TRACK-3 プレイヤーズ・ハイ
1
「おっはようゲンブ! 今日もいい天気だぞ」
うきうき気分で、かわいい我が子亀ゲンブの水槽を、いつものように窓際に移す。ゲンブがのそのそと陸地に上がってくる様子を見ながら、少し大きくなったかなと、しばし父親のような気持ちに浸る。
小亀との出会いは偶然だった。レジーニと組み、
メメントは無事に倒したが、その過程でエヴァンは毎度のごとく暴走行為に走り、レジーニの逆鱗に触れてしまった。結果、怒れる相棒のハイキックによって、下水道に蹴落とされ、その先のネルスン運河まで流された。マキニアンでなかったら、死んでいたかもしれない。
なんとか河川敷に這い上がったのだが、そのとき着ていたパーカーのフードに、小さな亀が入り込んでいた。それがゲンブである。
どういう経緯を経れば、広いネルスン河の片隅、亀の子がパーカーのフードに入り込むことがあるのか。相当な低確率であることは間違いないだろう。
こういうのも縁なのか、とエヴァンは思った。亀の子を掌に乗せた途端、そのつぶらな目に情が移ってしまい、そのまま飼うことにしたのである。
出かける支度を済ませ、ゲンブに留守番を頼み、部屋のドアを開ける。
数秒後に、向かいのドアも開いた。パステルカラーのスカートが、ひらりと揺れる。
「おはよう!」
片手を上げて声をかけると、アルフォンセがドアを閉めつつ笑顔を向けてくれた。
「おはよう」
エレベーターの到着を一緒に待つ。朝からこんなに幸せを感じたことはない。
アルフォンセからは、ほのかに花の香りがした。控えめながらも甘い香りに本能が刺激され、少しだけ理性がぐらついたが、なんとか己を保った。紳士的な振る舞いにも、案外と精神的努力が必要らしい。
「そういえば、なんの仕事してるんだ? ……アルフォンセ」
初めて名前を呼んだ。ただ名前を呼ぶだけなのに、緊張してしまう。
アルフォンセはエヴァンを見上げ、柔らかく微笑んだ。
「グリーンベイにある市立図書館で司書をしてるの。本は好き?」
「本って、紙の? いやあ、電子書籍も読まないからなあ。紙の本なんて、今あんまりないよね」
エヴァンが眠気を催さずに活字を追えるのは、コミックスだけである。
電子書籍が主流の現在では、紙媒体の書籍はとても貴重なものとして扱われている。古い時代の名著などは、コレクターの間で高額取引が交わされるほどだそうだが、エヴァンには理解しがたいことだ。
今と昔とでは、紙書籍をめぐる事柄が大きく変わっているという。図書館の在り方も、昔とは少々違うらしい。エヴァンは図書館を利用したことがないので、そのあたりの事情はよく知らない。
「今は書籍と言えば電子書でしょう? 昔のような紙媒体のものは、もう作られていないの。触れたこともないという人も多いわ。だから図書館で保管されている紙書籍は、とっても重要な文化財でもあるのよ」
「へー」
何気ない会話が嬉しい。本がとても好きなのだろう。深海のような青い目を輝かせて語るアルフォンセは、生き生きとしていて綺麗だ。ずっと見ていても飽きない。
エレベーターが到着し、ドアが開いた。乗り込もうとしたそのとき、エヴァンはいきなり何者かに突き飛ばされ、近くの壁に激突し肩を強打した。
「
肩をさすりながら犯人を睨む。制服を着た小柄な人物が、ちゃっかりアルフォンセと並んでエレベーターに乗っていた。
「あんた今、こっそりアルに触ろうとしてたでしょ! いやらしい!」
エヴァンからかばうように、アルフォンセの前に出たマリーは、軽蔑の眼差しで睨み返してきた。
「そんなことしてねーよ! 何言ってんだお前!」
「馬鹿なんかにアルはもったいないんだからね。ばいばーい」
マリーはエレベーターの開閉ボタンを押し、ドアを閉めた。慌ててエレベーターに駆け寄るも、時すでに遅し。最後にエヴァンが見たのは、「べー」と小さな舌を出すマリーと、状況が掴めていない、それでいてエヴァンを気遣うような、アルフォンセの戸惑いの表情だった。
無情にもドアは閉まり、エレベーターはエヴァンを置き去りにして降下を始める。
「あのガキは俺に何の恨みがあるんだ!!」
せっかくの二人きりになれるチャンスを奪われたエヴァンは、髪を掻きむしり、腹の底から吠えた。そして、近くの部屋に住む住民に怒られた。
エレベーターに追いつこうと、言葉通り飛ぶような勢いで階段を駆け下りたが、一階の玄関ホールに着いたときには、エレベーターはもぬけの殻だった。
玄関から外に出て周囲を見回せば、遠く横断歩道の向こうで、姉妹のように仲良く手をつないで道を歩く、美女と美少女の後ろ姿を発見したのだった。
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