玄関に向かう前に、リビングにあるインターホンのディスプレイで、タイミングの悪い訪問者の顔を確認する。

 エヴァンだった。猿顔が画面いっぱいに映し出されている。彼の後ろにはアルフォンセが、所在無げに立っていた。

『レジーニ、いるか? 俺だよ俺』

 エヴァンにしては珍しい切羽詰った声が、スピーカーから発せられた。

『いるんなら出てきてくれ。ちょっと大変なことになったんだ。あいつがいたんだよ、あの赤ゴーグル野郎が。あの野郎、アルを連れて行こうとしやがった。おい、いるのかいないのか、返事しげふっ!』

 エヴァンの語尾が歪んだのは、レジーニが勢いよく押し開けたドアに顔面をぶつけたからだ。もちろん、狙ってやったことである。

 ドアを開けると、エヴァンがしかめっ面で額をさすっていた。

「玄関前でそういうことをペラペラ喋るな。猿が人間の住処まで何しに来た。山に帰れ」

 レジーニは毒を吐きつつ、山猿の背後に隠れるように立つアルフォンセを一瞥した。顔色が悪く、男物の黒いパーカーを羽織っている。おそらくエヴァンのものだろう。左袖にある腕章のようなピンクの迷彩柄には見覚えがある。

 アルフォンセの方もちらりとレジーニを見たが、気まずそうに会釈すると、すぐに目線を下に落とした。

「お前んちのドア硬え。さすが、無駄に八十階もある高層マンションはグレードが違うな」

 無駄に、は余計である。それに建物の階数とドアの強度は関係ない。

 ドアが硬いだの痛いだのと言いながら、エヴァンはほとんどダメージを受けていないようだ。打たれ強いマキニアンは、こういう時の反応が薄くてつまらない。

「ちょっと訳ありなんだ、入っていいか?」

 エヴァンが一人であれば、即座に追い返すところだ。だが、今にも倒れそうなアルフォンセが一緒となれば、少し融通を利かせてやらねばなるまい。 レジーニは仕方なく、二人を部屋に招き入れた。

「なあレジーニ」

「なんだ」

「お前、眼鏡は?」

「は?」

 唐突な質問に振り返ると、エヴァンが不思議そうな顔つきで、こちらを見ていた。

「かけてねえけど、見えんの?」

 しまった、とレジーニは内心で己の不注意を罵り、テーブルの上に置いたブランド物の眼鏡を掴んだ。

 本当は眼鏡をかける必要などないことを、今知られたくはない。

 レジーニが何事もなかったかのように眼鏡をかけると、エヴァンは愉快そうに笑い、興味津々とレジーニを眺めた。

「かけ忘れかよ。どんくさいとこあるな。それにしても、お前のそういう格好、ちょっと新鮮だわ」

 今のレジーニは、白のカットソーに黒いベストとチノパン、というラフな服装である。髪もセットしていないから、前髪が垂れたままだ。

 外出時は髪を整えた上に必ずスーツ姿なので、スーツしか着ない、というイメージを持っていたのだろう。

 誰にもプライベートの姿を見られたくないから、この部屋に客人を招いたことはなかったのに、よりによって最もデリカシーのない男の入室を許す羽目になるとは。

「部屋にいるときまでスーツ着てるわけないだろう。それより、何があったのか説明しろ。どうせ気づいてないだろうから教えてやるが、民間人の撮った動画に映ってるからな、二人とも」

 レジーニはエヴァンとアルフォンセを交互に指差し、テレビの電源を入れ、つい先程録画したばかりの映像を再生した。

 赤ゴーグルの男、サイファー・キドナと、後ろ姿のエヴァンとアルフォンセが映し出される。エヴァンが、ぺし、と自分の額を叩いた。

「ありゃー」

「ありゃーじゃないこの間抜け。ワーカーが表で目立ってどうする」

「仕方ねえだろ、アルを助けるためだったんだ」

 レジーニは、アルフォンセの様子をちらりと窺った。彼女はおとなしく、居心地悪そうに少し離れた場所に立っている。

 エヴァンの、勢いと熱意だけは伝わるもののまとまりのない説明によると、くだんの男サイファーは、図書館からアルフォンセを連れ去ろうとしていたらしい。それをエヴァンが追いかけて救出したという。

「図書館? お前、わざわざ彼女に会いに行ってたのか?」

「そのことなんだけどさ」

 エヴァンがアルフォンセを振り返った。彼女は視線に気づくと、ますます居場所がない、というように縮こまった。

 エヴァンはレジーニの腕を引き、部屋の隅まで移動した。声の量を落とし、アルフォンセを気にしながら、話を続ける。

「夕べ、アルフォンセが俺の部屋に入って来たんだ」

 思いもかけない一言だった。

「そんな大胆な子だったとは。物好きな」

「違う! そうだったらすげえ嬉しいし大歓迎だけど、違うんだ」

 エヴァンはジーンズのポケットに手を入れ、取り出したものをレジーニに見せた。ディプロフォームの身体から出てきた銀のカプセルだ。それを見た瞬間、レジーニの脳内で、欠けたピース同士が当てはまった。

「アルはこれが欲しかったんだよ。どうしてなのかは分からない。だから理由を知りたくて、図書館まで会いに行ったんだ。でも、話してくれなかった」

 レジーニにはもう、アルフォンセが銀のカプセルを欲する理由が分かっていた。先ほどのオズモントの話とつなぎ合わせれば、納得がいく。

 サイファーの狙いは、アルフォンセとそのカプセルだ。手に入れるために、再度襲撃してくるだろう。

 レジーニは頭の中でまとめ上げた推理を、今ここでエヴァンに明かす気はなかった。知ればこの馬鹿は、彼女を守るという信念に突き動かされるまま、勝手な行動をとるに決まっている。

 そういえば、とレジーニは思い出した。

「サイファーを知っている気がするようなことを言っていたが、実物に会って何か思い出したか?」

 この問いに、エヴァンは首を横に振った。

「いや、まだ全然。でも、向こうは俺を知ってた。マキニアンだってこともな。けど、今そのことはどうでもいいんだよ。俺はアルを守ってやりたいんだ。あの野郎が、いつまたやって来るか分かんねえだろ」

「それはつまり、お前が彼女のボディガードとして付き添う、という意味か」

「ああ」

「彼女はそれを望んでいると?」

「いや、それは」

 エヴァンは言葉を濁した。その態度から察するに、アルフォンセはエヴァンが差し伸べた手を拒否したようだ。それも道理か、とレジーニは思う。

 顔を合わせるのはこれが二度目で、まだ直接会話もしていない。アルフォンセ・メイレインという女性がどういう人物なのか、印象だけで決めつけることはできない。だが置かれている状況や、おそらくこうであろうと思われる性格を考慮すると、そう簡単に他人に寄りかかりはしないだろう。「これは自分の問題だから、他人を巻き込んではいけない」と、そう考えているのではないだろうか。

「彼女がお前に守られることを望むのなら、側についていてやればいい。ただその場合、正式に仕事として依頼してもらう必要がある」

「なんでそんな面倒なこと」

「当然だろう。裏稼業者はお役所の〈なんでも課〉じゃないし、ましてやボランティアでもない。ワーカーの労働力が必要なら、それ相応の手続きを取ってもらう。その場合、彼女の事情説明も必要だ。彼女の抱えている問題を把握した上で、こちらが関与すべきかどうかを見極める。彼女がそれらを拒むのなら、この話は無しだ」

「そんな事務的なこと言うなよ。女の子が狙われてるんだぜ? 守ってやろうって思うのが普通だぞ。仕事とか関係ねえだろ」

 エヴァンが食ってかかるのは予想通りだった。本当に分かりやすい男である。レジーニはため息をついた。

「ついさっき言ったばかりなのに聞いてなかったのか。裏稼業者はボランティアじゃない。ワーカーの労働力は、窓口から割り振られる仕事をこなすためにあるものだ。個人的な感情や理由だけで動くことはできない。彼女が正式に窓口に依頼し、事情説明に応じ、お前をボディガードとして雇う。これが正解だ」

 エヴァンはまだ、裏稼業者としての自覚が薄い。これまではそれでもどうにかやってこられたが、今回は状況が違う。エヴァンは感情に流されている。恋する相手の危機を、自分の手でどうにかしたいと躍起になっているのだ。


(馬鹿が)


 こちらを見る熱のこもった緋色の双眸を、レジーニは冷ややかに見下ろす。


(ワーカーが感情に流されれば、行き着く先は破滅だというのに)


 裏社会に身を置く者と、真っ当な表社会の民間人。安易に両者の垣根を越えてはならない。正式に雇い入れる契約を結ぶことで、両者を線引きするのである。 

 レジーニの冷徹さが気に入らないのか、エヴァンは表情を歪めて反論した。

「なんでお前はそう冷たいんだよ。いつも理屈ばっかりで、頭固くてさ。人を助けようって気持ちに、仕事だとかなんだとか、そんなの関係ねえだろ」

「一般人なら通用するだろうよ、その博愛的主張は。でも僕らは裏稼業者だ。精神論だけじゃやっていけない世界にいるということを忘れるな。元軍部所属者なら分かるだろう」

「だから余計に嫌なんだよ。軍も〈イーデル〉も、俺たちマキニアンを兵器としてしか見てなかった。俺たちは人間だ、道具じゃない。人間だったら、自分の気持ちや心を大事にするもんだろ」

「残念だが、裏社会ここでも感情論は命取りだ。そこまで言うなら、彼女に望みを訊けばいい」

 レジーニはつかつかとアルフォンセに歩み寄った。アルフォンセはびくっと肩を震わせ、怯えたような目で、レジーニを見上げた。

「アルフォンセ・メイレイン。君はあいつに守ってもらうことを望むか?」

「え?」

「僕らは裏で仕事を請け負っている。君が正式に依頼するというのなら、あの馬鹿を君のボディガードとして提供しよう。その場合、君が抱えている事情を全て明かしてもらう必要があるが、どうする」

「おいレジーニ、そんな言い方……」

 エヴァンが肩を掴んで抗議したが、レジーニはその鼻先に指一本突きつけて黙らせた。

 ここは大事な部分である。アルフォンセの覚悟がどれほどのものなのか、それを知るには、多少意地の悪い質問でも答えてもらわなければならない。

 彼女が首を縦に振るなら、それでいい。レジーニ自らヴォルフに口利きして、エヴァンを護衛につけられるように手配するくらいの手間は、かけてもかまわない。だが拒むのなら、もはやこちらの出る幕ではない。

 レジーニたちが現在請け負っている仕事の内容は、サイファー・キドナと、メメント多発との関係性を調査することだ。サイファーの企みを阻止せよ、というものではない。

 アルフォンセは両手をぐっと握り締め、レジーニを、そしてエヴァンを見た。

「い、言えません」

「なら、君がここにいる理由はないね」

「はい。お邪魔しました」

 アルフォンセは頭を下げ、玄関の方に足を向けた。

「アル、待って!」

 慌てたエヴァンは彼女を追いかけ、玄関ドアの前で引き止めた。そしてアルフォンセをその場で待たせ、猛然たる勢いで戻り、レジーニの襟首を掴んだ。

 緋色の瞳が、怒りと軽蔑で燃え上がっている。

 ああ、この目を知っている。レジーニはうんざりした。純粋で、真っ直ぐで、恐れを知らない目。自分が信じるものこそすべてで、できないことは何もないと思い込んでいる、若くて無垢で、愚かな目だ。


(だから嫌だったんだ)

 この青年と組むことが。


「お前……最低だな。それでも男かよ」

 怒りに染まったエヴァンの声色を聞くのは、これが初めてだった。メメント相手に吐く悪態でさえ、もっと軽快で余裕がある。

「性別は関係ない。ワーカーとして当然の対応をしたまでだ。手を離せ」

 レジーニはあくまでも、冷静さを保つことに徹底した。エヴァンはそんなレジーニを睨み続け、下唇を噛み締める。

「ひょっとしたら、本当はいい奴なんじゃないかって思い始めてたんだ。口は悪いけど、面倒見はいいんだろうって。俺が間違ってた。お前はマジで氷より冷たいクソ野郎だ」

「僕に何を期待してたんだ? 戯言は聞きたくないね。もう一度だけ言うぞ。手を離せ」

 エヴァンの目つきが、信じられないものを前にしたようなものに変わった。一瞬レジーニの心臓が、わずかに疼いた。

「そうか、分かった。もうお前には頼らない」

 エヴァンは突き飛ばすようにして、レジーニの襟首から手を離した。ゆっくりと後退し、やがて背を向ける。

 玄関のドアが開き、閉まる音がした。途端に室内は静かになった。

 レジーニは眼鏡を外し、今日何度目かのため息をつく。

「勝手にしろ」

 いなくなった相手に向けて呟く。

 眼鏡をテーブルに置き、再びコンピューターの前に座る。立ち上げたままになっていた画面を操作し、ストロベリーが送ってきたファイルを開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る