4
エヴァンは道路に飛び出し、全速力でワゴン車を追った。すぐそばを通り過ぎた車両にハンドワイヤーを突き刺して、ジャンプで屋根に飛び乗る。そのまま、疾走する車の屋根やボンネットを次々と跳び越え、アルフォンセを乗せたワゴン車との距離を詰めた。
標的のワゴン車が、大きな交差点を左に折れる。エヴァンは左折する別の車両の屋根に飛び移り、追跡を続行した。
ワゴン車に乗っている男は三人。赤いゴーグルの男と運転手、あと一人は助手席に座っている。
ゴーグルの男はアルフォンセを押し倒し、彼女の両手首を広い左手一本で拘束した。
「〈スペル〉はどこだ」
「な、何のことを」
「しらばっくれても駄目だぜ。あいつから取り返したんだろうが。出せ」
アルフォンセは息を呑んだ。〈スペル〉を使って、意図的にメメントを生み出している者がいると、エヴァンが言っていたが、この男たちのことなのだ。
「い、嫌です」
実際には〈スペル〉は、エヴァンの手元に残したため、アルフォンセは持っていない。だが、仮に持っていたとしても、渡すわけにはいかない。
赤ゴーグルの男が、ふん、と鼻を鳴らして嘲笑った。
「嫌か。だろうな。言うと思ったよ」
男の右手がアルフォンセの襟を掴む。
「ちょいと調べさせてもらうぜ。どこかに隠し持ってるかもしれねえからな」
アルフォンセのシャツの胸元が乱暴に引き裂かれ、薄緑の下着に覆われた白い胸が露になる。
「いや! やめて! 触らないで!」
足をばたつかせて、精いっぱい抵抗したが、力で男に敵うはずもない。カーディガンは脱がされ、スカートをめくり上げられ、男の無骨な手が、荒々しくアルフォンセの身体中を這う。
恐怖と恥辱で、アルフォンセの目からは涙が零れ落ちた。
「あぁ?」
散々身体を弄んだ男は、忌々しげに舌打ちした。
「なんだよ、本当に持ってないのか。おいイアソン!」
言って助手席を蹴りつけると、そこに座る男が、顔だけを後ろに向けた。
「お前、この女が〈スペル〉を受け取ったところを見たと言ったよな」
「み、見たよサイファー。たしかにこの目で」
「ならなんでこいつは、〈スペル〉を持ってないんだ?」
サイファーと呼ばれた男の口調は、怒気を含んだものではない。だが、纏う雰囲気は殺気を孕んでおり、イアソンという男を言葉少なに威圧している。
イアソンは首をすくめ、小さな声で「す、すまねえ」と謝罪した。
「ふん、まあいい。そのうち向こうから持ってくるだろ」
やれやれと肩をすくめたサイファーは、再びアルフォンセの上に覆いかぶさった。
「おい、もう一度訊くぞ。〈スペル〉を持ってるのか持ってないのか、どっちだ」
「も、持ってません」
「そうかよ。なら、もう一つの要求に答えろ。フェルディナンドの研究資料を渡せ」
「ど、どうして……それを」
思いがけない名前が男の口から出て、アルフォンセは動揺を隠せなかった。
「お前の親父とは旧知の仲でな。あの野郎の遺品を、娘であるお前が引き取るのは当然だろう。資料を渡せ。そして父親の代わりをお前が務めろ」
「あ、あなたは……あなたが、まさか」
アルフォンセは、その先の言葉を続けることが出来なかった。あまりに恐ろしく、そして許しがたい事実が、目の前に提示されたのだから。
サイファーが不敵な笑みを見せた。
「哀れな最期だったぜ」
「なんてことを……許さない、人殺し!」
普段、声を荒らげることなどない娘が、悲痛な叫び声を上げた。持てる体力を振り絞り、辛うじて動く足でサイファーを蹴りつける。
「フェルディナンドは、確かに才能はあっただろうよ。だが賢くはなかったな。ちょっと知恵を絞れば、今頃健在だっただろうに」
アルフォンセは、怒りにまかせて力の限り抗った。たとえ無駄な抵抗であっても、父親を殺した男にいいようにされるのだけは我慢できなかった。
ところがサイファーは、その必死の抵抗を面白がり、まるで子どもを相手にしているかのように、軽くいなしてしまう。
「ああ、嫌だろうな。お前の父親もそうだった。だが結局、奴の反抗は無意味だった。お前はどうだ? いつまで抵抗できる? 人に言うことを聞かせる方法はいくらでもあるんだぜ。特に女は簡単だ」
サイファーの右手が、アルフォンセの腹を撫でた。男の指が肌の上でおぞましさで、吐き気を催す。何をされようとしているのか、考えなくても分かってしまった。
「やめて……お願い」
「おとなしそうな面して、身体は立派だな、え?」
「サイファー、あんまり車の中で変なことするなよ。気が散って運転しにくいだろ」
運転席の男が、ちらちらと振り返った。
「うるせえぞディエゴ。お前は黙って運転しろ」
ディエゴという運転手は、肩をすくめてため息をついた。
「分かった分かった。時間が押してるからハイウェイに乗るぜ」
ワゴン車が右折する。
直後、サイファーの表情に変化が現れた。眉根を寄せ、顔を明後日の方向に向け、何かに耳を澄ませている。
やがて、歯を剥いてにやりと笑った。
「ディエゴ、無駄だ」
「え、なんだって?」
「もう追いつかれた」
次の瞬間、ドン、という音と共に、何かがワゴン車の屋根の上に落ちてきた。
「うわあ! なんだ!?」
一番驚いたイアソンが声を上げる。運転中で前方から注意をそらせないディエゴは、バックミラー越しに後部座席を見た。
「何かが屋根の上に……」
イアソンが言い終わる前に、ワゴン車の屋根に穴が穿たれた。
アルフォンセの目が確かなら、屋根に開けられた穴から現れたのは、人間の手である。車の上に誰かが飛び乗り、あまつさえ素手で屋根に穴を開けたのだ。
信じがたいことだが、屋根の上の何者かは、穴の縁に両手をかけ、更に広げようとした。メキメキと音を立てながら、屋根の穴が徐々に大きくなっていく。
「何だよ! サイファー、何が起こってるんだ!」
混乱するディエゴとイアソンをよそに、サイファーは一人冷静だった。
「騒ぐなディエゴ。とりあえず振り落とせ」
屋根が破壊されつつあることなど、何の問題もないと言わんばかりである。
ディエゴがサイファーの指示通り、減速しないままハンドルを左に切った。ワゴン車は傾きながら、大きく半円を描く。周囲からけたたましいブレーキ音や、クラクションの大合奏が起こった。危険運転のワゴン車に対する抗議だ。
激しい遠心力で、屋根の上の人物は振り落とされたらしく、穴を掴んでいた両手が消えた。
ワゴン車が路肩に乗り上げた。停車するや否や、サイファーはアルフォンセを片腕に抱え、ドアを蹴り開けて外に出た。
周囲には、人が集まり始めていた。大事故を起こしかねない事態を引き起こした奴らが、どういう者たちなのかと、好奇の眼差しを向けてくる。
屋根の上にいたと思しき人物は、反対車線の歩道の上で、片膝をついていた。サイファーとアルフォンセが車から降りると、立ち上がり、道路の中央まで駆け寄ってきた。
その人物の正体に、アルフォンセは驚かずにはいられなかった。
走行する電動車の屋根に飛び乗り、素手で穴を開けたのは、つい先ほどまで一緒にいた青年だったからだ。
緋色の瞳が怒りでぎらついている。
「アルを離せよ、クソ野郎が」
エヴァンは、激しく燃えさかる怒りを全身で感じていた。これほどの怒りを覚えたのは初めてだ。
アルフォンセがさらわれたと分かったときも、もちろん許しがたい憤怒を抱いた。だが、彼女の姿を見た瞬間、その怒りは限界点を越えた。
彼女の服は乱れ、白い胸元が露になり、下着がわずかに見えている。更には、そんな姿のアルフォンセを、例の赤ゴーグルの男が抱きかかえている。
彼女をかどわかし、身体に触れ、乱暴を働いた。何もかもが許せない。
アルフォンセは、青ざめた顔でエヴァンを見ている。今すぐに助け出したいが、下手な動きをとれば、彼女への危険度も増してしまう。頂点を越えた怒りは、かえってエヴァンに冷静な判断をさせた。
「よう。来たな坊主」
赤いゴーグルの男は、軽い口調で言った。男の声を聞いた瞬間、エヴァンの記憶が揺さぶられる。
――坊主、お前、人を、
間違いない。自分とあの男は、過去に会っている。向こうもこちらを知っているようだ。だが、どこで会ったのか、そこまでは思い出せなかった。
しかし、男と面識があろうとなかろうとどうでもいい。今何よりも大切なのは、アルフォンセを救うことだけだ。
「何度も言わねえぞ。その子を離せ」
「カリカリするなよ坊主。十年振りじゃねえか。再会を喜ぼうぜ」
「ふざけんな。てめえなんか覚えてねえよ」
「本気か? この俺とお前の間柄だぞ? 忘れるとは薄情だな」
男がわざとらしく、嘆かわしげに首を振った。
「まあ、お前が死ぬわけがないとは思っちゃいたが、こんな所で会うとは予想もしてなかったぜ。いつ目が覚めた? 誰かに起こされたのか?〈SALUT〉がどうなったのか、もう知ってるか?」
エヴァンは、内心の動揺を悟られないよう、冷静さを保った。この男は、コールドスリープされていたことまで知っている。なぜだ。
「お前がグースカ寝ている間に、こっちはいろいろ大変だったんだぜ。話し出すと尽きないが、今は俺と昔話に花を咲かせる気はないんだろう?」
「当たり前だ。アルフォンセを返せ。そのあとぶっ飛ばしてやる」
「女を奪われたのが腹立たしいか、え? お前ともあろう奴が、女一人に躍起になるとはな。十年寝てれば、性格も変わるのかね」
「言ってる意味が分かんねえんだよ! アルを返せ、クソ野郎!」
エヴァンは
アルフォンセの目の前で、細胞装置を起動させてしまった。これでもう、普通の人間でないことがばれた。だが後悔している暇はない。彼女を助け出すためには、この
エヴァンの変形に驚いたのは、アルフォンセだけではなかった。なんと男も、呆けたように口を開いている。怪訝そうに眉を歪め、気配を探るように首を傾ける。
「おい坊主。その感じ……まさか〈イフリート〉か?」
この男は、どこまで自分のことを知っているのか。スペックの名称まで分かっているということは、マキニアンだということも承知である証だ。
「だったらなんだってんだよ」
答えると、男は眉尻を吊り上げた。
「ふざけるな!〈イフリート〉だと!?」
男が怒鳴った次の瞬間、一般人らの電動車が数台、空中に跳ね飛ばされた。
野次馬たちが悲鳴を上げる。宙に弾かれた数台の車は、そのまま地面に叩きつけられ、大破した。乗車していた人々が、ほうほうの体で運転席から脱出する。いくらか怪我は負っただろうが、命に別状はなさそうだった。
一瞬の出来事で、エヴァンの動体視力をもってしても、何か起きたのかまったく見えなかった。だが、男の仕業であることは間違いないだろう。
男は、先ほどまでの余裕ある態度から一変、歯を剥き出しにして怒りを表した。
「舐めた真似をしてくれるな坊主。〈イフリート〉? そんなオモチャで俺と
「オモチャかどうか、やってみりゃ分かるだろ」
「いいや、オモチャだね。そんな子どもだましの細胞装置なんざゴミだ」
「じゃあかかってこいよ。ゴミって言ったこと後悔させてやる」
男が乾いた笑い声を上げる。それから、抱きかかえていたアルフォンセを解放し、乱暴に突き飛ばした。
エヴァンは急いで駆け寄り、よろめいた彼女を受け止めた。アルフォンセは、変形しているエヴァンの両腕に驚きはしたが、その腕に触れられることは拒まなかった。
「やめだやめだ。お前がそんな調子で、楽しめるわけがない。せっかくお前が十年振りに目を覚ましたんで、これで少しは面白くなると思ったんだがな」
男が苛々と髪を掻きむしる。
「女に骨抜きにされて、〈イフリート〉でこの俺と喧嘩しようとするお前に用はない。時間をやる。少し頭冷やして来い」
「何言ってんだお前……?」
「いいか坊主。俺は本気のお前と戦いたいんだよ。そんなオモチャじゃなく、お前の本当のスペックでな。次に会った時、また〈イフリート〉なんぞ持ち出しやがったら、そこらへんの人間、手当たり次第に殺すぞ」
脅しではない、とエヴァンは直感した。この男なら、そのくらいは実行するだろう。
「肝に銘じておくんだな。次こそ本気を出せ。あのときのように、俺を殺しにかかってこい」
男は言い放つと、仲間が待つワゴン車に引き返し、乗り込んだ。ワゴン車は男が乗り込むと急発進した。野次馬たちは、人垣に構わず突っ込んでくるワゴン車を慌てて避けた。
人だかりの向こうに消えていく電動車を、エヴァンは呆然と見送る。
男が残していった言葉が、胸に突き刺さっていた。
――あのときのように、俺を殺しにかかってこい。
どういう意味だろう。自分とあの男は、以前戦った経験でもあるのだろうか。そんな強烈な出来事なら、いくらなんでも覚えているはずだが。
エヴァンには、あの男との一戦に関する記憶がなかった。
「エヴァン」
名前を呼ばれ、はっと我に返る。視線を落とすと、腕の中のアルフォンセが、潤んだ瞳でじっと見上げている。
男たちが去った今、周囲の野次馬たちは、好奇の的をエヴァンとアルフォンセに絞っていた。そのうち、いや、すでに誰かが警察に通報しているかもしれない。警察に目をつけられるのは避けなければ。衣服を乱されたアルフォンセを、人目に晒し続けるのも嫌だ。
エヴァンは急いで細胞装置を解除し、パーカーを脱いでアルフォンセに着せた。
「行こう」
小刻みに震えているアルフォンセの肩を抱き、人ごみを掻き分けて、エヴァンはその場を離れた。
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