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午後九時までの〈パープルヘイズ〉勤務を終え、アパートに帰宅したエヴァンは、玄関ホールで大家のキールマンと出会った。キールマンは温厚な壮年の男性で、アパート住人の中でも一番騒がしいエヴァンを、温かい目で見守ってくれる善良な大人の一人である。
キールマンは大きな荷物を抱えていた。それをアパートの自室に運び込もうとしている最中のようだった。
「キールマンさん、何やってんの?」
「やあエヴァン、おかえり。これ、修理に出していたテレビなんだ」
「部屋に運ぶの? 手伝うよ」
「いいのかい? ありがとう、助かるよ。じゃあ反対側を持ってくれるかな」
「平気平気、俺だけで運べるから」
エヴァンはキールマンの腕から、緩衝シートに包まれたテレビを取り上げた。予想通りの重量だが、マキニアンであるエヴァンにとっては、大した重さではない。
最低でも男二人がかりでなければ持ち上がらないほどのテレビを、エヴァンが一人で楽々抱えたものだから、キールマンはぽかんと口を開けた。
エヴァンは気のいい大家にウインクしてみせ、そのまま彼とエレベーターに乗り込み、部屋まで運んだ。
リビングのテレビ台への設置を完了すると、感心したキールマンがエヴァンに拍手を贈った。
「いやあ、若い人は力持ちだなあ。本当に助かったよ、ありがとう」
大したことはしていないが、感謝されるのは素直に嬉しい。
帰り際、キールマンの妻お手製のクッキーを一包み、お土産にもらった。このクッキーが絶品なのである。チョコチップ、オートミール、ピーナッツクリーム、ペカンナッツ。様々な風味のクッキーを、キールマン夫人はアンティークのクッキーカッターを使い、バラエティ豊かな形に焼き上げる。
味はもちろん、見た目も楽しい夫人の手作りクッキーは、エヴァンの好物のひとつだった。
大家夫妻におやすみを告げ、廊下に出たエヴァンは、お土産のクッキーをパーカーのファスナー付きポケットに突っ込んだ。
「あれ」
クッキーより先に入れていたものが、ない。
反対側のポケット、ジーンズのポケット。全身を叩いて、あらゆる場所を探った。クッキーを突っ込んだときに落としたかもしれないと、足元もよく見回した。それでも、ない。
「嘘だろ、マジかよ」
一瞬にして血の気が引いた。どこかに落としてしまったらしい。あの銀のカプセルを。
「やべえ! 失くしたらレジーニに殺される!」
間違いなく処刑される。
エヴァンは大慌てで来た道を戻り、エレベーターからアパートの玄関ホールまでの隅々を、くまなく調べた。
キールマンからテレビを預かる際、少し身体を傾けたので、そのときに落としてしまったのかもしれない。
テレビを受け取ったのは、アパートの入り口。そこから玄関ホールにかけて、這うように移動しながら慎重に探した。
探し始めてから数十分。銀色の小さな双円錐形は一向に見つからない。エヴァンの焦りはピークに達しようとしていた。と、そのとき。
「どうしたの?」
頭上から、慈愛に満ちた声が降ってきた。顔を上げると、アルフォンセが不思議そうな表情で、エヴァンの側に立っている。
オズモント邸での不可解な態度は、もう見られない。純粋に、エヴァンを案じてくれているようだ。
「なにか探し物?」
「あ、うん。ちょっと落し物を」
「どんな? このあたりで落としたの?」
しゃがみ込むアルフォンセ。
「一緒に探してくれるの?」
「二人で手分けした方がいいでしょう?」
それが当然であるかの如く、アルフォンセは言った。感激のあまり、彼女を抱きしめたくなる衝動にかられたエヴァンだったが、理性を振り絞って自重した。
「なにを落としたの?」
アルフォンセの顔が近くにある。彼女の身体からはフルーティないい香りがして、一度は持ち直したエヴァンの理性は、ぐらりと揺らぐ。
「え、えっとね、このくらいの大きさの、細い銀色のやつなんだけど」
エヴァンは親指と人差し指を使って、銀色カプセルの大きさを示した。顔だけでなく、指先までほてっている。
「小さいね。落とした所から、どこかに転がっていっちゃったかもしれないわ」
それからしばらく、二人で地面と睨み合い、小さな落し物の行方を探した。
こうしてアルフォンセと同じ作業をしているだけで、エヴァンの胸には幸福感が満ちてくる。このままこの幸福が続いてくれるなら、見つからなくてもいいかな。
そんな妄想は、脳裏にフェードインした相棒の鬼の形相によって瞬殺された。ともかくあれを見つけなければ、アルフォンセとの仲が進展するどころか、レジーニの手で人生フェードアウトになりかねない。
エヴァンが身震いしたそのとき、アルフォンセが「あ」と声を上げた。
「見つかった!?」
エヴァンは立ち上がり、彼女のいる場所まで急いだ。
アルフォンセは、アパート入り口近くの排水溝の側に立っていた。あんな所まで転がっていったとは。
果たしてアルフォンセの白い手の中には、あの銀のカプセルがあった。アルフォンセはカプセルを持ったまま、じっと食い入るようにそれを見ていた。
「あー! それだよそれ! 良かったー見つかって」
排水溝の中に落ちていたら、見つからないまま流されていたかもしれない。エヴァンは心底安堵した。
「これ、何? どこで手に入れたの?」
「え? あー……うーん、拾った」
聞かれるだろうとは思ったが、うまくごまかせる機転が利かない自分が恨めしい。だが、少なくとも嘘はついていない。〝拾った〟のは事実だ。拾ったものを必死で探すというのも、妙な話なのだが。
「探してくれてありがとう。助かった」
エヴァンが手を差し出すと、アルフォンセは少しためらいがちに、カプセルを掌に置いた。受け取ったカプセルをパーカーのポケットに入れ、もう落とさないようにファスナーを閉める。その一連の動作を、アルフォンセはじっと見つめていた。
「どうかした?」
声をかけると、彼女ははっとして首を振る。
「ううん、何も」
エヴァンはアルフォンセの反応に、昼間と同じような引っかかりを感じたものの、無理に追求しなかった。
そのまま一緒に、十二階までエレベーターで昇る。短いながらも二人きりの空間だ。エヴァンは内心有頂天だったが、隣のアルフォンセは終始黙っていた。
アルフォンセの部屋の前で別れる時、エヴァンはお礼にと、キールマン夫人のクッキーを彼女に譲った。素直に受け取ってくれたアルフォンセだが、やはりどこか上の空だった。
自宅に戻ると、ゲンブはすでに眠っていた。水槽の中で、甲羅に手足を引っ込めている子亀をしばし眺める。敷いている小石や陸用の石は、洗ったばかりなのでまだきれいだ。
毎週欠かさないバラエティ番組を見たあと、シャワーを浴びる。髪を乾かしながら、歯を磨く。
いつも通りの習慣をこなしつつも、頭の片隅にはアルフォンセの存在があった。
考えすぎだろうと思ったのだが、やはり今日のアルフォンセは、どこか様子がおかしかった。心配事でもあるのだろうか。困ったことがあるのなら、相談してくれればいいのに。
まだそこまでの信頼は、得られてないのだろうか。
その晩エヴァンは、悶々としながら、ベッドに潜り込むのだった。
安眠は、唐突に妨げられた。
暗闇に沈黙する部屋の中、目だけを動かして、ベッドサイドの電子時計を見ると、午前一時半を示していた。
何者かの気配を感じる。息を押し殺して、忍び足で室内を歩き回っているようだ。
エヴァンは寝たふりをしたまま意識を集中し、侵入者の気配を追った。
(泥棒か? 動き方が素人だな)
歩数が無駄に多い。あちこち行く方向に迷いすぎだ。
これでもかつては、軍部で訓練を受けてきた身である。このくらいの状況把握は可能だ。
侵入者の気配が、こちら側に近づいてきた。闇の中に、黒い人影が浮かび上がる。
エヴァンは音を立てず、身を低くしてベッドから這い降りた。
低い姿勢を保ち、侵入者の背後に回る。部屋の中は闇に包まれたままだが、気配を探れば、相手の位置を探るのは簡単だ。
侵入者は相変わらずうろうろしていた。おおかた金目の物が目当てなのだろうが、何を好きこのんで、こんな平凡なアパートの住人をカモに選んだのか。
しばし遠巻きに様子見していると、衣擦れの音がして侵入者の動きが止まった。
(今だ!)
エヴァンは音もなく侵入者に近づき、背後から羽交い絞めにした。
「てめえ! 人様の部屋に勝手に入ってんじゃねえ!」
首元と腰に腕を回した瞬間、ぎょっとして危うく侵入者を放すところだった。
驚いた原因の一つは、羽交い絞めにしたときに、相手が発した悲鳴がか細かったこと。もう一つは、身体つきが想像以上に華奢だったこと。そして、嗅ぎ覚えのあるフルーティな香り。
「え?」
腕の力が抜けた。拘束力が弱まった隙に、侵入者がエヴァンに体当たりした。エヴァンは受け身も取らずに尻餅をつく。侵入者はその脇を走り過ぎ、玄関から飛び出していった。
エヴァンは尻餅の体勢のまま、侵入者が去った玄関を呆然と見つめた。
「そんな……」
しばし呆けた後、のろのろと起き上がって、部屋の電気を点ける。
床に、昼間着ていたパーカーが落ちていた。
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