3
電動車が動き出すと、エヴァンは
たちまちレジーニが渋面になり、ハンドルを握ったままエヴァンを横目で睨んだ。
「こら。なんでいつも勝手に曲を流す。僕の車を私物化するんじゃない。止めろ、そんな軽薄な音楽」
レジーニの右手がカーステレオの端末に伸びる。エヴァンはすかさず、その手を払いのけた。
「軽薄ってなんだよ、かっこいいだろ。車ん中は、このくらい楽しい音楽がかかってた方がいいんだよ」
「免許も持ってない奴が運転環境を語るな。止めないと外に叩き出すぞ」
「止めてもいいけど、俺の質問に答えろよ。さっきの続きで……」
「やめろ。くだらない」
「デートってのは、どうやって誘えばいいもんなんだ?」
「まだそんなことでぐだぐだ悩んでるのか。どうせ信用が落ちてるんだから、なにをやっても無駄だ」
苛立つレジーニに、エヴァンは勝ち誇った笑みを返した。
「ふふふ……、それがだな。昨日仲直りしたんだよ! 誤解が解けたんだ。わざわざ俺に会いに店に来てくれたんだぜ。これからは気兼ねなく、おはようからおやすみまで声をかけ合えるし、そのうち部屋の行き来とかするようになるかもしんねーぞ」
「そのまま押し倒して、今度こそ完膚なきまでに嫌われてしまえ」
「なに言ってんだ、押し倒すのはまだ早ええ!」
「予定には入ってるわけか」
ゆくゆくは正式な恋人同士になりたいという願いはある。だがそこに至るまでには、ちゃんと段階があるのだということも、エヴァンなりに理解しているつもりだった。
ところがその段階を、どう踏めばいいのかが分からない。仲直りできたのはつい昨日だ。これから徐々に距離を縮めていく必要がある。
もっと会話を重ねて、お互いをよく知らなくてはいけない。エヴァンとしては、すぐにでも交際を始めてもなんの問題もないが、繊細そうなアルフォンセはそうもいくまい。エヴァンが普通の人間でないことも、いつか明かさなければならないかもしれない。恋人には隠し事をしたくない主義だ。恋人がいた経験がなくとも、主義を持つことに罪はない。
エヴァンの脳内シミュレーションでは、これから順調に仲が深まることになっている。他愛のない会話を交わし、お互いを理解していく。デートを繰り返し、告白して恋人として成立。さらに二人の距離は縮まり、お互いの部屋を行き来するようになり、やがて唇と唇が近づいて――。
「うおおおおおやっべえええええそこはまだ早いっすよおおおお!」
「うるさーいッ! 自分の妄想で暴走するな!」
感情が高ぶるのにまかせて、ばんばん窓を叩いていたエヴァンは、信号で停車した瞬間に、横っ面を思いきり殴られた。
「デートしたけりゃ食事にでも誘え! さっさと音楽を止めろ!」
レジーニが問答無用でカーステレオにセットされた端末をむしりとった。そのままエヴァンに投げつける。音楽が失われた車内は、途端に静かになった。
エヴァンは殴られたことや端末を投げられたことは意に介さず、引き続き思案する。
「食事かあ。やっぱりオシャレなレストランとかカフェなんかがいいんだろうな。女の子、そういうの好きだもんなあ。でも俺、サウンドベルの店しか知らねえしな。おっさんとかおばちゃんがやってる大衆食堂ばっかりだし。うまいんだけど。そんなのでもいいかな?」
「僕に訊くなと言ってるだろ」
「なんだよ教えろよ。いい店たくさん知ってんだろ? やっぱり音楽かけていい? 静かすぎて居心地悪いんだけど」
「お前の居心地なんか、この世の終わりまでどうでもいい」
「俺の選曲がダメなら、お前のでもいいから。でもクラシックは勘弁な。眠っちまう」
「人と話を噛み合わせようとしない猿なんか永遠に眠ってろ」
レジーニは雑言を吐きながら、自分の端末をカーステレオにセットした。
「お前とは、とことん趣味が合わないらしい。実に喜ばしいことだ」
スピーカーから、重厚な弦楽器の演奏が流れ始めた。ゆっくりとした、川のせせらぎのような優しい音だ。クラシックかよ、とエヴァンがうんざりしたその時。
曲調が一変した。重厚なドラム、繊細且つメロディックなベースライン。叫ぶようなギターが、曲全体のテンポを速める。そして聴こえてくるハイトーンヴォーカル。
「プログレメタルっすかレジーニさん!?」
人の趣味を見た目で決めてはならないと、エヴァンは学んだ。
レジーニの電動車が、サウンドベルの隣区イーストバレーに入った。区内を縦断するネルスン運河に架かるエルマン・ブリッジを渡り、中央通りを抜ける。
繁華街を通り過ぎ、到着した場所は飲み屋街だった。
日暮れから夜間にかけて営業する店が多いため、昼日中の通りは閑散としている。通行人もまばらだ。
今はこのように静かだが、夜を迎えればたちまち目を覚ます。昼間の静寂とは打って変わって、酒とタバコと、女たちの香水の匂いで満たされるのだ。
レジーニが電動車を停めたのは、派手な外装のバーの前だった。電源が落とされた電飾看板には、〈プレイヤーズ・ハイ〉と書かれている。
車を降りたエヴァンは、入り口の自動ドアの上に掲げられたその看板を見上げた。
「なあ、ここに何の用があるんだ? 今閉まってるんだろ」
ドアにはめ込まれたディスプレイには、「CLOSE」と表示されている。
レジーニはエヴァンの疑問には答えず、ドアの前に立つ。センサーが反応し、ドアがスライドして開いた。
相棒の片足が、店内に一歩踏み入る。次の瞬間、大きな影が店内から現れ、彼に襲いかかった。
襲撃者に気づいたエヴァンは、レジーニに危機を告げようと口を開きかける。だが、警告の必要はなかった。
レジーニは襲撃者の攻撃をかわしながら相手の片腕を掴み、背後に回ってひねりあげた。敵はすかさず、その場で回転することで腕を開放する。逆にレジーニの腕を掴み上げ、床に叩きつけようとした。
レジーニは両足が床についた瞬間、片足を軸にして、敵に足払いを見舞う。大柄な胴体が、豪快に倒れた。
すみやかに立ち上がったレジーニは、倒れた敵の背中を踏みつける。踏んだ瞬間、敵の喉から妙に艶っぽい喘ぎ声が漏れ出た。
「そういう出迎えはやめろと、再三言ってきただろうが。殺すぞ」
「だって、こうでもしないと触れないじゃない。レジーニったら、意外とガードが堅いんだもの」
相棒が踏みつけにしている人物から発せられたのは、女口調で話す野太い男の声だった。
「オ、ネエ……サン?」
驚いたエヴァンが思わず口にすると、レジーニの足の下から這い出てきた人物が、じろりと睨みつけてきた。
「気安くオネエなんて呼ばないでちょうだい。アタシは由緒正しい〈プレイヤーズ・ハイ〉のドラァグクイーンなのよ」
立ち上がった彼――彼女の背はレジーニよりも高く、おそらく百九十センチは超えている。髪は豊かに波打つホワイトブロンド。引き締まった身体つきは、アスリートのようにたくましく、均整がとれていて美しい。身にまとう服はフリルのついた白いシャツと、シフォンのスカート。ヒールの高いブーツを履いているために、長身による威圧感が増している。
ドラァグクイーンと自称するにふさわしく、メイクはかなり派手だ。まばたきするたびに、アイシャドウのラメがキラキラと星空のように輝く。頬骨の高い顔立ちは男そのものだが、立ち居振る舞いは優雅で女性らしい。
エヴァンは、頭一つ分近く身長差のあるドラァグクイーンを、好奇と畏怖の混ざった目で見上げた。本物の女装家を見るのは初めてなのだ。
ドラァグクイーンの方も、興味深そうにエヴァンを見下ろす。人差し指を、真っ赤な口紅を引いた下唇にあてながら。
「ねえレジーニ、この小猿ちゃんはどこの子? ひょっとしてアナタのパートナー? アタシを差し置いて、ついにこっちに目覚めたの?」
「自慢の鼻を整形前に戻したくないなら、滅多なことは言わない方が身のためだストロベリー。そもそも君なら、そいつが誰だかもう分かってるだろう」
「んもう! アナタとの会話を楽しみたいっていう、アタシの切ない気持ちを汲んでくれたっていいでしょうに! それにしても試用期間を設けたとはいえ、よく誰かと組む気になったわねえ」
ストロベリーと呼ばれた彼女は嬉しそうに笑い、大きな右手をエヴァンに差し出した。
「レジーニの相棒君。はじめまして、アタシはママ・ストロベリーよ」
「お、おう。俺はエヴァン・ファブレル。よろしく」
ちょっと気圧されるものの、どうやら人柄は良いらしい。エヴァンが握手に応じると、ママ・ストロベリーの表情が綻んだ。
「んふ。お肌スベスベね」
親しげな笑顔のはずだが、なぜかエヴァンの背筋はぞくっとした。
「え、えっと、二人って友達なのか?」
エヴァンは相棒とドラァグクイーンを交互に見た。答えたのはストロベリーだ。
「向こうはどうだか知らないけれど、アタシは友達だと思ってるわ。付き合いも短くはないしね」
ストロベリーが流し目を送ると、レジーニは「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「へー。俺と知り合う前のレジーニか。興味あるな。だって自分のこと全然話してくれねえもん」
「そうでしょうね。アタシがお話ししてあげてもいいんだけど、後が怖いから遠慮させてもらうわ」
レジーニを怒らせたくないのは、彼女も同じらしい。
ママ・ストロベリーは腰に両手を当て、レジーニの方に身体を向ける。
「それで、レジーニ。半年ご無沙汰してて突然やってきたのは、単にアタシの顔を見たくなったからってわけじゃないんでしょ?」
「当たり前だろう。こっちは仕事で来てるんだ」
「ほんと、つれない人。情報が欲しいときだけ頼って、都合のいいように使うのね」
「情報?」
エヴァンが首を傾げると、今度はレジーニが答えた。
「ストロベリーは情報屋だ。独自のネットワークを持っていて、たいていのことなら調べられる」
「じゃあ、あんたも裏稼業者ってことか」
ストロベリーは誇らしげに微笑み、右手で髪をかき上げた。
「そうよ。アタシの元に来れば、ありとあらゆる情報を提供してあげる。依頼があれば、どんなことだって調べてくるわよ。ただし、その分高くつくけれどね」
「そっか。例のあいつことを聞くためにここに来たんだな、レジーニ。じゃあさ、ちょっと調べてほしい奴が……」
エヴァンが事情を説明しようとすると、ストロベリーは人差し指をエヴァンの唇にあて、言葉を遮った。
「はいストップ小猿ちゃん。情報提供をご所望なら、ここから先はビジネスよ。ビジネスはギブアンドテイク。欲しいものがあるのなら、相応の見返りをいただかなくてはね」
「お代ってわけだろ? タダで情報くれなんて、さすがに俺だってそんなこと言わねえよ」
エヴァンはストロベリーの指を払い、にやっと笑う。裏社会の取引らしい雰囲気になってきたと、気分が少し高揚した。
「あんたの情報には、いくら払えばいいんだ?」
「フフ、小猿ちゃんたら背伸びしたいのね。かわいいじゃない。大人の世界にはいろいろあるのよ。アタシはね、いちげんさんお断りなの。ちゃんと信用のできる相手じゃなければ仕事しないわ」
「じゃあ俺はパスだろ。レジーニの相棒なんだし」
エヴァンが両腕を広げると、ストロベリーはいたずらっぽく口の端を歪めた。
「誰かの相棒だからってだけじゃダメよ。アタシ自身が、信用できる相手かどうかを見極めないと。裏社会は表社会以上に、信頼関係がものを言うんだから」
「じゃ、どうすりゃいいってんだよ」
「そんなの決まってるじゃない。肌と肌との触れ合いよ」
「は?」
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