TRACK-5 Don’t Open

 まどろみの中、心安らぐ柔らかな旋律が、耳の奥で囁いている。

 ソファに横になったまま薄く目を開ければ、ベランダの窓から注ぐ午後の陽射しが、部屋を明るく照らしていた。

 窓の縁に誰かが座っている。逆光で顔がはっきりと見えない。膝に何か抱えているようだ。輪郭からして、ギターだろうか。

 座っている人物が弦を爪弾つまびくと、ギターはほろりほろりと優しく歌う。思いつくまま、気の向くまま弾いているようなのだが、聴き続けていると、美しいメロディラインを築いているのが分かる。

 これは夢だ。白昼夢だ。いつの間にか、ソファで眠ってしまったのだ。でなければ頭がおかしくなったのだ。 

 弾き手はギターを鳴らすのに夢中なようで、こちらに顔を向けもしない。


(お前はいつもそうだった)


 彼女にとっての一番の存在は、果たして自分だったのか、それともギターだったのか、今でも判然としない。彼女はいつも音楽のことを考えていた。ギターのことを。

 どんな風に弾けばもっとよいメロディになるだろう。どうすれば今までにない曲が作れるだろう。アレンジのパターンを増やしたい。口を開けばそんなことばかり。

 深く熱く愛し合った夜を過ごしても、朝になって目を開ければ、隣にその姿がない。部屋を見回すと、ベッドを抜け出して部屋着姿でギターを弾いている。戻って来いと言っても聞きやしない。そんなことはしょっちゅうだった。

 やはり彼女にとっての最重要項目は、音楽だったのかもしれない。


(それでもよかったんだ)


 一番じゃなくてもいい。その次に自分が立っていられれば。

 側にいられるなら、隣にいてくれるなら、なんでもよかったのだ。

 あの頃は、こんな立派な部屋に住んでいなかったけれど。

 住む場所など、本当はどうでもいい。

 目を閉じると、彼女の姿が浮かび上がる。この陽射しのような、明るく温かい笑い顔が。

 目尻から一雫、頬を伝って耳を濡らした。

 涙など、とうの昔に枯れてしまったと思っていたのに。



 虫の羽ばたきのような音が響き、レジーニははっと目を開け、ソファから起き上がった。

 濡れた頬を掌で拭う。苦い気分が胸に広がった。

 またか、と、自分に対してうんざりする。いったいどれほど引きずれば気が済むのか。もう痛みを忘れてしまってもいい頃だ。

 だがそう思う一方で、忘れることは決してないだろう、とも自覚している。忘れられるはずがない。忘れるくらいなら、いっそ……。

 座り直し、眉間を右の親指と人差し指で摘む。口からはため息が出た。

 虫の羽音は、まだ続いている。耳で音を辿り、そちらに顔を向けた。

 音の正体は、テーブルの上の携帯端末エレフォンだった。マナーモードのバイブレーションのせいだ。

 ディスプレイに、発信者の名前が表示されている。レジーニは端末を手に取り、電話に出た。

「先生? 珍しいね、僕に直接掛けてくるなんて」

『やあレジーニ、急にすまない』

 電話をかけてきたのはオズモントだった。彼が自分から、こちらとコンタクトをとるのは稀なことだ。

 いつもならヴォルフを通している。それというのも、彼は正式には裏稼業者バックワーカーではなく、社会的地位も確かな堅気の人間だからだ。故あってヴォルフに、引いてはレジーニやエヴァンに協力しているものの、両者がつながっているということは伏せられた事実なのだ。堅気の人間が裏稼業者に直接連絡を取るなど、通常ならあるはずがないである。

「先生がこうして連絡をとってくるということは、何か重要なことでも?」

『うむ。君にはあらかじめ話しておくべきかもしれない、と思うことがあってね』

「例のカプセルの件?」

『いや。昨日、私の所に来ていた女性の件だよ』

 レジーニは、オズモント邸の先客を思い返した。ほっそりとした、おとなしげな美人だった。エヴァンが恋焦がれる相手だが、どう見ても「美女と野猿」だ。

「彼女がどうかした?」

『私の知人の娘だと紹介しただろう? その知人というのは……』

 そこでオズモントが語った内容は、レジーニにとっても驚くべき事実であると同時に、有益な情報にもなった。頭の中で、事件を調べて収集した情報と、たった今オズモントから聞いた話とが交差していく。

『少々できすぎた話だとは思うが』

 と、オズモント。

『事実というものは、得てしてそういうものなのかもしれん。私の知る限りはすべて話した。あとは君たちにまかせる』

「わかった。話してくれてありがとう」

『彼女のことを頼めるかね』

 旧友の娘を案じるオズモントの気持ちは分かる。だが、「まかせろ」と断言することはできなかった。少なくとも現段階では。それはオズモントも承知の上だろう。

 レジーニは一呼吸おいて、短く答えた。

「彼女次第だ」

 オズモントとの会話を終え、電話を切ると、すかさず別の番号からかかってきた。今度の相手はママ・ストロベリーだ。

「ストロベリー? 情報がそろったのか?」

『レジーニ、そのことなんだけど、ちょっとテレビつけてみなさいよ』

 ドラァグクイーンは、興奮を抑えきれない早口でまくし立てる。

「テレビ? なぜ」

『いいから早く早く! どこのチャンネルのニュース番組でもいいわ』

 訳が分からなかったものの、レジーニは仕方なくテレビのスイッチをオンにした。

 壁埋め込みタイプの大きな画面に、午後のニュース番組が映し出される。スタジオの様子ではなく、VTRが流れていた。街のどこかの往来だ。

 ストロベリーの様子からするに、相応の事態なのだろうと考えたレジーニは、念のために録画機能を作動させた。

 アナウンサーによると、映像はNCTに投稿されたもので、一時間ほど前の出来事であるそうだ。おそらく携帯端末で撮影したものだろうが、機種の手振れ補正の性能がよくないのか、画質が荒く、焦点が定まっていない。見やすいとは言えないが、状況を知るには充分だった。

 道路の中心を囲むようにして、人垣ができている。

 人々が取り巻いているのは、三人の人物だ。乱暴な停め方をしたワゴン車の前に一人の男が立ち、彼の反対側に二人の男女がいる。

 ワゴン車の前の男は長身で、かなり人目を引く風貌をしていた。その男を、レジーニはつい先日目にしている。何よりも特徴的な、赤いゴーグルを着用したその姿。

「あの男は……」

『見た? そう、あいつよ。名前はサイファー・キドナ。ほんのちょっと前に、グリーン・ベイに現れたみたいね。図書館から女の子を連れ去ったって情報が、アタシのところに入ってきたのよ』

 テレビに映っているのは、メメントを意図的に生み出している疑いのある、例の男に間違いなかった。

「……ちょっと待て」

 画面が切り替わり、赤ゴーグルの男サイファーと対峙する二人の男女を映し出す。寄り添うように立つ二人のうち、男の方は見間違えようもないほどになじみがあった。

「あの馬鹿! なんだってあんなところに……!」

 明らかにエヴァンである。撮影者の方に背を向けているが、見慣れた背格好から判断して、エヴァン以外に考えられない。とすれば、一緒にいる女性はアルフォンセか。

 端末越しに、ストロベリーの笑い声が聞こえる。

『小猿ちゃん目立っちゃってるわねー。どうもさらわれた女の子を助けに行ったみたいよ。なかなかやるじゃないあのコ』

「ストロベリー、笑ってる場合じゃない」

『小猿ちゃんの好きな子なんでしょ? いいわねえ、身体を張って助けに来てもらえるなんて。女冥利に尽きるじゃない。それよりどうする? 映像、NCTで拡散されるわよ』

「これ以上広がらないようにしてくれ。できる限り削除してもらえると助かる」

 裏稼業者が、公衆の面前で目立つような行動をとるなど、言語道断である。ましてやその一部始終が、ネットワーク上に流出するなどもっての外だ。

『わかった、まかせて。それと、サイファーに関してまとめたデータを、コンピューターの方に送っておいたわ。思った以上にやばい奴よ。気をつけて』

 ストロベリーの声色が、ワントーン落ちた。

『こいつを調べてみて、〈プレジデント〉がどうしてアナタたちに、今回の仕事をまかせたのかが分かったわ。大きな声じゃ言えないけどね。じゃ、もう切るわね』

 言ってストロベリーは、通話を終了した。

 レジーニは端末をポケットに入れる。テレビ画面を見ると、話題は次のニュースに移っていた。

 テレビを消し、コンピューターを置いてあるデスクに移動する。電源ボタンに触れると、画面は即座に立ち上がった。

 メールボックスを開き、ママ・ストロベリーからのファイル付きメールが届いているのを確認する。

 クリックして開封しようとしたそのとき、玄関からドアホンの音が聴こえた。肝心なときに邪魔が入るものだ。レジーニは舌打ちしつつも、デスク前から離れた。

 

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