レジーニのマンションを辞した後、アルフォンセは一度図書館に戻りたいと言った。

 あんなことがあった直後である。いつまた連中が襲ってくるか分からない。危険だから戻るのはやめた方がいい。エヴァンはそう答えたのだが、みんなが心配するといけないから、無事な姿だけでも見せておきたい、という彼女の主張を退けることはできなかった。

 結局、エヴァンは図書館まで付き添うことにした。

 図書館に戻り、アルフォンセが姿を見せると、彼女の同僚であろう女性職員が数名駆け寄ってきた。アルフォンセがさらわれる様子を直接見た者はおらず、ただ急にいなくなった彼女を心配していたのだそうだ。

 そばについているエヴァンは、なぜか不振な目で見られた。まるでエヴァンが、彼女をかどわかした張本人だとでもいうような目つきだ。

 アルフォンセの顔色が良くないことを気にする同僚たちに、今日はもう帰っていい、と言われた。

 アパートまで送るため、彼女に付き添って行こうとしたエヴァンは、女性職員らに引き止められ、厳しい目で睨まれた。

「あの子に変なことしたら、私たちが許さないわよ」

 そんなに怪しい奴に見えるのかよ。少なからず傷つくエヴァンであった。



「ごめん」

 アパートに到着し、アルフォンセの部屋の前まで来たとき、エヴァンは彼女に頭を下げた。

「レジーニがひどいこと言って……あそこまで冷たい奴だとは思わなかった。ほんと、ごめん」

「あなたが謝ることなんてひとつもないわ」

 アルフォンセは、少し寂しげに微笑んで、首を横に振った。

「レジーニさんの対応は正しかったわ。事情を話もしない相手を信用することはできないもの」

「でも俺は、それでも君を放っておけない。もう無理に話してくれなんて言わない、俺をボディガードにしてくれ。金なんかいらないから」

 しかしアルフォンセは、首を縦には振ってくれない。

「そんな都合のいいことできないわ。事情を話せないのに守ってもらおうなんて、虫がよすぎるもの」

 アルフォンセの意思は固い。だがエヴァンも引く気はなかった。

「アル、なんで話せないんだ? 俺、そんなに頼りないかな」

「違う、そんなことない。それは違うわ」

「じゃあ、どうして」

 アルフォンセは表情を曇らせ、視線を落とす。

「知れば私を軽蔑するわ、きっと。あなたがマキニアンなら、なおさら」

「え……?」

 エヴァンは息を呑んだ。

 今たしかに、アルフォンセの口から、マキニアンという単語が出てきた。

 マキニアンの存在は、世間一般には知られていないはずなのだ。たとえアルフォンセの目の前で細胞装置を起動させたとしても、マキニアンという言葉が出てくるとは思えない。

 だが聞き間違いではないだろう。存在を知っていたからこそ、エヴァンの腕の変形を見ても動じなかったのだ。

「アル、なんでマキニアンのこと知ってるんだ? どこで知ったの? 君、一体……」

 一体何者で、何をどこまで知っているのか。近づきつつあったはずの二人の間に、大きな亀裂が生じたような気がした。

 アルフォンセは俯いたまま、問いには答えなかった。

「ごめんなさい」

 かすれ声でそれだけ告げた彼女が、部屋の中に消えていくのを、エヴァンはただ呆然と見ているだけだった。

 引き止めればよかったのかもしれない。嫌だと拒まれても、あの華奢な腕を掴んででも。

 だが、できなかった。

 ふと視線を感じて、そちらに少しだけ顔を向ける。マリー=アンが、部屋のドアをわずかに開けて、こちらの様子を窺っていた。心配そうな、不安げな顔で。何か言いたげに小さな口を開きかけたが、結局口をつぐんだまま、そっとドアを閉めた。

 どれくらいその場にいたのか分からない。やがてエヴァンは、重い足取りで廊下を渡り、自分の部屋に帰った。

 〈パープルヘイズ〉に戻る気にはなれなかった。



 ヴォルフから何度か着信があったものの、エヴァンは電話に出なかった。

 あらゆることに対する気力が失せていた。あとでヴォルフに拳骨を喰らい、怒られてもかまわない。今は何もかもがどうでもよかった。

 ベッドに身を投げ出し、何も考えず、ただ水槽の中の小亀の様子を、ぼんやりと眺め続ける。

 いったいどれほどの時間、そうやって怠惰に過ごしただろう。いつの間にか、外はすっかり暗くなっていた。

 携帯端末エレフォンの呼び出し音が鳴る。またヴォルフだろうか。画面を見て発信者を確認すると、非通知表示だった。一方的に切り、呼び出し音を止める。

 一分と置かず、また電話がかかってきた。今度も非通知表示だ。もう一度切る。

 またかかってきたので、すかさず切った。

 それでもしつこく、呼び出し音が鳴る。エヴァンは舌打ちして端末を取り、通話をONにした。

「何なんだようるせーな! 誰だ!」

 通話口からは、男の声が返ってきた。

『よう。いるならさっさと出ろよクソ坊主』


 

 十分後。

 エヴァンはとある商業ビルの屋上にいた。屋上には照明装置はないものの、周囲のネオンがビルごと闇夜の町を照らし出しているので、視界に問題はない。

 屋上の中央には、大きな影が佇んでいる。闇に溶け込んだようなその男は、エヴァンの接近に気づくと、くるりときびすを返してこちらを向いた。赤いゴーグルだけが、ネオンを反射して怪しく光っている。

「来たか」

 ロングコートのポケットに両手を突っ込む立ち姿は、隙だらけに見えた。しかし、不用意に仕掛ければ、たちまち返り討ちに遭うだろう。

「わざわざ呼び出して決着つけようってのかよ。案外律儀だな」

 エヴァンは両の拳を打ち合わせ、いつでも戦闘態勢に入れるように構えた。ところが、こちらのやる気とは裏腹に、相手は片手を上げる。

「まあ、そうはやるなよ。喧嘩しに来たんじゃあないんだ」

「本気の俺と喧嘩したいんじゃなかったのか。相手してやるからかかって来いよ」

「馬鹿言え。全然調子出てないだろうが。いいから落ち着け。俺が誰だか思い出したか?」

「もうお前が誰だろうがどうでもいい。アルに手を出す奴は全員敵だ」

「相当な惚れ込みようじゃないか。たしかにいい身体してたな。あれでお前を骨抜きに……」

 怒りにまかせて打ち込んだエヴァンの拳を、男は造作もなく片手で受け止めた。渾身の力で押すも、相手は微動だにしない。

「てめえ……絶対に許さねえ」

「安心しろよ。脱がしはしたが、何もしちゃいない」

 男は受け止めたエヴァンの拳をひねり上げる。エヴァンはその動きに合わせて態勢を変え、拳を引いて間合いを取った。

「俺はサイファーだ。サイファー・キドナ。名前を聞いてもまだ思い出さないのか」

 ゴーグル男ことサイファーは、やや首を傾け、視線を外して言った。

「どっかで会ったような気はするよ。それがどうした」

「なら、今から挙げる連中、覚えている奴全員言ってみろ」

「は?」

「黙って従え。ドミニク、ルミナス、ガルディナーズ、シェン=ユイ、ロゼット、パーセフォン、エブニゼル、シーザーホーク、ベゴウィック、ウラヌス。シェド=ラザ、ソニンフィルド」

 サイファーが挙げた名前の中には、記憶に残っている友人らの名前も含まれていた。しかしそれ以外は、どこか聞き覚えのあるような気がするものの、はっきりと思い出せなかった。

「どうだ。誰を覚えている。言え」

「……ドミニク、ガルディナーズ、シェン=ユイ、ロゼット」

 エヴァンは、懐かしい名前を口にした。 

 彼らは、粗悪体のエヴァンとも親しくしてくれたマキニアンたちである。〈SALUT〉が解散したと聞き、気がかりだったのは彼らの現状だ。ドミニクとガルディナーズは問題ないだろうが、ロゼットとシェン=ユイは幼かったからなおさら心配だった。

 エヴァンが答えると、サイファーは低く呻くように笑った。

「なんだよ、あいつらのことだけは覚えてるのか。十年も凍って寝てりゃ、記憶がおかしくなるのかねえ。都合よく、縁深かった奴らのことだけは覚えてるなんてな」

「俺が知るか。それより、みんながどうなったのか教えろよ。十年前に何があったんだ」

 自分が眠らされたあとに、一体何が起きたのか。それを聞ける相手は、この男しかいない。癪に障るが、エヴァンは我慢して尋ねた。

 しかし期待に反して、サイファーの回答は至極そっけなかった。 

「さあな。俺も他の連中のことは知らん。どうでもいい。ところでお前、今はエヴァンと名乗っているらしいな。だがよ、名前を変えて記憶が抜けてるからって、お前の本性が変わるわけじゃあねえんだぜ」

「何言ってんだお前……」

 エヴァンは眉をひそめた。自分の本性とはどういう意味なのだろう。

 サイファーはエヴァンと目線を合わさないまま、面倒臭げに語った。

 サイファーの視線とエヴァンの視線は、なかなか交わらない。エヴァンはそのことに、少し違和感を感じていた。

「お前の記憶が一部欠けている理由は、俺のあずかり知らぬことだ。まあ、おおかた〈イーデル〉の連中が小細工でもしたんだろうぜ。お前が目覚めた時、本来の能力を発揮できないようにするために」

 サイファーの説明に納得できないエヴァンは、顔をしかめてかぶりを振った。

「なんで俺にそんなことする必要があるんだ。俺は粗悪体だろ?〈SALUTサルト〉の中じゃ底辺だったじゃねえか」

「粗悪体? ある意味ではそうかもな。だが理由は粗悪体だからじゃない。お前が怖かったからだ。自分たちが創り出した怪物に、牙を向けられるのが恐ろしかったんだよ、あの馬鹿どもは」

 エヴァンには理解しがたい話だった。自分のことを粗悪体呼び、さんざん底辺扱いをしてきた〈イーデル〉の研究者たちが、その自分を恐れていたとは信じがたい。

 エヴァンの頭は混乱してきたが、サイファーは構わず先を続ける。

「〈SALUT〉を構成していたマキニアンは約五十人。その頂点に、もっとも強力な細胞装置ナノギアシステムを搭載する十一人で構成された少数精鋭部隊があった。そいつらは〈処刑人ブロウズ〉と呼ばれていた。さっき挙げた連中のうち、ユイ、ロゼット、ソニンフィルドを除く九人に、俺と、そしてお前を含めた十一人だ。それも忘れたか?」

 ブロウズ。

 その名前は、エヴァンの胸を深く突いた。知っている気がする。だが、思い出してはいけない。漠然とそう思った。

「〈処刑人〉……? 俺が? お前もマキニアンだって?」

「俺の正体なんざ、話の流れから分かるだろ。俺たち十一人は、軍部最強の部隊だった。メメント対策の戦闘員とはいえ、マキニアンは人間相手にも通用する戦闘能力を有する。これを、将来の脅威になる、と〈政府サンクシオン〉が判断したわけだ」

 サイファーが皮肉な笑みを浮かべる。

「怖くなったんだよ。飼いならしていると思い込んでいた兵器どもが、いつか〈政府〉にとって都合の悪い存在になりはしないか、とな。そのきっかけになったと思われる事案が、通称〝CASEケース40〟。お前の初陣だ」

「俺の、初陣……」

「そうだ。〈処刑人〉第四十番討伐作戦。それまでで最大級の任務だった。大型メメントと、そいつから生まれる小型メメントの群れを駆逐する作戦だった。大量に発生したメメントを倒したのはお前だ。お前が一人でやった」

 そんなはずはない。ありえない。エヴァンは口の中の渇きを覚え、何度も唾を飲み込んだ。

「お前の真のスペックは、接近戦特化の〈イフリート〉なんかじゃない。それはただのお飾りだ。お前は、より多くの敵をより速く討伐するために生み出されたマキニアンの一人なんだよ」

 エヴァンは信じられない思いで、自身の両手を見下ろした。目をつむり、サイファーの言葉を振り払うように、激しく首を振る。

「嘘だ、そんなわけあるか!」

「ならなぜ、お前は凍結睡眠コールドスリープにされたんだ? 答えは簡単だ、邪魔だったのさ、作戦にな」

「作戦って……」

「マキニアン抹殺作戦。〈政府〉保守派が、極秘に軍部に命じた作戦だ。その名の通り、俺たちマキニアンを殺すためのミッションさ。陸軍の大部隊が〈イーデル〉にある〈SALUT〉本部に乗り込んできた。そうして〈イーデル〉は戦場と化した」

 頭が痛い。心臓の鼓動が早くなる。

 考えるな。思い出すな。

「陸軍部隊の手によって、ノーマルクラスのマキニアンはほぼ全滅。生存者は〈処刑人〉全メンバー。そして〈SALUT〉の総司令官ディラン・ソニンフィルドだけだ」

「ちょっと待てよ! いくら軍隊の方が人数多いからって、マキニアンが五十人もそろって、それで全滅? ありえないだろ!」 

「ああ。通常なら、軍隊壊滅とはいかなくとも、全員脱出することは可能だったはずだ。だが、向こうは忌々しいことに、マキニアン対策を打ってきたんだよ。オートストッパーだ。マキニアンに付与された能力制御機能を逆手に取りやがったのさ」

 ああ、とエヴァンは肩を落とした。説明されなくても理解できたのだ。

 オートストッパーは、非武装の人間に対して細胞装置が起動しないように、マキニアン全員に課せられる制御システムだ。これを逆手に取るということは、つまり――。

「軍隊は、武装してなかったんだな」

 少なくとも、マキニアンと直接対決する際には、武装を解いていた、ということだろう。

 オートストッパーにより、出力が一般人並みに制限されてしまったマキニアンは、体得した戦闘技術のみで軍隊に立ち向かわなければならない。こうなると純粋な実力勝負であり、陸軍兵士の方がマキニアンの格闘技術を上回っていれば、マキニアンが敗北する可能性は充分にある。

「その通りだ」

 サイファーが頷いた。

「これが〈パンデミック〉の真実だ。最初から仕組まれてたのさ。お前の凍結睡眠は、討伐作戦のための備えだったんだ。もしあのとき、お前があの場にいたら、全滅させられたのは軍部だからな」

「俺にだってオートストッパーがある。俺がいたって変わらなかったんじゃねえのか」

「かもな。だがもしも、お前のオートストッパーを解除したら? 出力制限を課せられなくなったお前が細胞装置を使えば、誰も止めることはできない」

 エヴァンの頭痛は、ますます酷くなっていく。握った拳が熱い。掌に爪が食い込んで、皮膚を突き破りそうだ。

「う、嘘だ! 俺にそんな力はない! だいたい〈パンデミック〉っていうのは、メメント大量発生事件なんじゃなかったのかよ!」

「ああ、発生したよ。そりゃあもううじゃうじゃとな。あちこち死体だらけなんだ、当然だろ」

 サイファーはポケットに突っ込んでいた右手を出し、人差し指を立てて軽く振った。

「さて問題だ。なぜメメントは大量に発生したのか? メメントの発生条件は判明していない、と言われている。世界中のあちこちで起きている紛争現場において、どれだけ大量の人間が死のうが、一体もメメント化しないケースなんざ珍しくはない。なら、そういう場所と〈パンデミック〉との違いは、どこにあると思う?」

「そんなの……そんなの俺が知るかよ」

「だが、俺たちマキニアンは知るべきだと思わないか? 俺たちが今まで、何と戦ってきたのか」

 サイファーは左手もポケットから出した。何かを握り締めている。サイファーはそれを親指と人差し指でつまみ、エヴァンに見せた。

「それは……」 

 エヴァンとレジーニが、ジュール廃病院で入手した、銀色のカプセルによく似た物体だった。

 エヴァンの心の内を読んだのか、サイファーは「違う、お前のじゃない」と言った。

「あの廃墟でお前らが倒したメメントも、こいつによって生まれたもんだ」

「なんだって……?」

「答えは、この〈スペル〉の中にある。お前にも見せてやるよ」

 サイファーが右腕を伸ばした。その腕が複数に分裂し、縄のようにエヴァンの身体に巻きついた。

 エヴァンを絡め取ったサイファーは、大きく半円を描いて持ち上げ、地面に叩きつけた。 

「ぐあっ!」

 背中をしたたか打ちつけたエヴァンの肺から、空気が搾り出される。一瞬呼吸困難に陥り、エヴァンは喘いだ。

 すかさずその上にサイファーが圧しかかる。エヴァンは強引に口を開けさせられ、〈スペル〉をつまんだ指を口の中に突っ込こまれた。

 サイファーの指が、口の奥まで伸びる。〈スペル〉が喉を滑り落ち、エヴァンはそのまま飲み込んでしまった。

「な、何すんだテメェ!」

 エヴァンは咳き込み、なんとか吐き出そうとした。だがサイファーに首根っこをつかまれ、屋上の端まで軽々と引きずられた。 

「離せ! 離せこの……!」

 エヴァンは両手両足を振り回して抵抗した。右手でサイファーのゴーグルを鷲掴みにし、力任せに引き剥がす。

 ゴーグルが取り払われたサイファーの素顔が、ネオンの光に照らし出される。

 縫合されたように固く閉じられ、無数の傷が刻まれた両瞼を見たそのとき、エヴァンは違和感の正体を悟った。目が見えていないのだ。

 サイファーは歯をむいて不敵に笑うと、エヴァンの手からゴーグルを奪い返した。

「まあ楽しめ。夜は長いぜ」   

 言うやエヴァンを屋上の外に突き出し、夜の街に放り投げた。

 宙に放られたエヴァンは、ハンドワイヤーを起動し、ビルの壁に突き立てた。が、意識が朦朧としてきて、思うように身体が動かなかった。

 ハンドワイヤーはあっさりと壁から外れてしまい、支えを失ったエヴァンは、奈落の闇に落ちていった。

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