッドに横たわるエヴァンは、荒い呼吸を繰り返している。汗にまみれた顔は青褪め、かなり重症だと窺えた。
いつもの元気で溌剌としたエヴァンの、こんなに弱った姿を見るのは胸が苦しい。
(なにがあったのかしら)
エヴァンはマキニアンだ。マキニアンは、そう簡単に体調を崩さない。それが、ここまでの状態になるのだから、よほどのことが起きたに違いない。
エヴァンの身体の表面が、うっすらと光を帯び始めた。光は稲光のように瞬き、弾けては消え、また現れる。
「ノイズだわ」
マキニアンの身体に、深刻な異変が起きた場合に発生する現象である。アルフォンセは急いでクローゼットを開き、奥に隠していたものを引っ張り出した。
皮製の使い古したトランクで、中にはコンピューターや、周辺機器などが納まっている。ただし、世間に出回っているような機材とは、趣の異なるものだ。
アルフォンセはそれらの機材を、エヴァンが眠るベッドの側で広げた。
エヴァンの上着を脱がせて汗を拭き、首の後ろや二の腕の付け根にある接続孔にケーブルを挿し、コンピューターと繋げる。
立ち上げたコンピューターの画面に、エヴァンの状態を表示する映像と数値が表示された。
「力を貸して、お父さん、兄さん」
猶予はあまりない。アルフォンセは祈るように両手を組み、作業を開始した。
エヴァンの体調を崩させた原因を突き止めるのに、少々時間がかかってしまった。データを照らし合わせると、とんでもない結果が弾き出された。
「大変……、〈スペル〉を飲み込んでるんだわ!」
アルフォンセは慌てて、エヴァンの体内にある〈スペル〉の状態を調べた。時すでに遅く、〈スペル〉の内容物はカプセルの中から解き放たれている。
「急がないと」
こうなってしまっては、強制的に異物を排出させるしかない。飲み込んでからどのくらい経過したのか分からないが、間に合ってくれることを祈るのみだ。
トランクの中を探り、注射器と薬品ケースを取り出す。ケースから、薄水色の液体の入ったアンプルを取り出し、注射器にセットした。
エヴァンの首筋に注射器をあてがい、薄水色の液を注入する。これは〈スペル〉を吐き出させるための薬剤だ。効果はすぐに現れるだろう。
あとは体内に流出した異物を除去する薬が必要だ。薬品ケースから透明な黄色いカプセルを取り出そうとしたそのとき、エヴァンが大きな呻き声を上げた。
エヴァンがベッドの上でのた打ち回り始めた。胃や喉元を掻き毟り、苦しそうに歯を食い縛っている。
「我慢しちゃだめ! 吐いて!」
エヴァンの身体を横にして、用意していた洗面器を口元に近づける。何度も激しくえずくエヴァンの背中を、アルフォンセは優しくさすり続けた。
やがてエヴァンの口から銀色のカプセルが、吐瀉物とともに吐き出された。
エヴァンは再び横になり、荒い呼吸を繰り返した。
アルフォンセは、エヴァンの口の周りを拭って汚れを落とした。〈スペル〉を吐き出すのさえ苦しいのに、これから更に苦しまなければならないのだと思うと、エヴァンが気の毒だった。だが、助けるには他に方法がない。
「エヴァン、もうちょっとだから頑張って。これを飲んで」
黄色のカプセルを、エヴァンの唇に当てる。しかしエヴァンは、顔を背けた。無意識の拒絶反応だろう。
「お願い、口を開けて。これを飲まないと大変なことになるのよ」
アルフォンセは何度もカプセルを飲ませようと試みたが、エヴァンはその度に顔を背けて拒んだ。
もうこれ以上時間をかけることはできない。
アルフォンセはカプセルと水を口に含み、エヴァンの顔を正面に向け、唇を重ね合わせた。
アルフォンセの口からエヴァンの口へ、水と共にカプセルが移された。エヴァンの喉がうなる。カプセルを飲み込んだようだ。
アルフォンセは唇を離し、ほっと一息ついた。あとは異物を吐き出しさえすれば大丈夫だ。
カプセルの効果によって、連続嘔吐が始まったのは、それから間もなくのことだ。エヴァンは何度も嘔吐し、アルフォンセはそれを介護した。
嘔吐が収まったのは一時間後だった。体力を使い果たしたエヴァンは、ぐったりとして眠りについた。
アルフォンセは、エヴァンが眠ったのを見届けると、汚物の処理に取りかかった。吐き出された〈スペル〉をよく洗い、小さなケースに入れてトランクにしまう。
コンピューター画面上の、エヴァンのステータスを確認する。数値に変化はなく、安定している。ヤマは越えた。もう大丈夫だろう。
午後十一時を過ぎ、エヴァンの容態が回復したことをマリーに伝えるために、彼女が待つ部屋を訪ねた。ジェンセン老夫妻は帰宅していて、夜中の訪問にも関わらず、快く応対してくれた。
マリーは寝室で眠っていた。待ちくたびれたのだろう。ぬいぐるみをしっかり抱え、小さな寝息をたてていた。
アルフォンセはマリーを起こさないよう、そっとジェンセン宅を辞した。自室に戻り、マリーに宛てたメールを作成する。エヴァンは回復しているから安心していい、という内容を書き、彼女の携帯端末に送信した。
すべてが落ち着くと、自分の汗を流すために、バスルームに向かう。
適温のシャワーを浴びると、少し気持ちが落ち着いた。が、それも束の間のことだった。ボディソープで身体を洗う時、胸や腹を見下ろした途端、昼間の出来事が脳裏を過ぎった。
押し倒され、服を脱がされ、身体中を触られた恐怖。まだ誰にも見せたことのない身体だったのに、あんなふうに晒し者にされたことが、悔しくて悲しくてならない。エヴァンが助けに来てくれなかった場合を考えると、恐ろしくて震えてしまう。
(忘れよう)
触られただけで、それ以上の乱暴をされたのではないのだから、一刻も早く忘れてしまうことだ。アルフォンセは自分にそう言い聞かせた。
シャワーを終え、バスローブを纏う。髪をタオルで拭きながら、エヴァンの様子を見るために寝室に戻った。
マキニアンの青年の顔色は、先ほどよりも血色が良くなっていた。ノイズは収まり、呼吸も落ち着いている。ステータスも状態良好を示していた。
確実に回復傾向にあることを確認したアルフォンセは、ベッドサイドに腰かけ、眠り続けるエヴァンを見つめた。
彼が飲み込んでいた〈スペル〉は、通常のタイプよりも小さかった。明らかに、人間にも取り込めるように造られたものだ。アルフォンセの胸に、苦い思いが広がる。父がもっとも恐れていたことが、現実になってしまったのだ。
〈スペル〉は、あのサイファーという男が持っていたに違いない。エヴァンはどこかであの男と遭遇し、〈スペル〉を飲まされたのだろう。
自分に乱暴した、赤いゴーグルの男。あの男が父を殺した犯人だ。
長い間ずっと追い求めてきた、父の死の真相にようやく近づけた。
ずっと一人でやってきた。頼れる者はいなかった。誰も巻き込みたくなかった。だから、自分の力だけでやるしかなかったのだ。
だが、それも限界かもしれない。自分は非力だ。父を殺害した犯人を突き止めたところで、対抗できるはずもない。ましてや復讐など。
事実、昼間サイファーたちにさらわれたとき、手も足も出なかったではないか。
(この人が来てくれなかったら……)
身も心もぼろぼろに傷つけられ、命令に従わされていたかもしれない。
(あなたは、マキニアンだったのね)
助けに来てくれたあのとき、エヴァンの変形を目の当たりにしたアルフォンセは、彼がマキニアンだとすぐに分かった。驚きはしたが、怖いと思わなかったのは、相手がエヴァンだったからかもしれない。
初対面の印象がよくなかったとはいえ、改めて見るエヴァン・ファブレルという人物は、実にまっすぐで純真そのものだ。他人との衝突を恐れず、正面から向き合う。そのひたむきさが、アルフォンセには眩しかった。
他人とぶつかり合うことを怖がらなければ、今頃は違った人生を歩んでいただろうか。過去に囚われず、自分自身の幸せを追い求めていけただろうか。
――君が好きだからだ。
エヴァンの告白はストレートで、甘い言葉も、ロマンチックな比喩表現もない。だからこそ、まっすぐ心に響いた。
本音を言えば、嬉しかった。けれど、アルフォンセの背負う使命感が、彼の想いを受け入れることを、よしとしなかった。
もしも自分に何の義務もなかったら、素直に彼を愛せたかもしれない。
規則正しく呼吸するエヴァンの唇に視線が移る。アルフォンセは自分の唇に触れた。
さっきは無我夢中だったが、思い返せば、あれが初めてのキスだった。
急に恥ずかしさを覚えたアルフォンセは、頬と耳を真っ赤に染めて、そそくさとベッドを離れた。
替えのブランケットを持って、ベッドの反対側に置いてあるソファに横たわる。
コンピューターの作動する音だけが低く響く中、アルフォンセもまた眠りに落ちた。
*
香ばしい匂いが空腹を誘う。これは何を焼いている匂いだろうか。ベーコン? ブラックペッパーの香りもする。弾けるような音は、卵?
無意識に鼻がひくひく動いて、美味しそうな匂いの源を求める。腹が、ぎゅう、と鳴った。
空腹と、それを訴える自分の腹の音で、エヴァンは目を覚ました。
両目を開けた直後は、どこにいるのか一瞬分からなかった。自分の部屋に似ている気がしたのだが、雰囲気はまるで違う。
寝たまま視線を巡らせる。腕にケーブルが挿し込まれている。首筋に手をやると、そこにもケーブルが挿入されていた。ケーブルは、コンピューターなどの機材とつながっている。コンピューターのモニターには、マキニアンのステータス画面が表示されていた。
(俺、たしか、サイファーに何か飲まされて……)
やっとの思いでアパートに帰り着いたところまでは覚えている。その後の記憶は、ぷっつりと途絶えていた。
エヴァンはケーブルを引き抜き、ベッドから起き上がった。足腰はしっかりしている。全身のだるさもない。あれだけ具合が悪かったのに、すっかり回復していた。
上半身は裸だった。服はベッドのすぐ側に、きちんと畳んで置かれていた。洗濯までされている。
服を着て、よい匂いをたどっていく。着いた先はキッチンだ。ほっそりとした後ろ姿が、そこにあった。
じっと見つめていると、こちらを振り返った。片手にフライパン、もう片方の手にフライ返しを持ったアルフォンセである。
彼女はエヴァンに気づくと、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「おはよう」
フライパンの中身――ベーコンエッグ――を真っ白な皿に盛り付けながら、アルフォンセがエヴァンに尋ねる。
「具合はどう? 頭痛くない? 吐き気は?」
「あ、ああ。うん、もうなんともない。君が助けてくれたの?」
アルフォンセは少しはにかんだ表情を見せた。
「私にやれることをやっただけ。お腹空いたでしょう。朝食、あと少しでできるから、先に顔を洗ってくるといいわ。タオルは用意してあるから」
勧められるままに洗面所へ向かう。冷たい水で顔を洗うと、眠気はすっかり失せ、気分もよくなった。
ハーブ系のさわやかな香りがするタオルで、濡れた顔を拭く。そのときになってようやく気づいた。ここはアルフォンセの部屋だ。
彼女の部屋で、二人きりの朝。
男女の甘い夜を過ごしたわけでもないのに、置かれているシチュエーションに、妙にドキドキしてしまう恋愛初心者であった。
キッチンに戻ると、朝食の支度が整っていた。清潔なチェック柄のクロスと、無地のランチョンマットが敷かれたテーブルに、二人分の朝食。コーンブレッドと、ブラックペッパーを散らしたチーズ入りのベーコンエッグ、レタスとトマトのサラダ、じゃがいものスープ、ソテーしたマッシュルームにオレンジジュース。
献立としては、ごく一般的な朝食のラインナップなのだが、いつも大盛りのシリアルか、マーケットでまとめて買っているチルド食品で済ませているエヴァンにしてみれば、宝石のように輝くご馳走だ。
「これ、全部食っちゃっていいの?」
「どうぞ。そのために作ったんだもの。口に合うといいんだけど」
アルフォンセが自分のために作ってくれた料理が、口に合わないはずがない。
「い、いただきます!」
エヴァンは着席するなり、さっそく朝食にかぶりついた。空腹だったこともあり、食が異常に進む。
予想通り、味は抜群だった。こんなにまともな朝食を食べたことが今まであっただろうか。感動で涙が出てきそうだ。
向かいの席に座ったアルフォンセは、エヴァンの貪るような食いっぷりを、慈愛の眼差しで見守りつつ、ゆっくりと食事を口に運んでいる。スープのおかわりを頼むと、大層喜んでカップに注いでくれた。
たらふく食べたエヴァンは、昨夜の災難など忘れて幸福感に浸った。アルフォンセは食事の後片付けをしている。その後ろ姿を眺めているだけで幸せだ。まるで恋人同士のようではないか。
「エヴァン? どうして笑ってるの?」
片付けを終えたアルフォンセが、不思議そうな顔でそう言うまで、にやにやしていたことにも気づかなかった。
「い、いや別に! なんでもないよ!」
裸エプロンまで妄想が暴走していたことは、口が裂けても言えない。
「そ、それより、まだちゃんとお礼言ってなかった。助けてくれてありがとう」
「いいえ。私の方こそ、あなたに助けてもらったわ」
首を振るアルフォンセは、エヴァンの向かいの席に座り直した。
「あのさ、俺、夕べどうなってたんだ? 何が起きたのか全然覚えてねえんだ。サイファーに呼び出されて、何か飲まされたんだけど。アル、どうやって俺を治してくれたんだ? 俺は……」
エヴァンの言葉の続きは、アルフォンセが継いだ。
「あなたはマキニアン。マキニアンが体調を崩した場合、一般的な医療技術では治せない。分かってるわ」
アルフォンセ深海の瞳が、まっすぐにエヴァンを見る。迷いのない、澄んだ眼差しだ。
「あなたにすべてを話します」
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