2
玄関に向かう前に、リビングにあるインターホンのディスプレイで、タイミングの悪い訪問者の顔を確認する。
エヴァンだった。猿顔が画面いっぱいに映し出されている。彼の後ろにはアルフォンセが、所在無げに立っていた。
『レジーニ、いるか? 俺だよ俺』
エヴァンにしては珍しい切羽詰った声が、スピーカーから発せられた。
『いるんなら出てきてくれ。ちょっと大変なことになったんだ。あいつがいたんだよ、あの赤ゴーグル野郎が。あの野郎、アルを連れて行こうとしやがった。おい、いるのかいないのか、返事しげふっ!』
エヴァンの語尾が歪んだのは、レジーニが勢いよく押し開けたドアに顔面をぶつけたからだ。もちろん、狙ってやったことである。
ドアを開けると、エヴァンがしかめっ面で額をさすっていた。
「玄関前でそういうことをペラペラ喋るな。猿が人間の住処まで何しに来た。山に帰れ」
レジーニは毒を吐きつつ、山猿の背後に隠れるように立つアルフォンセを一瞥した。顔色が悪く、男物の黒いパーカーを羽織っている。おそらくエヴァンのものだろう。左袖にある腕章のようなピンクの迷彩柄には見覚えがある。
アルフォンセの方もちらりとレジーニを見たが、気まずそうに会釈すると、すぐに目線を下に落とした。
「お前んちのドア硬え。さすが、無駄に八十階もある高層マンションはグレードが違うな」
無駄に、は余計である。それに建物の階数とドアの強度は関係ない。
ドアが硬いだの痛いだのと言いながら、エヴァンはほとんどダメージを受けていないようだ。打たれ強いマキニアンは、こういう時の反応が薄くてつまらない。
「ちょっと訳ありなんだ、入っていいか?」
エヴァンが一人であれば、即座に追い返すところだ。だが、今にも倒れそうなアルフォンセが一緒となれば、少し融通を利かせてやらねばなるまい。 レジーニは仕方なく、二人を部屋に招き入れた。
「なあレジーニ」
「なんだ」
「お前、眼鏡は?」
「は?」
唐突な質問に振り返ると、エヴァンが不思議そうな顔つきで、こちらを見ていた。
「かけてねえけど、見えんの?」
しまった、とレジーニは内心で己の不注意を罵り、テーブルの上に置いたブランド物の眼鏡を掴んだ。
本当は眼鏡をかける必要などないことを、今知られたくはない。
レジーニが何事もなかったかのように眼鏡をかけると、エヴァンは愉快そうに笑い、興味津々とレジーニを眺めた。
「かけ忘れかよ。どんくさいとこあるな。それにしても、お前のそういう格好、ちょっと新鮮だわ」
今のレジーニは、白のカットソーに黒いベストとチノパン、というラフな服装である。髪もセットしていないから、前髪が垂れたままだ。
外出時は髪を整えた上に必ずスーツ姿なので、スーツしか着ない、というイメージを持っていたのだろう。
誰にもプライベートの姿を見られたくないから、この部屋に客人を招いたことはなかったのに、よりによって最もデリカシーのない男の入室を許す羽目になるとは。
「部屋にいるときまでスーツ着てるわけないだろう。それより、何があったのか説明しろ。どうせ気づいてないだろうから教えてやるが、民間人の撮った動画に映ってるからな、二人とも」
レジーニはエヴァンとアルフォンセを交互に指差し、テレビの電源を入れ、つい先程録画したばかりの映像を再生した。
赤ゴーグルの男、サイファー・キドナと、後ろ姿のエヴァンとアルフォンセが映し出される。エヴァンが、ぺし、と自分の額を叩いた。
「ありゃー」
「ありゃーじゃないこの間抜け。ワーカーが表で目立ってどうする」
「仕方ねえだろ、アルを助けるためだったんだ」
レジーニは、アルフォンセの様子をちらりと窺った。彼女はおとなしく、居心地悪そうに少し離れた場所に立っている。
エヴァンの、勢いと熱意だけは伝わるもののまとまりのない説明によると、
「図書館? お前、わざわざ彼女に会いに行ってたのか?」
「そのことなんだけどさ」
エヴァンがアルフォンセを振り返った。彼女は視線に気づくと、ますます居場所がない、というように縮こまった。
エヴァンはレジーニの腕を引き、部屋の隅まで移動した。声の量を落とし、アルフォンセを気にしながら、話を続ける。
「夕べ、アルフォンセが俺の部屋に入って来たんだ」
思いもかけない一言だった。
「そんな大胆な子だったとは。物好きな」
「違う! そうだったらすげえ嬉しいし大歓迎だけど、違うんだ」
エヴァンはジーンズのポケットに手を入れ、取り出したものをレジーニに見せた。ディプロフォームの身体から出てきた銀のカプセルだ。それを見た瞬間、レジーニの脳内で、欠けたピース同士が当てはまった。
「アルはこれが欲しかったんだよ。どうしてなのかは分からない。だから理由を知りたくて、図書館まで会いに行ったんだ。でも、話してくれなかった」
レジーニにはもう、アルフォンセが銀のカプセルを欲する理由が分かっていた。先ほどのオズモントの話とつなぎ合わせれば、納得がいく。
サイファーの狙いは、アルフォンセとそのカプセルだ。手に入れるために、再度襲撃してくるだろう。
レジーニは頭の中でまとめ上げた推理を、今ここでエヴァンに明かす気はなかった。知ればこの馬鹿は、彼女を守るという信念に突き動かされるまま、勝手な行動をとるに決まっている。
そういえば、とレジーニは思い出した。
「サイファーを知っている気がするようなことを言っていたが、実物に会って何か思い出したか?」
この問いに、エヴァンは首を横に振った。
「いや、まだ全然。でも、向こうは俺を知ってた。マキニアンだってこともな。けど、今そのことはどうでもいいんだよ。俺はアルを守ってやりたいんだ。あの野郎が、いつまたやって来るか分かんねえだろ」
「それはつまり、お前が彼女のボディガードとして付き添う、という意味か」
「ああ」
「彼女はそれを望んでいると?」
「いや、それは」
エヴァンは言葉を濁した。その態度から察するに、アルフォンセはエヴァンが差し伸べた手を拒否したようだ。それも道理か、とレジーニは思う。
顔を合わせるのはこれが二度目で、まだ直接会話もしていない。アルフォンセ・メイレインという女性がどういう人物なのか、印象だけで決めつけることはできない。だが置かれている状況や、おそらくこうであろうと思われる性格を考慮すると、そう簡単に他人に寄りかかりはしないだろう。「これは自分の問題だから、他人を巻き込んではいけない」と、そう考えているのではないだろうか。
「彼女がお前に守られることを望むのなら、側についていてやればいい。ただその場合、正式に仕事として依頼してもらう必要がある」
「なんでそんな面倒なこと」
「当然だろう。裏稼業者はお役所の〈なんでも課〉じゃないし、ましてやボランティアでもない。ワーカーの労働力が必要なら、それ相応の手続きを取ってもらう。その場合、彼女の事情説明も必要だ。彼女の抱えている問題を把握した上で、こちらが関与すべきかどうかを見極める。彼女がそれらを拒むのなら、この話は無しだ」
「そんな事務的なこと言うなよ。女の子が狙われてるんだぜ? 守ってやろうって思うのが普通だぞ。仕事とか関係ねえだろ」
エヴァンが食ってかかるのは予想通りだった。本当に分かりやすい男である。レジーニはため息をついた。
「ついさっき言ったばかりなのに聞いてなかったのか。裏稼業者はボランティアじゃない。ワーカーの労働力は、窓口から割り振られる仕事をこなすためにあるものだ。個人的な感情や理由だけで動くことはできない。彼女が正式に窓口に依頼し、事情説明に応じ、お前をボディガードとして雇う。これが正解だ」
エヴァンはまだ、裏稼業者としての自覚が薄い。これまではそれでもどうにかやってこられたが、今回は状況が違う。エヴァンは感情に流されている。恋する相手の危機を、自分の手でどうにかしたいと躍起になっているのだ。
(馬鹿が)
こちらを見る熱のこもった緋色の双眸を、レジーニは冷ややかに見下ろす。
(ワーカーが感情に流されれば、行き着く先は破滅だというのに)
裏社会に身を置く者と、真っ当な表社会の民間人。安易に両者の垣根を越えてはならない。正式に雇い入れる契約を結ぶことで、両者を線引きするのである。
レジーニの冷徹さが気に入らないのか、エヴァンは表情を歪めて反論した。
「なんでお前はそう冷たいんだよ。いつも理屈ばっかりで、頭固くてさ。人を助けようって気持ちに、仕事だとかなんだとか、そんなの関係ねえだろ」
「一般人なら通用するだろうよ、その博愛的主張は。でも僕らは裏稼業者だ。精神論だけじゃやっていけない世界にいるということを忘れるな。元軍部所属者なら分かるだろう」
「だから余計に嫌なんだよ。軍も〈イーデル〉も、俺たちマキニアンを兵器としてしか見てなかった。俺たちは人間だ、道具じゃない。人間だったら、自分の気持ちや心を大事にするもんだろ」
「残念だが、
レジーニはつかつかとアルフォンセに歩み寄った。アルフォンセはびくっと肩を震わせ、怯えたような目で、レジーニを見上げた。
「アルフォンセ・メイレイン。君はあいつに守ってもらうことを望むか?」
「え?」
「僕らは裏で仕事を請け負っている。君が正式に依頼するというのなら、あの馬鹿を君のボディガードとして提供しよう。その場合、君が抱えている事情を全て明かしてもらう必要があるが、どうする」
「おいレジーニ、そんな言い方……」
エヴァンが肩を掴んで抗議したが、レジーニはその鼻先に指一本突きつけて黙らせた。
ここは大事な部分である。アルフォンセの覚悟がどれほどのものなのか、それを知るには、多少意地の悪い質問でも答えてもらわなければならない。
彼女が首を縦に振るなら、それでいい。レジーニ自らヴォルフに口利きして、エヴァンを護衛につけられるように手配するくらいの手間は、かけてもかまわない。だが拒むのなら、もはやこちらの出る幕ではない。
レジーニたちが現在請け負っている仕事の内容は、サイファー・キドナと、メメント多発との関係性を調査することだ。サイファーの企みを阻止せよ、というものではない。
アルフォンセは両手をぐっと握り締め、レジーニを、そしてエヴァンを見た。
「い、言えません」
「なら、君がここにいる理由はないね」
「はい。お邪魔しました」
アルフォンセは頭を下げ、玄関の方に足を向けた。
「アル、待って!」
慌てたエヴァンは彼女を追いかけ、玄関ドアの前で引き止めた。そしてアルフォンセをその場で待たせ、猛然たる勢いで戻り、レジーニの襟首を掴んだ。
緋色の瞳が、怒りと軽蔑で燃え上がっている。
ああ、この目を知っている。レジーニはうんざりした。純粋で、真っ直ぐで、恐れを知らない目。自分が信じるものこそすべてで、できないことは何もないと思い込んでいる、若くて無垢で、愚かな目だ。
(だから嫌だったんだ)
この青年と組むことが。
「お前……最低だな。それでも男かよ」
怒りに染まったエヴァンの声色を聞くのは、これが初めてだった。メメント相手に吐く悪態でさえ、もっと軽快で余裕がある。
「性別は関係ない。ワーカーとして当然の対応をしたまでだ。手を離せ」
レジーニはあくまでも、冷静さを保つことに徹底した。エヴァンはそんなレジーニを睨み続け、下唇を噛み締める。
「ひょっとしたら、本当はいい奴なんじゃないかって思い始めてたんだ。口は悪いけど、面倒見はいいんだろうって。俺が間違ってた。お前はマジで氷より冷たいクソ野郎だ」
「僕に何を期待してたんだ? 戯言は聞きたくないね。もう一度だけ言うぞ。手を離せ」
エヴァンの目つきが、信じられないものを前にしたようなものに変わった。一瞬レジーニの心臓が、わずかに疼いた。
「そうか、分かった。もうお前には頼らない」
エヴァンは突き飛ばすようにして、レジーニの襟首から手を離した。ゆっくりと後退し、やがて背を向ける。
玄関のドアが開き、閉まる音がした。途端に室内は静かになった。
レジーニは眼鏡を外し、今日何度目かのため息をつく。
「勝手にしろ」
いなくなった相手に向けて呟く。
眼鏡をテーブルに置き、再びコンピューターの前に座る。立ち上げたままになっていた画面を操作し、ストロベリーが送ってきたファイルを開いた。
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